第16話 二人きりの家と、抗えない引力
会話が、途切れた。
母さんのいなくなった家の中はやけに静かで、自分の心臓の音まで耳に届いてきそうなほどだった。その沈黙に耐えきれず、俺はどうにか声を絞り出す。
「……とりあえず、課題やろっか? 二人でできる場所って、リビングくらいしかないけど」
今日、栞がうちに来た名目は、課題を一緒にやること。なら、この提案は間違っていないはずだ。
「そう、だね。……でもその前に──」
栞は言い出しにくそうに言葉を切り、口元に手を当てて上目遣いで見上げてきた。
「……涼のお部屋、見てみたいなぁって」
「え……俺の部屋?」
「うん。せっかく来たんだし、普段涼が過ごしてる場所、見てみたいの。ねぇ……いい、でしょ?」
おねだりをするようなその視線に、目眩がしそうだった。栞の声も、言葉も控えめなのに、抗えない。
気付けば、栞に操られるように、俺はリビングに向けかけていた足を、階段に向けている。
「……こっちだよ。俺の部屋、二階だから」
栞は静かに後ろについてくる。二人分の足音が、軽く、重く、階段に響いた。
二階に上がってすぐ右のドア。そこが俺の部屋だ。ドアノブを引き、栞を招き入れる。
「ほら、ここだよ」
「……ここが、涼の」
栞は噛み締めるように呟きながら、視線をぐるりと巡らせた。
「お部屋、結構綺麗にしてるんだね」
「いや……昨日必死で片付けただけだよ。いつもはもう少し散らかってる」
「あ……。それって──私が、来るから?」
「……うん、まぁ」
こんなこと、言わなくてもいいはずなのに。けれど、なぜか隠せなかった。
俺の部屋に、他人がいる。
俺の初めての友達で、好きな女の子で。
急に、とびきり可愛くなった栞がいる。
普段は俺しかいない空間に、たった一人加わっただけで、心が落ち着かなくなる。
「……そっか。私のためなんだ」
栞が小さくもらした声が、部屋の空気に溶けて消えていった。
汚い部屋を見られたくない、という見栄も確かにあった。でも一番は、栞が不快にならないようにって、ただ、それだけで。
昨日、栞が髪を切りに行っている間も、たぶん俺は無心で掃除をしていて──
……あれ。
じゃあ、栞が髪を切ったのも、もしかして。
いや、それはさすがに考えすぎか。
それでも、心のどこかで期待してしまっている自分がいた。なのに、確かめる勇気が出ない。
この期待が崩れるのが、怖くて。
「──う?」
不意に、なにかがちょんと肩に触れた。
「ねぇ、涼ってば」
「えっ……あ、なに?」
気が付くと、栞が指先で俺の肩に触れていた。
「もう……何回も呼んでるのに。どうしたの、ボーッとして。お外の暑さにやられちゃった?」
「なっ、なんでもないよ。大丈夫だから」
「そう? ならいいけど」
「それで……なんだった?」
「あ、うん。あのね……色々、触っても、いいかな? 本棚とか、見たことない本あったし」
「……構わないよ。でも栞の趣味とは合わないかも。本棚には漫画とラノベくらいしかないから」
「ううん、それでもいいの」
トンッと軽やかに、栞は俺から離れて本棚の前に向かう。本の背表紙を指で撫で、たまに気になる一冊を引き抜いてはページをめくったりして。
その何気ない仕草のひとつひとつが、やけに新鮮で、目に焼き付く。
俺はベッドに腰掛けて、栞のすることを眺めていた。
栞は五分くらいかけて部屋の中を見て回り、一息ついて俺の前に戻ってきた。
「ありがと、涼。それと、ごめんね。退屈だったよね」
「……別に平気だよ。ちょっと緊張はしたけどね」
なんとなく、心の中を覗かれているような気がして落ち着かなかった。
けれど、栞が俺のことを知ろうとしてくれている。それが、素直に嬉しかった。
「あっ、もしかして──えっちな本でも隠してあったんでしょー?」
「ないないっ! ないからっ!」
「えー? 本当かなぁ?」
栞の大きな瞳で見つめられると、胸が騒ぐ。
俺は慌てて立ち上がり、一足先に部屋から廊下へと出た。
「そういうのいいから! ほら、満足したなら課題やるよ。リビングはこっち!」
「ふふっ、はぁい」
栞が笑うとくすぐったくて、笑顔が眩しすぎて、直視できなくなってしまった。
再び一階に戻り、リビングへ。ローテーブルの前に腰を下ろすと、栞も迷わず俺の左隣に座った。
図書室での配置と同じ。やることも勉強。少しだけ、いつも通りに戻れた気がした。
「とりあえず、一時間くらいは頑張ろっか? それくらいなら、涼も集中力もつでしょ?」
「……たぶん?」
「たぶんじゃダーメっ! 頑張って、早く終わらせるの。面倒くさいものは、さっさと片付けちゃうに限るんだから」
「わかったよ」
俺たちは並んでテキストを開き、課題に取りかかった。
しばらくはお互いに無言で、ペンを走らせる音だけが静寂を染めていた。
それでも、一時間が目前に迫ってきたあたりから、しだいに栞の呼吸のリズムが気になるようになってくる。
ふと横を見ると、目が合った。栞はかすかに笑みを浮かべて、俺をじっと見つめていた。
「……どうしたの?」
「そういう涼こそ」
「いや、栞がうちにいるんだなって」
「いるよ。へへ……なんだか、照れるね?」
栞がはにかむ。目元が隠れていた時より、ずっと可愛い。
「うん。……って、栞もなんだ?」
「そりゃそうだよ。だって、男の子のおうちなんて、初めてだもん」
「俺も……女の子が家に来るなんて、初めてだよ」
短い沈黙。
「じゃあ……初めて同士だね」
「……そう、だね」
やばい。
直視できないくらい心臓がうるさいのに、栞の引力が強すぎる。俺の視線は、栞の澄んだ瞳に吸い込まれていく。
「ねぇ、涼……」
小さく名前を呼ばれる。
「……なに?」
「えっとね──」
くすりと、栞が笑う。そして、わずかに腰を浮かせ、ほんの数センチ、俺との間を詰めた。
肩が触れるほどじゃない。けれど、お互いの袖口がかすかに擦れる距離。
時間が、止まったような気がした。
意識しないようにと思うほど、栞の甘い香りが肺に満ちる。ほんのりと感じる栞の体温が、俺の肌を焼くようで。
俺の手からペンがこぼれ落ち、ノートの上でカタンと音を立てた。




