第108話 名前の由来と、強制アップデート
聡さんの問いの意味がわからなかった。
でも、その答えは知っている。
「十月、二七日……ですよね?」
「あ、涼。覚えててくれたんだね」
聡さんよりも先に、栞が反応した。
「当たり前だよ。忘れるわけない──っていうか、栞の誕生日なんて年一大事な日じゃん」
何気ない会話の中で教えてもらった栞の誕生日。それは、俺の頭の中のカレンダーに花丸付きでしっかりと記されている。
栞がこの世に生まれてきてくれた日。
そんなの、特別以外のなにものでもない。
「へぇ……そんなふうに言ってくれるんだぁ? 涼ってば、私のこと好きすぎじゃないかなぁ?」
「今更そんなの言うまでもないでしょ。好きだよ、めちゃくちゃ──って、なに言わせるの!」
「ふふーんっ、涼が勝手に言ったんだもーんっ」
お互いの家族の前だっていうのに。
栞のペースに呑まれるといつもこうだ。
なのに、じっと見つめてくる栞の瞳から目が離せなくなる。つい、また栞の頭に手が伸びかけて──
「ごほんっ」
聡さんの咳払いで、ビクリと身体が跳ねた。
「仲がいいのは結構だけど、僕らがいることを忘れちゃ困るよ」
「す、すみませんっ!」
「えへへ、ごめんなさぁい」
……栞のせいで怒られたじゃん。
軽く睨んでみたが、栞はぺろりと舌を出すだけでまったく効果はなかった。そうだとは思っていたけど。
「……で、栞の誕生日の話だよ。その日がどんな日か、涼くんはわかるかい?」
「い、いえ、そこまでは」
「だろうね。じゃあ教えてあげよう。十月二七日はね、読書の日なんだ」
「……はぁ」
俺は、気のない返事をすることしかできなかった。ますます意味がわからない。
読書の日が、栞の誕生日とどう関係があるというのだろうか。
頭にハテナを大量に浮かべる俺をよそに、聡さんは続ける。
「僕と文乃はわりと本を読む方でね。読書の日に生まれた娘に、栞、と名付けたんだ。僕ら夫婦の人生という物語、その幸せなページに挟む、栞のような子になってほしい。そんな想いを込めてね」
関係、ものすごくあった。
思いがけず知ることになった、栞の名前の由来。すごく素敵な名付けだと思う。
俺なんて両親の一文字目を合わせただけらしいから、少し羨ましくもある。
けれど、この話を聞かせてくれた意図はまだ掴めない。俺は黙って、聡さんの次の言葉を待った。
「まぁでも、実際は幸せなことばかりじゃなかったよ。涼くんも知っての通り、栞が落ち込んでいる時、僕らはなにもしてやれなかった。当然、悩んだし、苦しかったよ。大切な一人娘だっていうのに、なんて僕らは無力なんだ……ってね」
聡さんは、噛みしめるように言った。目尻には、じわりとにじむ涙。その目は、正面から俺を見据え続けている。
「涼くんは、栞の笑顔を取り戻してくれた。僕らができなかったことを、あっさりとやってのけてくれた。おまけに、ずっと大切にすると誓ってもくれたわけだよ。それだけでも十分なのに、こんな場を設けられたら──僕としては許すしかないじゃないか」
交際の許可を出すにしては、重苦しい雰囲気。
俺と聡さんの間には、きっとなにか齟齬がある。そう思うのに、その正体がまだ掴めない。
「えっと、それって……?」
「なんだい、涼くん。ここにきてとぼけるつもりじゃないだろうね。わざわざご両親まで連れてこられたら、さすがの僕も気付くよ。本当にしたかったのは、そういう話なんだろう? だから──」
そこで聡さんは言葉を区切り、覚悟を決めるように息を吸う。俺は呆然と、それを眺めていることしかできなかった。いや、呼吸すら忘れていたかもしれない。
ようやく、聡さんがなにを勘違いしているのか、わかってしまったから。
「栞との結婚を許すよ。これからは、栞と一緒に二人で幸せな物語を紡いでほしい。たくさんのページを積み重ねて、そこにたくさんの栞を挟めるように。栞の名前の話は、そのためにしたんだ」
聡さんが話終えると、空気がシンと静まり返る。
……言えない。
そこまでの話じゃなかっただなんて、絶対に。
ここは、絶対に幸せにします、と答えるところだろうか。それとも、他になにか道が──
ぐるぐると頭をフル回転させていると、文乃さんが動いた。栞の耳元で、ぽそりと呟く。静まり返っているせいで、丸聞こえだが。
「よかったわね、栞? お父さん、涼くんと結婚してもいいって」
「えっ?! え、えっ、えぇっ?! け、結婚?! 涼と私がっ?!」
栞は勢いよく、ぴょんっと飛び跳ねた。栞にとっても、これは予想外だったらしい。
「……栞まで、なにをそんなに驚いて。もしかして、僕をからかってるのか? そうだとしたら、さすがに僕も怒る──」
「……ぷふっ」
空気の抜けるような音が、聡さんの言葉を遮った。犯人は、文乃さんだった。必死で笑いを堪えているように見えるが、もう隠しきれていない。
聡さんは面食らったような顔をして、文乃さんを見た。
「……なにがそんなにおかしいんだい?」
「くっ、ぷっ……あははっ、もうだめっ。我慢できないわ」
ついに、文乃さんはけらけらと笑い始めた。
「……文乃?」
「はっ、はぁ──おかしいわ。だってあなた、ものすごい勘違いしてるんだもの」
「勘違いって?」
「栞も涼くんも、まだ高校生なのよ?」
「……あっ」
「やっと気付いた? 今回のは、本当にただのお付き合いの挨拶よ」
「……ということは?」
「つまり、誰も結婚の許可をもらいになんて、来てないってことよ。なのにあなたったら……くふっ、ふふふっ。あぁもう、お腹よじれちゃいそうだわ」
「…………はあぁぁぁ」
聡さんは今日一番の大きなため息をつき、天井を見上げた。耳まで赤くなっているのも、ぷるぷると震えているのも、見てないことにした方がいいだろうか。
しばらく、パニクる栞がわたわたする音と、文乃さんの笑い声だけが響いて──
やがて、聡さんは改めて俺を見た。
眉間にシワを寄せて、ものすごく不機嫌そうな顔で。
「涼くん」
「は、はいっ!」
「……そういうわけだから、栞のことを頼んだよ。今日から涼くんは、栞の婚約者だ」
お、押し切ってきたっ?!
栞にもそういうところがあるし、やっぱり親子なんだなぁ。
なんて現実逃避をしていると、すっと手が差し出された。
握り返せ。
聡さんの顔がそう言っている。
俺は慌てて、その手を掴み取った。
じゃないと、まずいことになるぞ。
そう告げる本能に従って。
それが功を奏したのか、聡さんはぎこちなく笑い、潰れそうなほど強く俺の手を握りしめた。
「いやぁ、涼くんが素晴らしい男の子で本当によかった。うんうん、よかったよかった」
ぶんぶんと振り回される手から、聡さんの複雑な心境が伝わってくる。そんなタイミングで、栞が再起動を果たした。
また俺の腕に抱きついて、耳元で叫ぶ。
「ねぇ涼っ!! 結婚は嬉しいけど、私、まだプロポーズもされてないよっ!」
……いや、もう勘弁して。
両親の前で公開プロポーズなんて、心臓がいくつあっても足りやしない。
「あの、栞……? それはまた今度、ね? そういうのは、二人きりの時にしようね?」
俺の取った手段は単純明快。
先延ばしだった。
それでも、栞は満面の笑みを浮かべて──
「はぁいっ。待ってるね」
ぽすんと、俺の胸元に顔を埋めた。
それまで黙っていた母さんは、なぜかしたり顔でしきりに頷き、父さんはまだ意味がよくわかっていない顔でひたすら首を傾げていた。
たぶんこの場においては、父さんの反応が一番正しい。
けれど確かに、俺は栞との関係が強制的にアップデートされたことを悟った。




