第125話 やり直しと、初めての言葉
「ねぇ、涼」
名前を呼ぶ栞の声に、俺は喉をごくりと鳴らした。
なぜか、ここから先は一語一句聞き逃しちゃいけないような気がして、勝手に背筋が伸びた。そんな俺を見て、栞はくすりと笑う。
「ふふっ、そんなに構えないでよ。言いだしづらくなっちゃう」
「いや、だって……栞が真剣な顔するから」
「そりゃ、するよ。あのね、涼──こないだ涼がプロポーズしてくれた時、私、中途半端な気持ちで返事しちゃって。だから、その……やり直させてほしいの。今度は、私から言うから」
栞はぴしっと姿勢を正して、ベッドの上に正座した。
「……わかったよ。聞かせて」
頷きを返すと、栞は目を閉じ、大きく息を吸った。それを吐き出すとともに目を開いて、ベッドの上で、きれいな所作で三つ指をついた。
「私も、いつまでも涼と一緒にいたいです。こんなすぐ悩んじゃう私だけど、これからも涼の隣にいさせてください。私、涼が喜んでくれるように、たくさん、たくさん笑顔見せるから。だから──」
迷いのない声だった。
あの日の返事も、十分に嬉しかった。けれど、今回はそれとは比べものにならない。
俺はそっと、栞の頬に手で触れた。
「栞。だからって、無理に笑わなくてもいいんだよ。辛い時は辛いって言ってよ。でも、それをちゃんと俺にも分けて。その代わり、嬉しいこととか、楽しいことも分けてほしい。こないだ俺が言いたかったのは、そういうことなんだ。支え合うって、そういうことだと思うから」
「……うん。私、勘違いしちゃってたみたいだね」
「ううん。俺もあの時はいっぱいいっぱいで、栞がどう受け取るのか考える余裕もなくて。だから、俺からももう一回言うね。栞──この先いつまでも、俺の隣にいてください。ずっと、一緒だよ」
「……はいっ」
栞はまた、笑ってくれた。さっきよりももっと、心の底からこみ上げてくるような笑みで。
俺たちは、どちらからともなく抱きしめ合った。
そして自然とキスを交わす。
今、この瞬間に抱いた気持ちを分け合うような、そんなキスだった。
また抱き合って、お互いの温もりを感じて。そうしていると、しだいに栞はいつもの調子を取り戻していった。
「……えへへ、涼。りょーうっ」
意味もなく俺を呼んで、すりすりと頬擦りをする栞は、相変わらず甘えん坊だった。
それはもう、とてつもなく可愛い。
時と場合を考えなければ、今すぐ押し倒してしまいそうなくらいに。
でも、忘れちゃいけないことがある。
栞の風邪は、まだ治っていない。
「あの、さ……栞? 押しかけてきた俺が言えたことじゃないかもだけど──そろそろ、寝た方がいいんじゃない?」
「やっ!」
駄々っ子みたいに、ぷいっと顔を背けられてしまった。それでも、コアラみたいにがっしり俺にしがみついている。
「……や、って。栞、病人じゃん」
「やーなーのっ。もう平気なのっ」
「本当に? なら、おでこ触ってもいいよね?」
「あっ、ダメ──」
言い終わる前に、俺はこつんと額を合わせた。普段の栞の体温は、俺の身体が覚えてる。今の栞は、それよりも熱くなっていた。
「ほら、まだ熱っぽいよ。もうすぐ新学期なんだから、今のうちにちゃんと治しとかないと」
「……それはっ、いきなり涼がそんなことするからだもん。涼の顔が近くに来たら、勝手に火照っちゃうんだもんっ!」
言い訳としては、かなり苦しい。
栞もそれがわかっているのか、目が泳ぎっぱなしだった。
「むぅ……信じてくれないなら。ほら、よいしょっと──」
栞は不意に、ひょいと立ち上がった。不安定な、ベッドの上で。平気と言うわりに、栞はふらふらだった。
「あーもう、無理しちゃダメだって。俺も無理させちゃったけどさ……。お願いだから、言うこと聞いてよ。ね?」
「あぅ……わかったよぉ」
栞はすとんと、崩れ落ちるように座り込んだ。そのまま、ころんと横になる。
「ん、いい子だね」
「涼にそこまで言われちゃったら、私、逆らえないもん。これ以上、心配かけるわけにいかないし。でもね、涼が来てくれて、話ししてくれて、すっごくよくなったのは本当だよ?」
「じゃあ、その勢いで全快させないとね。暑いかもしれないけど、身体冷やさないようにして、おとなしくしてなきゃ」
横たわる身体にタオルケットをかけてあげると、栞はもそもそとそれを引き上げて、顔を隠してしまった。
「……あのね、涼。一つだけ、わがまま言ってもいい?」
タオルケットに包まったまま、栞が言う。
「なに? 言ってみてよ」
「えっとね……ちゃんと眠れるように、おまじないして? おやすみのキス、してほしいの」
「それくらい、お安いご用だよ」
「あ、でも……私、風邪引いてるんだった。うつしちゃうといけないから、やっぱり──んっ」
おねだりの撤回なんて、待たなかった。
俺にも、数日できなかった分の負債がある。
栞の言葉を封じるように、タオルケットをめくって、お望み通りにキスをした。
やりすぎはもちろん禁物だけど──
「さっきもしたんだから、一回も二回も同じだよ。これで満足した? もっとしてあげようか?」
「はぅっ……。今日の涼、強引すぎるよぉ。できればもっとしてほしいけど──これ以上されたら熱上がっちゃいそう……」
「あははっ。なら、続きはしっかり治してからだね」
「……はぁい。我慢するから……涼、手、握って?」
タオルケットの隙間から、ちょこんと華奢な手が出てきた。その姿は、幼子のようで微笑ましい。
「わがまま、一つだけじゃなかったの?」
「……涼の意地悪っ。ケチっ」
するすると手が引っ込んでいって、俺は慌ててそれを追いかけた。完全に見えなくなる手前で捕まえて、しっかりと握る。
「ごめんって。ちょっとからかっただけっていうか……栞が可愛すぎて、つい」
「……悪いと思ってる?」
「思ってる思ってる」
ジトッとした目を向けてくる栞に、俺は全力で首を縦に振った。
「……じゃあ、私が寝付くまで、こうしててくれる?」
「もちろん。寝るまでと言わず、起きるまでこうしてるよ?」
「それはさすがに……。本当に風邪うつしちゃうよ?」
「その時はその時じゃない?」
「ダーメっ。涼にはいつも元気でいてほしいもん。涼が倒れたりしたら、私、悲しいなぁ。自分を責めちゃうかもしれないなぁ?」
栞は冗談みたいに言うけれど、本心だってことは痛いほどわかった。だからまぁ、ここらが引き時だ。
「……わかったよ。栞がちゃんと寝たら、今日は帰るね。起きたら、連絡してくれる?」
「もちろんだよ。今日中に完治報告しちゃうんだからっ」
この勢いだと、本当にしそうで少し怖い。
それくらい、栞の顔色はよくなってきていた。
「じゃあ、期待して待ってるから、もうおやすみ。目閉じて、寝る体勢になって」
「……うん。おやすみ、涼。だーい好きっ」
そう呟いて、栞は素直に目を閉じた。
俺は片手で栞の手を握り、もう片方の手で頭を撫でる。そうしながら、栞の耳元に口を寄せた。
「おやすみ、栞。愛してるよ」
初めて口にする言葉だった。前回は、恥ずかしくて言えなかった言葉でもある。今だって、顔が熱くなるほど照れくさい。
でも、すでに俺の気持ちは、大好きなんて言葉じゃ到底収まりきらなくなっていた。
できれば、正式にプロポーズする時に取っておきたい気もしていたが──
もう、我慢できなかった。
それに、言葉足らずで後悔するのは、今回きりにしたい。
栞はびくりと肩を震わせた。
ぱちりと目を開くと、みるみる頬が赤く染まっていく。
「……不意打ち、ずるいっ。私だって、涼のこと、愛してる……もん」
栞も恥ずかしかったのか、タオルケットを頭まで引き上げて顔を隠してしまった。
でも──
顔なんて見えなくても、手に取るように栞の気持ちがわかる。
柔らかく握り返してくる手。
少しだけ速くなった呼吸。
それだけで、全部伝わってくるようで。
今はもう、言葉は必要ない。
ちゃんと、心が繋がっていた。




