第123話 止まった足と、幼馴染の勘
少しだけ待っててと言われたが、数日経っても俺はまだ栞に会えずにいた。
男の俺には想像もつかないが、栞の声を聞く限り、きっと相当辛いものなのだろう。
なら、完全に理解はできないまでも、俺がちゃんと気遣ってあげないと。
そう考えて、会えない寂しさを紛らわせるしかなかった。
もちろん、短時間ではあるが通話で話したり、メッセージのやり取りはしている。けれど、ここまで毎日顔を合わせてきたせいか、物足りなさは拭えなかった。
そうして、二学期の開始を明後日に控えた日の朝。
「あ、おはよう涼。ちょうど今さっき文乃さんから連絡あったんだけどね──栞ちゃん、風邪引いちゃったんですって」
「……え。栞が風邪?!」
寝起き一番に聞かされて、驚きを隠せなかった。
俺の方には、そんな連絡は入っていない。
俺は文乃さんの連絡先を知らないし、栞がダウンしているのなら当然かもしれないけれど。
「この時期の風邪は治りにくいって言うし、心配よねぇ。あんたも気を付けなさいよ」
母さんはそう言って、テレビの電源をつけた。
お天気お姉さんが、「まだまだ暑い日が続きますので体調管理には──」なんて言っていたが、そのすべてが俺の耳を素通りしていった。
もしかして、あの違和感はこれだったのかもしれない。
……プールで遊んで疲れてるところに、俺が無理させたから。それで風邪を引いたんじゃ。
そう思ったら、いてもたってもいられなかった。俺は朝食も食べずに急いで部屋に引き返して、わたわたと着替え、家を飛び出した。
急ぎ足で歩きながら、栞にメッセージを打つ。
『おはよう、栞。風邪、引いたんだって? これからお見舞い行こうと思うんだけど、いいかな?』
返事はなかなか来なかった。
それどころか、既読すらつかない。
だんだんと俺の歩くペースは落ちていった。
思わず飛び出してきちゃったけど──
いきなりお見舞いなんて、迷惑じゃないかな?
俺が行けば、きっと栞は無理して起きてくるだろう。
それで病状が悪化したら、どうしよう。
それこそ、本末転倒なんじゃないか。
悪いことばかり頭に浮かんで、いつしか俺は立ち止まっていた。
数日栞に会わなかっただけで、栞の笑顔が見られなかっただけで、以前の自分に戻ってしまったみたいだ。
まるで動けなくなった俺を責めるように、日差しが容赦なく肌を焼く。汗が顎を伝い、地面にシミを作る。それも、すぐに乾いてしまった。
行くことも戻ることもできなくなって、思考が同じところを回り始めた次の瞬間。
「……あれ? もしかして、高原さんですか?」
不意に、横から声をかけられた。顔を向けると、そこには見知った顔があった。
栞のかつての親友。
美紀さんだった。
視線を向けると、彼女は顔をぱっと綻ばせて、手に持ったコンビニの袋をガサガサと揺らしながら駆け寄ってくる。
「やっぱり高原さんだ。ちょっと雰囲気変わってたんで、一瞬違うかと思っちゃいましたよ。お久しぶり──ってこともないか。えっと、あの時はお世話になりました」
ぺこりと頭を下げる美紀さんに、俺も会釈を返した。
「お久しぶりでいいんじゃないですか? もう一ヶ月近く経ちますし。それに、俺は立ち会っただけで、お礼を言われることなんてなにも……」
「そんなことないですよ。たぶん、高原さんがいてくれたから、栞はチャンスをくれたんだと思います。ところで──その栞は一緒じゃないんですか?」
美紀さんは栞の姿を探すように俺の周りを見回すが、当然ながら俺一人だけだった。
「……もしかして、俺と栞がいつも一緒だと思ってます?」
「違うんですか? 栞のあの様子だと、かなり高原さんにべったりなんだと思ってましたけど。というか、もしかしてもう付き合ってたりするんじゃないです? そこんところ、どうなんですか?」
「ま、まぁ……付き合ってはいますけど」
詰め寄ってくる美紀さんの圧に負けて、俺はあっさりと白状していた。すると、美紀さんの目が輝く。
「本当ですか?! うわっ、うわぁ……! そっかぁ。栞にも、恋人ができたんだぁ。なんか嬉しいなぁ。あっ、じゃあこれからデートとかです? 栞の家に行くところとか」
「……それは」
俺は言葉に詰まった。
デートじゃないけれど、行こうとはしていた。
していたはずなのに、立ち尽くしている。
行き場を失った俺は、美紀さんにありのままを告げた。
「……栞なら、風邪引いて家で休んでますよ」
「あっ……。そうだったんですね」
露骨に残念そうな顔をする美紀さんに、チクリと胸が痛んだ。
栞と美紀さんの間には、偶然再会したら、また一から友達をやり直すという約束がある。
もし栞が体調を崩さずに俺と一緒に行動していれば、今ここで、その約束が果たされていたかもしれない。
罪悪感に俯くと、すぐに美紀さんの声が飛んできた。
「あの、変なこと聞くかもしれませんが。栞と、なにかありました?」
「……なにか、って?」
「それはわかりませんよ。でも、栞って普段あんまり風邪とか引いたりしないんですよね。そんな栞が体調を崩したのって、私が知る限り三回だけなんです」
「……はぁ」
彼女がなにを言いたいのかわからず、俺は気のない返事をするしかなかった。そんな俺に構わずに、美紀さんはぴんと人差し指を立てる。
「まず最初は、小学校の低学年の頃だったかな。私と初めて大喧嘩をした時です。もう理由も忘れちゃいましたけどね。お見舞いに行って、仲直りしたらけろりと治っちゃいました」
懐かしむように話す美紀さんだったが、その瞳は真剣だった。そして、二本目の指が立つ。
「その次は、中学二年の時でした。クラスで、栞への嫌がらせが始まった直後です。急に学校を休むから心配になって会いに行ったら……すっごく落ち込んでて、問いただしたら、って感じですね」
さらに、三本目の指が立った。あの話し合いをした時に、栞がしたのと同じように。
「最後は、言わなくてもわかると思いますけど……私が、栞を傷付けた時。つまり、えーっと……なにが言いたいかというと、栞がそうなるのって、決まってなにかあった後なんですよ。高原さん、心当たりはないですか? 栞が、悩むようなことに」
「……栞が、悩んでる?!」
「あ、いや、断言はできませんよ? ただ、今回もそうなのかなぁって。ほら、幼馴染の勘ってやつです──なーんて、言えた立場じゃないですけどね。だから、もしそうでも、そうじゃなくても、すぐに栞のところに行ってあげてほしいです。どちらにせよ、今の栞に必要なのは高原さんだと思うので」
「……俺が必要」
「そうですよ。あの栞が恋人にしたいって思うくらい、心を許した人なんですから。もしただの風邪なら、高原さんの顔見ただけで治っちゃうんじゃないですかね?」
そう言って、美紀さんは笑いながら唇を噛んだ。
きっと、本当は彼女自身が栞に会いに行きたいのだろう。けれど、それは栞との約束を反故にすることでもある。
だから、俺に託した。
なのに、栞の恋人であるはずの俺が──
なんでこんなところで立ち止まってたんだ?
不甲斐ない自分を、ぶん殴りたくなった。でも、そんなのは後回しだ。
栞がなにか悩んでいるかもしれない。そんなことを聞かされて、じっとしてはいられない。
幸せにしたいって、伝えたばかりなんだから。
もう、限界だった。
栞に会いたい。
栞の顔が見たい。
栞の満面の笑みが見たい。
言われたからじゃない。
それが俺の、心からの望みだから。
「……俺、行ってきます」
「はい、そうしてあげてください」
「このお礼は、いずれ。またどこかで会いましょう。その時は、栞も一緒に」
「そうですね。でも今は……私のことなんてどうでもいいんですよ」
美紀さんは俺の後ろに回って、とんっと背中を押した。よろけた拍子に、俺は一歩を踏み出した。その勢いのまま駆け出す。
「いってらっしゃい、高原さん。栞のこと、頼みましたよ」
背中に届いた言葉に、俺は振り返らなかった。
片手を上げて応えて、栞の家まで一直線に走った。




