第126話 完全復活と、夏休み最終日
驚くべきことに、栞は本当にその日のうちに完治報告のメッセージを送ってきた。ご丁寧に、ど平熱が表示された体温計を写した画像を添えて。
そして、しばらく途切れていた寝る前の通話が復活した。
『りょーうっ! 私、完全回復だよっ!』
「うん、それはよかったけど──栞、すごすぎじゃない? 普通、一日じゃ治んないよ?」
『んふふっ。そりゃもう、涼のおかげだよぉ。あんなの言われたら、熱なんて吹き飛んじゃうもんっ。ねぇ──もう一回、あれ、言ってほしいなぁ?』
「……あんまりほいほい言うことじゃなくない?」
俺が照れくさいっていうのもあるが、ありがたみが減るというか、何回も言うと薄っぺらくなりそうというか。とはいえ、そんな言い分を栞が聞いてくれるわけもない。
『やーだぁっ。だって、あの時は不意打ちだったんだもん。もっとちゃんと覚えときたかったのにぃ。ねーえ、一回だけでいいからぁ、おねがぁい』
そんな甘え声で言われると、俺は非常に弱い。
「……栞、愛してるよ」
考えるよりも先に、口が動いていた。
直後、スマホの向こうの音が途切れた。耳から離して画面を見てみても、そこには『通話中』の文字が表示されたままだった。
「…………栞?」
『……ふへへっ』
ようやく耳に届いたのは、ちょっと変な笑い声。ついでに、バタバタとのたうち回るような音も聞こえてくる。
『えへへへへへへっ。愛してるって、涼が愛してるってぇっ! やーんっ、んふふふふっ』
「あの……えっと?」
一瞬、栞が壊れたかと思った。
でも、すぐに笑い声は止み、栞はこほんと咳払いを一つした。
『ねぇ、涼っ!』
「あ、はい」
『今からそっち行っていい?』
「今から?! 何時だと思ってるの?!」
『んーとねぇ、もうすぐ日付が変わる時間だね。それで──行ってもいいよね?』
「いいわけなくない?!」
『えーっ、なんでぇ?!』
いや……なんでって。
かなりストレートに、もう遅いからダメだよって言ったつもりだったんだけどなぁ。
……はぁ。まったく栞は──可愛すぎる。
久しぶりに浴びた栞のわがまま甘えん坊っぷりに、早くも折れそうだった。それでも、俺は「いいよ」という言葉を飲み込む。
「栞」
『なぁに?』
「時間のこともそうだけどさ、栞は病み上がりなんだよ? 無理してぶり返したらどうするの。明後日から学校始まるのに、一緒に行けなくなったら──俺、寂しいなぁ?」
『はぅっ……。それは……』
「だから、今日はしっかり寝てよ。それで起きたら、俺が会いに行くから」
『……涼が、来てくれるの?』
「うん。そうしようかと思うんだけど、ダメかな?」
そうしたら、栞が暑い中歩かなくても済む。
これまではずっと、「私が行くのっ」って押し切られていたけど、こういう時くらい逆になってもいいだろう。
『……わかった。待ってる』
もっと駄々をこねるかと思っていたが、栞はやけに素直にそう言った。
「起きたらすぐに行くから。それまで、いい子にしてられる?」
『もーっ、子供扱いしないでよぉっ! それくらい、ちゃんとできるもんっ』
「そっか。じゃあ、いい子はそろそろ寝ようか? 明日、元気な顔見せてもらわなきゃだしね」
『……うん、寝る。えへへ、私、偉い?』
「偉い偉い、世界一偉いよ」
『えへーっ、褒められちゃったぁ。ほら、もうベッド入ったよ。ねぇ涼、おやすみ、言って?』
だんだんと、栞の声がゆるゆるになってきた。完全回復と言っても、身体はまだ休息を求めているのかもしれない。そうなると甘えん坊具合は加速するわけだが──それはそれで栞らしい。
「おやすみ、栞。ゆっくり休んでね」
『はぁい、おやすみなさい。涼、愛してるっ』
そこで通話は途切れた。まるで、言い逃げするみたいに。
……これは明日、栞が後悔するくらいたっぷり甘やかしてやらないと。
なんて考えていた俺だったが──
「あの……ちょっと、栞。少し離れて」
翌朝。
べったり引っ付き虫になってしまった栞に、逆に俺がタジタジにされていた。
玄関で手を大きく広げて待ち構えていた栞に抱きつかれて、栞の部屋に連行されてからすでに一時間。栞は一瞬たりとも俺から離れていない。今は俺の膝に跨って、身体をぴったり密着させている。
離れてと言ったのが不服なのか、栞はわかりやすく涙をためて、ぶすっと頬を膨らませた。
「……なんでそんなこと言うのぉ? 私にこうされるの、嫌いになっちゃった?」
「嫌いになるわけないけど……」
そうじゃない。
本当にそうじゃないんだ。
むしろ、嬉しい。
けれど、たった数日間が空いただけで、俺の栞への免疫が落ちてしまったらしい。
ふわりと漂う甘い香りも、ぬくもりも、押し付けられた柔らかい身体の感触も。
今の俺には刺激が強すぎた。
栞は不思議そうな顔で俺を見上げてきて、そんな表情でさえ可愛すぎて。男として、非常に困ったことになってしまった。
どうにか悟られずに落ち着かせようと、わずかに姿勢を変えた瞬間。
「……ひゃっ」
小さい悲鳴みたいな声とともに、ぴくんっと栞の肩が跳ねた。しまったと思う間もなく、栞はほんのりと頬を赤らめて、にやりと笑う。
言い逃れができないほどに、完璧にバレていた。
「……もうっ、涼のえっち」
「しょ、しょうがないじゃん! こういうの、久しぶりなんだし……」
俺が狼狽えても、ジトッとした目で見つめてきても、栞は俺の上から降りようとしない。それどころか、これみよがしにますます胸元を押し付けてくる。
「ふふっ。そういうことなら、早く言ってくれたらよかったのに。いいよ、別に。涼がしたいって思ってくれるなら、私はいつでも。ってことで──しちゃう?」
それは、あまりにも抗いがたい誘惑だった。
無意識に栞の背に腕を回しかけて──
「……しーまーせんっ!」
どうにか寸前で耐えて、俺は栞の肩を掴んで引き剥がした。
「やんっ! ……なんでぇ? 据え膳食わぬはなんとやらだよっ?!」
「……据え膳って──昨日ダウンしてたくせによく言うよ。夜も言ったけど、病み上がりの人に無理はさせられないのっ」
「もう治ったもんっ!」
「……というか、あれの日だって言ってなかったっけ? そんなすぐ終わるものなの?」
「そっちも風邪と一緒に終わったから平気だよっ。だから、涼が気にすることなんてなーんにもないのっ。ねぇ、いいでしょぉ?」
俺は思わず額を抑えた。
なんだか、前よりも甘え方とか、誘惑の仕方が露骨になってきたような。
「……栞のえっち」
俺は栞の言葉をそっくりそのまま返した。散々俺のことをえっちだと言うけれど、栞の方がよっぽどえっちだと思う。
「私をこんなにしたのは涼だもーん。だからね、涼には責任を取ってもらわないと」
「いや、それを言われると痛いんだけど……。でも、本当に今日はダメだよ。下に文乃さんだっているし、しつこいようだけど病み上がりなんだからね。言ったでしょ、栞のこと、大事にしたいって」
これは、俺の持っている最後のカードだった。
効果はてきめんのようで、栞は少しだけ唇を尖らせながらも、抱きつく力をわずかに緩めた。
「……むぅ。涼がそこまで言うなら、今日は我慢するよぉ。その代わり──いっぱいぎゅってして、キスも、してほしいなぁ?」
「はいはい。それくらいなら、いくらでも」
俺は優しく栞を抱き寄せて、唇を重ね合わせた。
これはこれで、俺も我慢が大変だったけれど──
やりすぎないようにだけ気を付けつつ、何度も抱きしめ合って、何度もキスを交わした。会えなかった数日間なんて、あっという間に埋まってしまうくらいに。
こうして、俺たちの夏休み最終日は過ぎていく。
新たな日常である、二学期に向けて。




