第124話 解ける苦悩と、一番のお返し
息を切らせてたどり着いた栞の家の前。
俺は呼吸を整えてから、インターホンのボタンを押し込んだ。
応答はなかった。代わりに、パタパタと足音が近付いてくる。そうして開いた玄関から顔を出したのは文乃さんだった。
文乃さんは、少し困ったように笑っていた。
「いらっしゃい、涼くん。待ってたわよ」
「おはようございます。朝からいきなり押しかけてすいません──って、俺が来るってわかってたんですか?」
「えぇ、水希さんから連絡もらってたから。涼くんが家を飛び出してった、ってね。それより涼くん、汗だくじゃない。そんなに急いで来てくれたのね」
「それはまぁ……栞が心配だったんで」
「ふふっ、さすが栞の婚約者さんね。でも、そんなんじゃ熱中症で涼くんまで倒れちゃうわよ。まずはお茶でも飲んで、一息入れてちょうだい。ほら、あがって」
本当なら、真っ直ぐ栞の部屋に向かいたかった。けれど、喉がカラカラに渇いていることに気が付いて、文乃さんのあとに続く。
リビングに通されると、文乃さんはタオルとお茶を出してくれた。顔や首筋の汗を拭い、よく冷えたお茶を飲み干すと、自然とほっと息がもれる。
どうやら俺は、少し焦りすぎていたらしい。
「……それで、栞はどんな感じですか? 風邪、辛そうじゃないです?」
「そっちの方はそこまで大したことないから大丈夫よ。薬飲んで、今は寝てるわ」
「……そうですか。よかっ──……ん? そっちの方は?」
文乃さんの妙な言い方に引っかかって、俺は首を傾げた。
「言葉通り、風邪の方はって意味よ。それよりね、栞、ここ数日あんまり元気がなかったの。部屋に籠りっきりだし、食欲もあんまりないみたいだったのよ。なにより、あれだけ通い詰めだった涼くんのおうちに行かなかったでしょ? だから心配してたんだけど──涼くんが来てくれたなら、もう安心ね」
「……それって、どういう?」
「そんなの、私が言わなくてもわかってるんじゃない?」
文乃さんの言いたいことは、なんとなくわかる。
俺になにができるのかは、まだわからない。
でも──
俺が一番、どうにかしてあげたいって思ってる。
だから、俺は小さく頷いて立ち上がった。
「……栞の様子、見に行ってきます」
「うん、そうしてあげて。たぶん栞も、涼くんのこと待ってるから」
「……はい」
リビングを出て、階段を一段一段確かめるように上る。栞の部屋は、すぐそこだ。
ドアを開いて中に入ると、部屋の空気が動いて、カーテンがふわりと揺れた。そこから差し込んだ日の光が、ベッドを照らす。
栞はなにかを耐えるように、身体を丸めて眠っていた。
俺は静かにベッドのそばまで歩み寄る。穏やかな寝顔に安心しかけた時。
目元に、乾ききっていない涙の跡が残っているのが見えた。
「……栞、遅くなってごめんね」
そっと指先で目元の涙を拭うと、栞はぴくりと身体を震わせた。そして、俺の手に鼻先を寄せて、すん、と匂いを嗅いだ。
「……んぅ? 涼の、匂い……?」
ぽつりと呟いて、目が開いていく。
ぼんやりとしていて、どこか虚ろな瞳が俺を映した。
「……涼? なんで涼が……? あ、そっか。これは……夢だよね。なら──」
うわ言のように言って、栞はふらりと起き上がる。そして、力なく俺にもたれかかってきた。
「……ねぇ、涼。私、どうしたらいいのかなぁ。涼のこと、支えてあげたいのに……どうしたらいいのかわかんないの。涼に可愛がってもらうだけの……家猫のままじゃ、嫌なのに」
栞の声が耳に響いて、頭の中で点と点が繋がっていく。
プールでナンパから助けたあとのこと。
帰りの電車の中での、楓さんの言葉。
家につれて帰ったあとの栞の様子。
それから、俺が意を決して告げた想いを受け取ってくれた時の栞の反応も。
まさか、楓さんとの会話を聞いていたとは思わなかったけど。
ようやく俺は、胸の中に残っている違和感の正体にたどり着いた。
栞はあの時から、本当の笑顔を見せてくれていなかったんだ、って。
ようやくそこに思い至ると、今まで気付いてあげられなかったことが悔やまれた。でも、なにを悩んでいるのかは、栞本人の口から語られた。
なら、たぶんどうにかしてあげられる。
だって、その答えはもう、俺の中にあるから。
「……栞」
俺は優しく、けれどしっかりと栞を抱きしめた。
俺とのことで、こんなになるまで悩んでくれた栞に、感謝を伝えるように。
すると、栞の身体がびくりと跳ねた。
「……え、えっ? 涼、なの? 本物……? 夢じゃ、なかったの?」
どうやら、今度こそお目覚めのようだ。
「夢じゃないよ。本物の俺だよ」
「……あ、やっ! だ、だめっ、離してっ……! 今はっ……風邪、うつしちゃうかもしれないし」
「ダメだよ、離さない。風邪くらい、いくらでもうつしてくれて構わない。それより、こんなになってる栞をほっとけないよ」
栞は俺の腕の中から逃れようと抵抗する。それでも俺は、栞を離さなかった。
……絶対に、離すもんか。
栞が、本気で笑ってくれるようになるまでは。
「……栞、よく聞いて。俺はずっと、栞に支えられてたよ。初めて声をかけてくれた時から、今までずっとね」
「嘘っ……! そんなの……嘘だもん。私、いつも涼に迷惑かけてばっかりで。なのに、なにも返せてない。そんな私が──」
言いかけた栞の唇に、俺は人差し指を添えた。
その先を、言わせないように。そんな言葉を聞くために、ここに来たんじゃない。
「嘘じゃない。まったく……栞はバカだなぁ」
あえて、呆れをたっぷりと含ませた。
まだ栞の心に、淀みが残っているかもしれないから。それをここで、全部吐き出してもらうために。
案の定、栞はきっと目を吊り上げた。
「……バカって。ひどいよ、涼っ! 私がこんなに悩んでるのに! 彩香だって言ってたもん。私が、家猫みたいだって!」
「楓さんは、そんなつもりで言ったんじゃないよ」
それはたぶん、栞が一番よくわかっていることだろう。なのにそこに固執してしまうのは、きっと自分の無力さを嘆いているから。
無力だなんて、あるわけないのに。
でもこれは、俺の落ち度でもある。もっと言葉を尽くすべきだった。俺がどれだけ栞に救われているのか、どれだけたくさんのものをもらっているのかって。
目に見えるものばかりじゃなかった。けれど、それは全部、俺の記憶や心にしっかりと刻まれている。
「栞はさ、俺が言ったこと、忘れちゃったの?」
「……涼が言ったこと、って?」
きょとんとする栞を見つめ返して、俺は少しだけ笑う。
「俺たちが、初めてキスをした日に言ったことだよ。栞はね、いつだって俺の心を埋めてくれてたよ?」
「……あっ。あ、あぁ……」
不意に、栞の身体から力が抜けた。
俺は栞が崩れ落ちないように、しっかりと抱きとめる。やがて、栞の口から嗚咽がもれ始めた。
「……あ、ぅ。りょ、涼……私……私っ……!」
「うん、思い出してくれたんだね。よかったぁ。俺はさ、栞になにか特別なことをしてほしいなんて思ったことないよ。ただね、隣にいてほしいだけなんだ。それだけで、俺はいくらでも頑張れるから。それって、支えてくれてるってことにならないかな?」
「……でも、でもっ!」
「もし栞がそれだけじゃ嫌だって、足りないって思うなら、笑ってよ。俺、栞の笑った顔が大好きなんだ。俺にとっては、栞が笑ってくれてることが、一番のお返しなんだよ。それじゃ……ダメかな?」
「……ダメじゃ、ない。けど、涼は優しすぎるよ。私に甘すぎるよぉ」
そう言って、栞は俺の胸元に顔を埋めた。身体を震わせて、泣いているのが伝わってくる。俺はその髪をさらさらと撫でた。
「そりゃ、甘くもなるよ。だって栞は、俺の特別だから。大事にしたいんだよ」
「もうっ……涼の、バカぁ」
栞は俺の胸をぽすんと叩いて、顔を上げた。
涙で濡れた瞳が、俺を見上げる。
「……私、涼に迷惑かけちゃったね」
「迷惑なんて、思ってないよ」
「……涼に、寂しい思いさせちゃった」
「それは──すごく寂しかった、かな」
この数日間、俺は抜け殻みたいだった。
栞に会えないだけで、このザマだ。
「なら……お詫びしないとね。改まってするのは恥ずかしいし、うまくできるかわかんないけど──」
栞は腕で、ぐしっと涙を拭った。それから、小さく一呼吸して、真っ直ぐに俺を見た。
「……これで、いいかな?」
不安そうな声。
でも、栞は笑っていた。
真っ赤になった目を細めて、まだかすかに震える唇に弧を描く。
それは、俺が大好きな栞の笑顔だった。
思わず見惚れて、息を呑む。
気付けば、俺まで目頭が熱くなっていた。
「……やっぱり、栞は笑ってる方がいいよ。すごく、可愛い。最高だよ」
胸がいっぱいになって、ついにぽろりと一雫こぼれ落ちた瞬間。
栞が胸に飛び込んできた。
「……ごめんっ、ごめんね、涼」
「本当だよ。俺……なにかあったら教えてねって、言ってあったのに。なのにこんな、体調まで崩しちゃってさ……」
「……ごめんなさい。これからは、ちゃんと言うから。一人で悩んだり、しないから」
「約束……だよ?」
「……約束する。今度こそ、ちゃんと」
栞がこくんと頷いて、これで一件落着──
なんて思った直後。
「ねぇ、涼」
栞はまだなにか言いたそうな目をして、きゅっと手を握ってきた。




