第122話 今の私と、涼の理想
◆side栞◆
目の前に置かれたスマホが、ひたすら鳴り続ける。
涼からの着信。
涼が毎日しようねって約束してくれた、おやすみコール。
いつもなら今か今かと待ち構えているはずなのに、今日に限っては、私は通話ボタンどころかスマホ自体に触れられないでいた。
今、涼の優しい声を聞いたら、なにかが壊れてしまいそうで──
だから、頭をすっぽりタオルケットで覆った。それでも、スマホが奏でる無機質な着信音が耳に届く。私はじっと、耐えるしかなかった。
しばらくして、涼は諦めたのか、ぴたりと着信音が止んだ。それから一度だけ、スマホがブブッと震えた。
たぶん、なにかメッセージを送ってくれたんだと思う。それすら、私は見ることができなかった。
胸が苦しい。気を抜いたら、今にも泣き出しそうで。こんなんじゃ眠ることもできないと思っていたのに。一日遊び回った疲れのせいか、いつしか私は眠りに落ちていた。
翌朝。
目覚めると身体がだるかった。
チクチクと刺すような、鋭い胸の痛み。
ジクジクと疼くような、鈍い下腹部の痛み。
下腹部の方はひどく単純で、中学一年の今頃に始まって、以来三年間、毎月付き合ってる痛み。一応想定の範囲内だけど、今回は思っていたよりも早かった。
……昨日じゃなくてよかったかも。
もし一日ズレていたら、プールの約束もキャンセルしにきゃいけなかっただろうし、涼にお礼も──
そこでふと、思考が途切れた。
……お礼。
ナンパから助けてもらったお礼、のつもりだった。
でも、たぶんそれは違う。自分と涼を納得させるための言い訳でしかなかった。
あれはきっと、お詫び──もしくは、償いだった。私の中にあった罪悪感を、慰めるための。
そう認めた瞬間、胸の痛みが少しだけ強くなった気がした。
あの時。
涼が颯爽と助けてくれた時。
心強くて、頼もしい背中に思わず見惚れた。
でもすぐに、涼が震えていることに気が付いた。
私も怖かった。知らない男の人に連れて行かれちゃうんじゃないかって。でもたぶん、涼も同じくらい怖がってた。
自分でも言ってたもんね。
俺もビビりまくってた、って。
もしあそこで、私がもっと強く拒んでいたら。
咄嗟に機転を利かせて、女子トイレにでも逃げ込んでいたら。
涼にまで怖い思いをさせないで済んだかもしれない。
罪悪感でいっぱいになった。
だから私は、涼に自分の身体を差し出した。あのタイミングなら、涼も乗ってくれると思って。
あんなやり方、間違ってたよね。
でも、あの時はそれ以外の方法が思い付かなかったの。
……なのに。
涼に触れてもらって、涼以上に私が嬉しくなってしまった。涼にたくさん想われている実感に、喜んでしまっていた。
涼がいないと、生きていけないと思うくらいになってしまった。
「……家猫みたい、かぁ」
昨日の帰りの電車の中で、寝てるふりをしていた時に彩香が言った言葉を思い出して、ぽつりと口に出してみた。
彩香にしては、かなり的を得ているかもしれないね。本人には、そんなつもりはないだろうけど。
涼に救われて、いつも涼に助けられて。
それで今の私がいる。
涼はきっと、私が望めばいくらでも甘えさせてくれる。そういえば、付き合う前に水希さんからも言われたっけ。どんどん頼ればいいって。
でも──
『この先もずっと、俺と一緒にいてほしい。まだまだな俺だけどさ、栞と支え合って、寄り添って生きていきたい』
涼がくれた言葉が、頭から離れない。
それは、私が待ち望んでいた言葉だった。
あれはたぶん、涼の理想、なんだよね。
そうできたら、どんなに素敵だろう。
でも、今の私じゃ無理だよ。
だって、涼が与えてくれる幸せを、ただ享受してるだけだもん。
支え合うってことは、対等ってことで。
寄りかかってばかりの私じゃ、全然対等じゃない。
「……私、どうしたらいいんだろ」
ため息交じりにもらしても、誰も答えてはくれなかった。
私はすがるようにスマホに手を伸ばし、昨日涼が送ってきてくれたメッセージに目を通す。
『もう寝てるかな? 何回も通話かけちゃってごめんね。今日は楽しかったよ、ありがとう。また明日ね。おやすみ、栞』
デジタル表示の文字なのに、頭の中ではちゃんと涼の声で再生されて、思わず私は胸を押さえた。
それでも私は、震えながら通話ボタンに指で触れた。
だって、嫌われたくないから。
涼に余計な心配、かけたくないから。
呼び出しのコール音が、やけに耳に障る。
すぐに通話は繋がった。
「……もしもし、涼?」
『うん。おはよう、栞』
「おはよ、涼」
スマホ越しの涼の声はいつも通りで、それが余計に罪悪感を抉る。こんなんじゃ、涼に合わせる顔がなかった。
『……栞、なんか元気ない? 大丈夫?』
「大丈夫……じゃないかも。あのね、涼。私──」
思っていることを全部伝えたら、涼はなんて言うだろう。「バカだなぁ、栞は」って、笑ってくれるかな。
そんな期待が頭をよぎったけど、口にすることはできなかった。
「えっとね、ちょっと言いにくいんだけど、女の子の日、始まっちゃって。今回はなんか重たくて……今日は行けそうにないの。ごめんね、涼」
これは嘘じゃない。
そう自分に言い聞かせて謝ると、スマホの向こうで涼が慌てている気配が伝わってきた。
『そ、そんな謝らなくていいって! むしろ、俺の方こそごめん。なんか、言いづらいこと言わせちゃったよね。そういうことなら無理しないでさ、ゆっくり休んでよ』
「……うん、ありがと。涼は優しいね」
『そりゃ──栞と会えないのは寂しいけどさ、それで負担にはなりたくないし』
「……それが優しいって言ってるんだよ。そんな長引かないと思うから……少しだけ待っててね」
その間に、どうにかするから。
『わかったよ、待ってる。声、辛そうだからとりあえず切るね。もし俺にできることがあったら、いつでも言ってよ?』
「……うん。なにかあれば連絡するね」
『じゃあ、またね、栞』
「またね、涼」
あっけなく、通話は途切れた。
もう少し話していたかったような気もするし、今日は顔を合わせなくて済んだことに安堵してる自分もいた。
……あぁもう。私、めちゃくちゃだなぁ。
スマホを机に放り投げて、私はベッドに転がった。そうして、二つの痛みが過ぎ去るのを待つ。
答えの出ない問いを、ひたすら繰り返しながら。




