第109話 逃したタイミングと、遊びのお誘い
夏休みは、残り一週間を切った。
長かったような、短かったような、なんともいえない感覚だが──
密度がものすごく濃かったことだけは、確かだった。
初日以外は、毎日栞と会って。
一緒に課題をやって。
花火大会に行って。
栞の抱えていた心の傷に触れて。
付き合い始めて、デートをして。
髪を切って。
キスをして。
栞が泊まりに来て、さらにその先まで。
最終的に、聡さんの勘違いで婚約ということになってしまった。
記憶がほぼ白紙な去年までの夏休みとは違って、今年の思い出は栞一色だ。
そんな栞は、今日も俺の部屋にいる。
雨が降ろうと、日差しが強かろうとお構いなしに、足繁く俺に会いに来てくれる。健気で可愛い、大好きな俺の彼女。
けれど──
俺はまだ、先日約束したプロポーズとやらをできずにいた。
あの後は、謎の勢いに任せて、両家の親睦を深めるという名目で外食に繰り出し、現地解散。その翌日からは、栞があまりにもそれまで通りすぎて──
……というか、プロポーズってどうすればいいの?
こんなゆるゆるな空気の中で突然「俺と結婚してください」なんて言うのは、たぶん間違ってる。そもそも、まだ高校生でしかない俺に、正しいプロポーズがわかるわけがない。
指輪とか用意しないとダメなのかな?
ちょっとおしゃれなレストランを予約しとくとか?
そんなありきたりなプロポーズシーンが頭に浮かぶが、どちらも今の俺には難しい。
「……はぁ」
小さくため息を落とすと、隣にぴったりくっついて座っている栞が俺を見上げた。
「どしたの、涼? ため息なんかついちゃって」
「……あ、ごめん。えっと、その──」
必死で言い訳を探す。
プロポーズの仕方で悩んでることは、栞に知られちゃいけない。ちっぽけなプライドかもしれないけど、絶対にダメだ。
「……もうすぐ夏休み終わっちゃうなぁって思ってね」
結局、俺は無難な話題でお茶を濁した。
「そうだねぇ。学校始まったら、こうやって二人でのんびりする時間も減っちゃうだろうね。やだなぁ、寂しいなぁ。ねぇ涼、今のうちに、目一杯イチャイチャ……しとく?」
栞は上目遣いで俺を見つめながら、シャツの襟元を指先で引いて、ちらりと胸元を覗かせた。
……全然それまで通りじゃなかったわ。
油断するとすぐ誘惑しようとしてくるんだから、栞は。
気持ち的には誘いに乗りたいところではあるが、あの三日間と違って、階下には母さんがいる。
もしも現場を押さえられたら、心臓が止まる自信がある。
現に一度、母さんが買い物に出た隙に誘いに乗ったら、事後の余韻に浸っているところで玄関の開く音が聞こえて──
あれは本当に肝が冷えた。
同じ過ちは犯したくない。
だから、栞の後ろに回って、俺よりも一回り以上小柄なその身体をすっぽりと包み込んだ。
「はいはい、イチャイチャしようね。栞、ぎゅってされるの好きだよね」
よしよしと頭を撫でれば、くたっと栞から力が抜ける。
「えへぇ……好きぃ。涼にこうされると、安心しちゃうの。でもぉ……なんかはぐらかされた気分っ」
「……そういうのは、母さんがいない時にね。じゃないと、栞だけに集中できないからさ」
「ふぅん……? そんなにじっくり私のこと堪能したいんだぁ? んふふっ、涼はえっちだなぁ」
首だけを回して振り返った栞は、いたずらっ子の顔をしていた。それがなんだか悔しくて、俺は否定もせず、栞の口を塞いで黙らせた。
「……そうだよ。でも、栞だからそうなるっていうか」
唇を離すと、栞はなにかを期待するように俺を見ていた。
……あ、もしかしてここなのかな?
今なら、言えるかもしれない。
付き合い始めた時に、俺たちは『ずっと一緒にいよう』と約束した。そこから少し言葉を変えるだけでいい。それできっと、栞は笑ってくれる。
どうやら、俺は難しく考えすぎていたらしい。
俺は栞を抱きしめる腕に、わずかに力を込めた。
「あのさ、しお──」
ブーッ、ブーッ。
俺が口を開きかけた瞬間を狙ったかのように、部屋に小さな振動音が響いた。
「あ、スマホ鳴ってる。通話かな? ごめんね、涼。ちょっと見るね」
「あ、うん」
……誰だよ、こんな時に。
いやまぁ、急ぐ話でもないからいいんだけどさぁ。
「あれ、彩香だ。もしかして──」
スマホを確認した栞が言う。相手は楓さんだったらしい。となると、どんな要件かは見当がつく。
「……だね、もしかするかもね」
「とりあえず、出てみるね」
栞が通話ボタンをタップすると──
『やっほーっ、しっおりーんっ! 課題、全部やっつけたよーーっ!』
スピーカーに切り替えてもいないのに、スマホから楓さんの声が大音量で轟いた。
「……彩香、いつも声が大きいって。鼓膜破れちゃうよ。でも──そっか、ちゃんと終わらせたんだね。お疲れ様」
『えっへんっ。あたしにかかれば、ざっとこんなもんなのだよ』
「……よく言うよ。最初からそれくらいやってくれれば、私も苦労しなかった──というか、どうせあの後も柊木くんにいっぱい助けてもらったんでしょ?」
『ちゃんと自分でやったってばぁっ! まぁ……ずっと監視はされてたけどぉ。でも、とにかく終わったの! だからしおりんっ、遊びに行こうぜっ!』
最初よりトーンは落ちたが、楓さんの声は大きすぎて、全部の会話が俺にも筒抜けだった。そして、栞はスマホを耳から離して、ちらりと俺の顔色を伺ってくる。
「って言ってるけど……いいかな、涼?」
「う、うん。そういう約束だったしねぇ」
「だね。で、彩香──遊びに行くって、どこ行くつもりなの?」
『ふふーんっ、よくぞ聞いてくれました。やっぱ夏だからね、プール行こっ!』
「「……プールっ?!」」
そういえば、一度だけ話題に上がったのに、今まですっかり忘れていた。あれは、俺が上半身裸で栞を出迎えた時に、母さんが──
『ちょうどパパからチケットもらっちゃってさぁ、期限が八月いっぱいなんだよね。というわけで、なんと交通費だけで遊べるのだよっ! んでもってさぁ、水着で高原くんのこと、悩殺しちゃおうぜっ!』
……だから、全部聞こえてるんだよなぁ。
でも、わかっていたとしても、栞の水着姿なんて見たら悩殺されるに決まってるけど。想像しただけで、頬が緩む。
そんな俺を見て栞はにんまりと笑い、直後、ハッとした顔になった。
「……プールはいいけど、私、水着なんて持ってないよ」
「……あっ、俺もだ」
いや、あるにはある。
中学の時に水泳の授業で使った、学校指定のものが。でもそれは、遊びに行くのにはあまりふさわしくない気がする。
『ちょっとちょっとぉっ、ダメだよしおりんっ! 水着は夏の必需品だよ?! 夏休み前に用意するくらいじゃなきゃ!』
「そんなこと言われても、ないものはないよ」
『んじゃ、買いに行こっか。今から』
「「今からっ?!」」
『だーって、もうすぐ夏休み終わっちゃうじゃん。というわけで、前に会ったショッピングモール集合ねっ! あたしも遥連れて向かうからさっ! 着いたら連絡ちょーだいね!』
プツッ。
楓さんは言いたいことだけ言って通話を切ってしまった。さすが楓さん、勢いがすごい。
俺と栞は呆然と顔を見合わせた。
「えっと……とりあえず、行く?」
「しょうがないからそうしよっか。でも、涼。さっきなにか言いかけてなかった?」
「え? あ、あぁ、ううん……全然大したことじゃないから大丈夫。それよりも、待たせちゃ悪いから」
そう言って立ち上がり、俺は栞に背を向けて、またこっそりとため息をついた。
……タイミング逃されて、言えるわけないんだよなぁ。




