第119話 ナンパと、力ない笑顔
俺は栞の脚を気にしながら、栞は俺の体調を気にしてくれながら遊んで、もうそろそろ遥たちと合流する時間になろうかという頃だった。
水から上がると、身体がぶるりと震えた。それは寒さからの震えではなく、生理的な理由によるものだった。
「……ごめん、栞。ちょっとトイレ行ってきてもいいかな?」
「もちろん。あっ……もしかして、我慢してた?」
「いや、そういうわけじゃないけど、急に来た感じ。栞は大丈夫そう?」
言ってから女の子に聞くことじゃなかったかと思ったが、栞は特に気にした様子はなかった。
「いっぱい汗かいたからかな、私は平気だよ。お手洗いの前まではついてくから、行っておいで」
「ん、ありがと」
二人連れ立って、敷地の隅っこの方にあるトイレへ向かう。中に入る前に、俺は着ていたラッシュガードを脱いで、栞の肩にかけた。
「これ、着といてよ。濡れてるから気持ち悪いかもしれないけど」
「いいけど、なんで?」
「いやさ、少しとはいえ栞から離れちゃうわけじゃん? 栞ってすごく可愛いし、水着も似合ってるし──だからその……ナンパ避け、っていうか。これ買った時、遥に言われたから」
「……ナンパ避け」
栞は確かめるみたいに、俺の言葉を繰り返した。そして、へにゃりと微笑んで、ラッシュガードの袖にしっかり腕を通して、前のファスナーを上まできっちり閉めた。
「えへへ、これでいいかな?」
「うん、たぶんね」
どう見ても男物のラッシュガード。栞にはサイズが大きく、袖口に手がすっぽり隠れていた。そんな姿も愛らしくて、いつまでも見ていたいとは思うが──
……やば、限界かも。
「すぐ戻るから、待ってて」
そう言い残して、俺はトイレに駆け込んだ。
男が用を足すのにかかる時間なんて、たかが知れてる。その数分でなにか起きるなんて思ってもいなかった。
そんな高を括っていた俺は、栞の魅力を見誤っていたのかもしれない。いや、俺が一番栞の可愛さを知っている自負はあるけれど──
「だから嫌って言ってるじゃないですか! 私は彼を待ってるんです!」
トイレから出る前に手を洗っている最中、外から耳によく馴染んだ、けれど、俺が聞いたことのないトゲのある声が響いてきた。
……まさか。
焦りながら表に飛び出すと、栞が二人組の男に絡まれていた。茶髪と金髪、チャラそうな見た目とヘラヘラした態度。
一発で、栞がナンパされているとわかった。
……栞。
と名前を呼ぼうとして、やめた。
どこの馬の骨とも知れない男に、栞の名前を知られるのすら許せない。
代わりに、俺は栞の前に身体を滑り込ませた。
「……あ、涼っ。ほら、これで諦めてくれますよね?」
栞が語気を荒げると、その男たちは俺を上から下まで眺めて、吐き捨てるように笑い出した。
「んだよ、ただのガキじゃん。こんなのより、俺らと来た方が絶対いいって。な、楽しませてやるからさ」
下卑た笑いを浮かべて、栞を舐め回すように見つめる。その視線に全身の血が沸騰しそうだった。
「ほら、いいから来いって。悪いようにはしねぇよ」
陽に焼けた浅黒い腕が栞に伸びる。俺は咄嗟に、その腕を掴んだ。
「彼女に、触らないでもらえますか?」
自分でも驚くくらい低い声が出た。
だって栞は──
「彼女、俺の婚約者なんで。あなたたちと一緒には行きませんよ」
栞は、俺の特別な人だから。恋人で、聡さんの勘違いだったけど婚約者にまでなって。言葉にできないくらい大事な人だ。
正直、怖い。膝だって、今にも震えだしそうだ。
相手は俺よりも全然ガタイがいいし、歳だって上だろう。荒事になれば、俺が負けるのは目に見えてる。
……だとしても。
そんな理由で栞を差し出したら、俺は一生後悔する。
俺は男の腕を離して、今度は栞の手を握る。絶対に離さないって意思を込めて、強く。
俺は栞の手を握ったまま、男たちに背を向けた。
「もう行こ。遥たちが待ってる」
栞の耳元で呟いて、俺は手を引いて歩き出す。
後を追ってこられて、殴られでもしたら──そんな恐怖はあった。でも、これ以上栞の姿を見られ続けることにすら耐えられなかった。
婚約者という言葉が効いたのか、脈がないことを悟ったのか。恐る恐る振り返ってみると、さっきの男たちの姿はどこにも見当たらなかった。
それでも、俺は栞の手を引いたまま、無言で歩いていく。しばらくそうしていると、栞がピタリと足を止めた。
「……涼、待って。手、痛いよ」
その一言でハッとする。
俺の手は、栞の華奢な手を力いっぱい握りしめたままだった。
「ご、ごめんっ!」
ぱっと栞から離れると、どれだけの力で握っていたのか、自分の手の平が白っぽくなっていた。
ほんの少しとはいえ、栞を一人にしてしまった。
そのせいで、栞に怖い思いをさせてしまった。
さらには、痛い思いまで。
無言で手を引く俺のことも、怖いと思ったかもしれない。
それが無性に申し訳なくて、俺は栞の手をそっと撫でながら頭を下げた。
「……本当、ごめん」
「……ううん、大丈夫だよ。涼は私を守ってくれただけだもん。それより──」
そこで、栞の言葉が途切れた。
栞は唇を噛んで俯いていた。
「それより、なに?」
「……なんでもない。ありがと、涼。すごく、かっこよかったよ」
そう言って力なく笑う栞に、違和感を覚えた。けれど、それがなんなのかまではわからない。問いただす言葉すら、浮かんでこなかった。
気付けば、俺は栞を抱き寄せていた。腕の中にすっぽりおさまる温もりを感じると、ようやく俺も安心できた。
栞を連れていかれなくてよかった、って。
「お礼なんていらないよ。俺が……栞を誰にも渡したくなかっただけだから」
「それでも、だよ。やっぱり涼は……私のヒーローだね。私……涼に助けられてばっかりだなぁ」
栞に、少しだけ笑顔が戻った。
でもそれは、いつもの笑顔じゃなかった。
きっと、それだけ怖かったんだろう。
なら、俺はヒーロー失格だ。
栞の本気の笑顔を守りきれなかったんだから。
なら、次からは絶対に栞を一人にしない。
俺は固く、心に決めた。
でも──
『私……涼に助けられてばっかりだなぁ』
この言葉の本当の意味を、この時の俺はまったく理解できていなかった。




