第117話 内緒のスリルと、転覆アクシデント
楓さんは、財布とスマホをロッカーに戻しに行き、戻ってくるなり遥を椅子から引きずり下ろした。
「ほーら、遥っ! こっからも遊び倒すんだから行くよーっ!」
「わかった、わかったからそんな引っ張んなって! ったく……しょうがねぇなぁ。んじゃ涼、黒羽さん、俺らは一足先に行くわ」
「二人とも、またあとでねーっ!」
遥はため息交じりに、楓さんは元気よく手を振りながら、俺たちに背を向けた。その姿が遠ざかっていって、人波に消える直前──二人の手が繋がったのが見えた。
もしかすると、俺たちを二人きりにするというのはただの口実で、向こうも二人きりになりたかったのかもしれない。
「さて、俺たちはどうしよっか? そろそろ行く?」
「……涼は、疲れ取れた? 休憩、もういい?」
「うん。食べたらだいぶ回復したし、大丈夫だよ」
それより今は、栞と見つめ合っていた余韻で頭がぽーっとする。おまけに、顔も身体も火照ったままだ。
それも、プールに入れば多少は冷める──
「そっか、よかったぁ。なら、行こっ。まだまだ涼とたっくさん遊びたいからねっ!」
……いや、やっぱりそれくらいじゃ冷めないかも。
栞はまた、べったり左腕にくっついてきた。しかも、休んで元気になったせいか、さらに密着感が増している。油断すれば、意識を全部栞のお胸に持っていかれそうなくらいに。
とはいえ。
栞は泳げないわけで。
そんな栞のことを、ちゃんと見ていてあげられるのは俺しかいないわけで。
だから俺は、少しだけ気を引き締めた。
まぁ、付け焼き刃みたいなもんだけど。
というわけで、フードコートを後にした俺たち。どこに向かうかを相談しながら歩いていると、『レンタル浮き輪』というのぼりが目に入った。
「ねぇ栞? あれ、借りてみない?」
「……浮き輪のこと? なんかちょっと子供っぽくないかなぁ?」
「そんなことないって。大人でも使ってる人いるっぽいしさ。それに、あった方が安全でしょ?」
泳げない栞には、まさにうってつけだと思う。栞は少しだけ周りを見て考えて、それからこくんと頷いた。
「……涼がそう言うなら、わかった。でも、浮き輪があるからって、離れちゃやだよ? ちゃんと捕まえててね?」
「わかってるよ。絶対離さないから安心してよ」
そうして浮き輪をレンタルして向かったのは、近場にあった流れのあるプール。俺が先に水に入って手を引くと、浮き輪に身体を通した栞もあとに続く。
ぷかりと浮かんだ栞はぱちりと瞬きをして、ふっと表情を緩めた。俺は浮き輪の外側に掴まり、栞の手をしっかりと握る。そのまま二人で、流れに身を任せてふよふよと揺蕩う。
「結構いいかも、これ」
「でしょ? 借りてきて正解だったね」
「うんっ。気持ちいいね、涼」
「そうだね」
ウォータースライダー三昧ではしゃぎ回るのも悪くはなかったが、どちらかといえば、俺にはこういうのんびりした穏やかな時間の方が性に合っているらしい。
俺たちは言葉も少なく視線を絡ませて、時折、額をくっつけてわけもなく笑ったりして。
ふと、浮き輪分の距離がもどかしくなった俺は、一度水の中に沈み、栞のいる輪の中にお邪魔させてもらうことにした。
「……わっ! 急に潜るからびっくりしたよぉっ!」
「ごめんごめん。でも、この方が栞が近いから。それにこうすれば──」
俺は水中で栞の細い腰を抱いた。
「ね? もっと安心でしょ?」
「もうっ、涼ってば優しいんだからぁ。えへへっ、じゃあ私もっ!」
栞は水より上で、俺の背に腕を回してくる。さっきまでよりもずっと距離が近くなって、栞の可愛い顔がすぐ目の前に迫ってきた。
栞はじっと俺の顔を見つめ、小さく唇を噛む。そして、俺の耳元で囁いた。
「ねぇ涼──私、キスしたくなってきちゃった。しても、いい?」
その言葉が耳に甘く響いて、思わず目を閉じて唇を差し出しそうになる。けれど、寸前で踏み留まった。
「……え、ここで?」
「うん、ここで。だってこれ、キスする直前みたいで、そんな気分になっちゃったんだもん。ねっ、いいでしょぉ?」
「で、でも……周りに人、たくさんいるし」
「誰も私たちのことなんて見てないよ。一回でいいから、お願い」
「……本当に、一回だけ?」
「本当に一回だけ。誰にもバレないように……こっそり、しちゃお?」
もう、俺の頭には栞を振り切るという選択肢は残っていなかった。本当にバレないかどうか、一回で済むかどうか、それだけが気がかりだった。
だから俺は、注意深く周囲に視線を巡らせて、栞の両頬に手を添えた。せめて、唇が触れ合うところだけは、誰にも見えないように。
栞とのキスは、俺たち二人だけのものだから。
「もう、していい? 私、我慢できないよ」
「……ん、いいよ。でも、ちょっとだけ──」
俺の言葉を遮るように、ちょんと唇が塞がれた。一瞬で離れていった栞の顔は真っ赤に染まっていて、どうしようもなく緩んでいた。
「えへっ、しちゃったぁ……。なんか、見られるかもって思ったら、いつもよりドキドキするね?」
「……俺はドキドキというかヒヤヒヤだったけど?」
「えー? このスリルがよくない? よさがわからないならぁ、もっかいしちゃう?」
「……一回だけって約束じゃなかった?!」
「一回も二回も変わらないよ。ねぇ、涼……」
甘えるような声。
熱っぽい瞳が、俺を映していた。
その視線だけで、もう一度唇を重ねたくなる。
でも──
……だめだ。
このままだと、歯止めが利かなくなる。
そう感じた俺は、もう一度水中に沈み、浮き輪の中から抜け出した。水面から顔を出すと、栞の頬がぷっくりと膨らんで、フグみたいになっていた。
「ぶー……。涼のケチぃっ! もうちょっとくらいしてくれてもいいのにぃっ!」
「……一回って言ったの、栞だったよね?」
「そんなの忘れちゃったもーんっ。ちぇーっ、せっかく盛り上がってきたとこだったのになぁ」
「と言われてもねぇ……。あれ以上したら……絶対キスだけじゃ済まなくなるし」
「……へぇ? 涼はもっとすごいことしたくなっちゃいそうだったんだぁ。ふぅん、そっかそっかぁ」
急に機嫌を直した栞は、にやにやと笑いながら俺の手をきゅっと握った。
「ダメだよ、涼。そういうことはぁ──お外じゃ、できないんだよ?」
「わかってるってばっ! だから止めたの!」
「ふふっ、そういうことなら許してあげよっかなぁ。あ、ねぇねぇ、涼──」
「今度はなに?」
栞はひょいっと俺から視線を外し、少し離れたところにいる人を目で差した。
「私もあれ、してみたいなぁ」
その人は、浮き輪の穴に腰を下ろして、ぷかぷかと漂っていた。
「……してみたら?」
「一人じゃうまく乗れなさそうだから涼に言ってるのっ! ほーら、手伝って!」
「……はいはい」
栞の興味が他に移ったことに安堵の息を吐き、プールサイドで栞を浮き輪に乗せてから、そのまま水の上に浮かせた。
「はわぁ……これ、さっきのより気持ちいいかも」
「それはよかったけど、落ちないでよ?」
そう言いながら、俺は浮き輪の縁から伸びる、すらりとした栞の脚から目が離せなくなっていた。
……こういうのを美脚って言うんだろうなぁ。
栞、スタイルいいし。
普段は脚なんてじっくり見ることないし。
「んふふっ。ねぇ、りょーうっ?」
楽しげな声が俺を呼ぶ。
その直後。
栞の脚が、俺めがけてぱしゃんと水を跳ね上げた。
「わぷっ……! いきなりなにするの、栞?!」
不意打ちを食らった俺は、水をまともに顔面で受け止めることになった。
「ふふーんっ、脚ばっかり見てるからだよーっ。やっぱり涼はえっちだなぁ。そんなに私の脚が気になっちゃった?」
「……」
否定できないのが悔しくて、俺は無言のまま手で水を掬って栞にかけ返した。その水が、栞の顔を直撃する。
「きゃっ……!」
短く可愛らしい悲鳴をあげた栞に、妙に気分が昂ぶった。自然と、笑い声がもれる。
「あははっ、仕返しだよ」
「もーっ! 涼がそのつもりなら、私だってぇっ!」
手と脚の両方使って、栞はバシャバシャと水を跳ね上げる。俺も負けじとやり返して──
昼休憩の間に乾きかけていた髪が、またあっという間にずぶ濡れになってしまった。それでも、こうしてじゃれ合うのが楽しくて、俺たちは水のかけ合いに夢中になっていた。
栞の動きはだんだんと大きくなっていく。俺も栞から手を離していて──そんな時だった。
脚を振り上げた拍子に、浮き輪の上の栞の身体がぐらりと傾く。やばい、と思う暇もなかった。
「……わわっ!」
栞が、浮き輪ごとひっくり返った。
水中に消えた栞。次の瞬間、水面から顔が出たものの、溺れたみたいに必死で藻掻き始めた。
「栞っ?! 掴まって!」
「……りょ、涼っ!」
咄嗟に手を伸ばすと、栞がしがみついてくる。その顔は、苦しそうに歪んでいた。
「栞っ、大丈夫だから落ち着いて! ここ浅いから、ちゃんと足つくよ!」
どうにか落ち着かせようと声をかけるが、栞はジタバタと暴れ続けていた。
「ち、違うのっ……! 脚っ、脚がっ……!」
どうやら、栞は藻掻いているうちに脚をつってしまったらしい。
「……まじか」
俺は慌てて流されかけていた浮き輪を掴み、栞を抱えて水から上がってプールの縁に座らせた。
栞は顔をしかめて、両手でつった脚をしきりに押さえている。このままにしておくわけにはいかないし──
……俺が、どうにかしてあげないと。




