第121話 ようやく言えた言葉と、妙な胸騒ぎ
電車の乗り換えや遥たちとの別れ際を除いて、帰りの道中、栞はずっと眠っていた。
うちの最寄り駅が近くなってきた頃。俺が肩を揺すると、栞はようやく目を開き、きょろきょろと周りを見回した。
「……んぅ、涼?」
「おはよ、栞」
「……おはよぉ、涼。ごめんねぇ、一人で寝ちゃってて」
「ううん、それくらい全然。もうすぐ着くけど、歩けそう?」
「……うん。大丈夫、歩けるよ。ほら」
駅に向かって電車が減速を始める中、栞はひょいとシートから立ち上がり、ドアの前に向かう。その足取りは、思ったよりもしっかりしていた。
そうして電車を降り、俺たちは街灯の照らす夜道を歩いていく。栞の歩幅に合わせて、ゆっくりと。
栞はそのまま家には帰らずに、当たり前のような顔をして、俺のうちまでついてくる。俺も、もう少し栞といられるならとなにも言わなかった。
やがて我が家が見えてくると、リビングの窓にいつもなら灯っているはずの明かりがないことに気が付いた。
「……あれ? 母さん、いないのかな?」
普段なら、こんな時間に出かけていることはないのに。不思議に思っていると、栞がちょんと手を引いた。
「もしかして涼、また水希さんから聞いてないの? 私たちが遊びに行くからって、今日の夜はうちのお母さんとお出かけするって言ってたよ?」
「……まじ?」
まーた母さんは、そういうことなんにも伝えてくれないんだから。
……まぁ、気を利かせてくれたんだろうってことはわかるけど。
家に入って明かりをつけると、ダイニングテーブルに書き置きがあった。
『文乃さんとお食事に行ってきます。二人のご飯は冷蔵庫に入ってるから、仲良く食べること。もうすぐ夏休みも終わっちゃうから、最後まで栞ちゃんと楽しい思い出作りなさいね。母より』
読み終えると、栞も横から書き置きを覗き込んできた。
「ね? 言った通りだったでしょ?」
「……うん。本当、母さんはお節介なんだから」
ここまでしてくれなくてもいいのに、とは思いつつも、ありがたく甘えさせてもらうことに。
「で、どうしよっか? 夕飯、栞の分も作ってくれてあるみたいだけど、とりあえず食べる?」
「うーん……そうだねぇ。お腹は空いてるけど、でもその前に──」
そう言って、栞は自分の肩のあたりに鼻を寄せて、すんと鳴らす。
「なんかまだ塩素臭い気がするから、先にシャワー借りてもいいかなぁ? そんなこともあろうかと、着替えも持ってきてるし」
「うん、行っておいでよ」
「……涼も一緒に行くんだよ? どうせ二人きりなんだし、それにほら、助けてもらったお礼もしたいし──背中、流してあげるから」
「えぇっ?! また一緒に入るの?!」
「……嫌なの?」
「そういうわけじゃ……。でも、今日はちょっと朝からいろいろ我慢してるというか。シャワーだけじゃ済まなくなりそうというか……」
一日中水着姿で誘惑され続けた俺の理性は、もう崩壊寸前だった。
「いいよ、別に……そうなっても。お礼したいって、言ったでしょ? 涼のしたいこと、なんでもさせてあげるから。ほら、行こ」
有無を言わさず、栞は俺の手を引いて風呂場へ向かう。そして、俺はあっという間に裸に剥かれてしまった。当然、栞も服を脱ぎ捨てた。
身体は正直で、今すぐ栞と一つになりたいと騒ぐ。けれど、俺は散り散りになった理性を総動員して、それに待ったをかけた。
「……あのさ、栞」
「なぁに?」
「風呂から出たら、でいいんだけど……ちょっとだけ、話したいことがあって。聞いてくれる、かな?」
これ以上は先延ばしにしちゃダメだと、心が叫んでいた。
俺は、あのナンパ男たちに向かって、栞は俺の婚約者だと啖呵を切った。なのに、なにも言わないままでいたら、栞を不安にさせるだけだ。
保留にしていたプロポーズをするなら、もうここしかないと思った。
栞はじっと俺の目を見つめて、それからこくんと頷く。
「……わかった、聞くよ。なら、早く身体洗っちゃわないとだね。」
栞に浴室に押し込まれた俺は、文字通り丸洗いされた。隅々まで、丁寧に。
それが終わると、今度は俺の番。
言われるがまま、俺は栞の身体をきれいに磨き上げた。
時折、期待するような瞳で見つめられて、俺は爆発しないようにするので精一杯だった。
ギリギリのところで踏み留まって風呂を出て、二人で夕飯を食べた。食器の片付けまで済ませたタイミングで、俺はようやく重い口を開く。
「それで、栞。さっきの話のことなんだけど──」
「……うん。いつでも、聞く準備できてるよ」
俺がなにを言おうとしているのかを察したのか、栞は神妙な面持ちで頷いた。
「じゃあ、えっとね……。俺さ、こんな楽しかった夏休みって初めてで。それは栞が側にいてくれたからなんだよね。栞のことが大好きで、だから、なにかあれば守ってあげたいし、幸せにしたいって思ってる。最初は聡さんの勘違いだったし、正式なのはまたいずれちゃんとするつもりだけど──」
ここまでを一気に吐き出して、俺は一度呼吸を整える。この先に続く言葉は、勢い任せで言うことじゃないから。
そっと、栞の手を取る。
小さくて、愛らしい手。
いつまでも触れていたいと思える手だった。
なら、心は決まった。
いや、たぶんもっと前から決まっていた。
栞と付き合い出した、あの日から。
「……栞。この先もずっと、俺と一緒にいてほしい。まだまだな俺だけどさ、栞と支え合って、寄り添って生きていきたい」
この伝え方が正解かどうかなんて、俺にはわからない。けれど、栞の瞳にじわりと涙が滲んだのを見て、少しだけ安堵した。
「……それって、そういうこと、でいいんだよね?」
「うん。保留になってたプロポーズ、のつもりだよ」
はっきりと頷くと、栞の頬を涙が伝い、ぽたりとテーブルに落ちた。
「……嬉しい。嬉しいよ、涼。私もね、涼とずっと一緒にいたいの。だから──」
栞はおもむろに立ち上がると、俺の手を取り、引いた。
「……ねぇ、涼のお部屋、行こ?」
栞がどうしたいのかは、すぐ理解できた。
俺も、まったく同じ気持ちだったから。
部屋に着くなり、栞は着替えたばかりの服をぱさりと床に落とし、下着姿になった。
「……ほら、涼も脱いでよ」
「わかってるって」
俺ももう、我慢の限界だった。
たっぷり誘惑されたせいじゃなくて、栞が俺を受け入れてくれたおかげで。
俺も放り投げるように服を脱ぎ、栞をベッドへ押し倒す。頬に触れ、額を合わせて、愛おしい唇にキスを落として、耳元で囁いた。
「栞、好きだよ。絶対、一生離さないから」
「……私も、涼が好き。大好きなの。だからね、私のわがまま、一つだけ聞いてくれる?」
「わがままって?」
「今日は遠慮なんていらないから、私のこと、めちゃくちゃにしてほしいの。涼が私を好きって思ってくれてる気持ち、全部ぶつけて?」
「……いいの?」
これまで栞は、そんなこと一回だって言ったことがない。不安になる。でも、栞は真剣な表情で、じっと俺を見ていた。
「うん。今日は、今日だけは……そうしてほしい」
その言葉で、俺の理性は焼き切れた。
これまでは栞を優先して、必死で欲に走らないようにしていたのに。
もしかすると俺は、ずっと頭を悩ませていたプロポーズを成功させたことで、舞い上がっていたのかもしれない。
「……栞っ」
短く名前を呼んで、俺は栞に覆い被さった。
そして、溢れんばかりの想いを叩きつける。
優しくなんて、できなかったはずだ。
それでも栞は、今までで一番乱れて──
最後まで、甘い嬌声を響かせていた。
その後、気怠い余韻に浸っていると、栞は一人でベッドを降りて服を身に着け始めた。
「……もう、帰るの?」
「そうしよっかなって。このままだと、またお泊りになっちゃいそうだから」
「泊まっていっても文句は言われないと思うけど──帰るなら送っていくよ」
俺も起き上がろうとすると、栞に額を押されてベッドに逆戻りさせられてしまった。それから、キスが降ってくる。一度、二度と。さっきまでの貪るみたいなキスじゃなくて、優しいキスが。
「涼も疲れてるだろうし、一人で帰れるよ。気持ちだけ受け取っとくね。ありがと、涼」
「……え。もうだいぶ遅いよ? さすがに危ないんじゃ」
「大丈夫だって。やっぱり涼は心配性なんだから。すぐそこなんだし、なにも起きないってば。ほら、いいから涼はそのままゆっくりしてて。ね?」
ここまで言われてしまうと、強くは出られなかった。なにかあってからじゃ遅いと思いつつも、栞の頑なな態度に折れるしかなかった。
「……なら、気を付けて帰るんだよ?」
「わかってるよ。じゃあ、涼──」
「ん、また寝る前にね」
「うん、待ってるよ」
栞はひらひらと手を振りながら、俺の部屋を出ていく。遅れて、玄関が閉まる音が聞こえてきた。
俺はいつ母さんが帰ってきてもいいように服装を整えて、またベッドに転がった。
天井を見上げながら、俺は妙な胸騒ぎに襲われた。なにか大事なものを見落としているような、そんな感覚だった。
少しして、栞から帰宅したとメッセージが入った。なのに、胸のざわつきは静まってくれない。
そして、その夜。
すっかり恒例となっている寝る前の通話に──
栞が出ることはなかった。




