第106話 バレた痕跡と、強制連行
俺たちがベッドを出たのは、もうすぐ昼になろうかという頃だった。朝食は、すっかり食べ損ねた。朝から体力だって使い果たした。
それでも、身体と心に満ちるのは、確かな幸福感。
二人でシャワーを浴びて、お互いの身体に落ちた痕跡の数を数えたりして。それから、初日に作ったカレーを、ようやく食べ尽くした。
そうしてまた、俺たちはリビングのソファで寄り添う。寝ている時間を除けば、この三日間で一番多く栞と過ごしたのは、このソファかもしれない。
なにをするでもなく、なにを話すでもなく。ただ穏やかに時間だけが過ぎていく。
そんなことをしていると、不意に栞が壁掛けの時計を見上げ、ため息をついた。
「はぁ……。もうすぐ終わっちゃうなぁ。帰りたくないなぁ」
「でも、ちゃんと帰るって約束してきたんでしょ? なら、約束は守らないと。それで会うの制限されたりしたら、俺も困っちゃうよ」
「そんなのわかってるよぉ。帰らないとは言ってないもん。帰りたくないってだけっ。このまま時間が止まっちゃえばいいのに」
栞はぶすっと頬を膨らませて唇を尖らせた。
「……そしたら俺たちも止まっちゃうから、意味ないけどね」
「ぶー……なんで涼はそんなに平気そうなの? 私が帰っちゃっても、寂しくないの?」
……あぁもう、拗ねちゃって可愛いなぁ。
そんなの、わかりきってるのに。
「俺だって寂しいに決まってるでしょ。本当なら、ずっと手の届くところに閉じ込めておきたいくらいだし。ただね、この先も栞といたいから、ちゃんとするところはちゃんとしないとって思うだけだよ」
「……監禁、する?」
「しないよ」
「……じゃあ、束縛する?」
「だからしないって」
「むぅ……涼からならされてもいいのにぃ」
……なんでそこで残念そうなの?
時々、栞の感性がよくわからない。
けれど、ちゃんとする繋がりで一つだけ、やっておきたいことを思い付いた。
「そういえばなんだけどさ、聡さんが家にいる日ってあるかな?」
「お父さん? 確か今日から五日間くらいお盆休みだったと思うけど」
「本当? なら、その間に俺から話したいことがあるって伝えてもらえないかな?」
「いいけど──お父さんになんのお話するの?」
栞は拗ね顔を引っ込めて、くりんとした瞳で俺を見上げた。
「……大したことじゃないんだけどね。今回のお泊りの件、許してくれたお礼した方がいいかなって。あとはまぁ……栞と付き合うことになりましたって報告、かな」
「お礼はともかく、私たちが付き合ってることはお父さんももう知ってるよ?」
「それでもだよ。俺の口から伝えておきたいんだ。栞のこと、ずっと大事にしますってね」
そう言うと、栞はぱちりと目を瞬かせた。そして、ふわりと微笑む。
「もう……涼ってば真面目なんだからぁ。わかったよ。そういうことなら、それとなく伝えておくね」
「うん、お願いね」
俺は少しだけ安堵した。
今更栞との交際を反対されることはないと思うけど、背中を押してもらった手前、こういうことはきちんとしておきたかった。いずれ聡さんと文乃さんから、大切な一人娘を奪ってしまう予定の俺としては、特に。
けじめをつける、というほど大袈裟にする気はないが、それでも、少しでも安心してもらえるように。
それからしばらくして、聞き慣れたエンジン音が家の外から響いてきた。どうやら、二人きりの時間はもう間もなく終わりを迎えるらしい。
その前に──
俺は栞と向かい合って、そっと両手を包み込んだ。
「あのさ、栞」
「……なぁに、涼?」
「今日家に帰っちゃっても……明日からも、これまで通りに会えるよね?」
「当たり前だよ。これまで通り、会いに来るからね」
「たまには俺が行くんでもいいけど──うん、それが聞けて安心したよ」
「ふふっ、変な涼。そんなの聞かなくてもわかってるくせに」
「そうなんだけど、なんとなくね。じゃあ、栞。最後に──」
俺は右手を、栞の左頬に伸ばす。それだけで、栞は俺の意図を察してくれた。
長い睫毛に縁取られた瞼が、ゆっくりと閉じた。
「三日間、ありがと。またチャンスがあったら、こういうの……しようね。大好きだよ、栞」
楽しい時間をくれた感謝と、溢れんばかりの愛情を込めて。俺たちは静かに唇を重ねた。
激しくもなく、穏やかに。
それでいて、情熱的に。
唇が離れると、栞は小さく息を吐き出した。
「……お礼を言うのは私の方だよ。涼のこと、もっといっぱい大好きにさせてもらっちゃったんだもん」
三日間という短い時間だった。
けれど、それは俺たちの関係をさらに強固にしてくれたと思う。俺たちは決して解けないように手を繋ぎ、指を絡め合い、ソファから立ち上がる。
「さて。父さんと母さんを出迎えに行こうか」
「うんっ。ちゃんと二人でお留守番できましたよって、言ってあげないとね」
「あはは、そんな子供じゃないんだから」
「えへへ」
俺たちは笑い合いながら、玄関に向かう。ちょうどよく、カチャリと鍵が回り、ドアが開いていく。
「おかえり、父さん、母さ──あれ?」
そこから顔を出したのは、母さんと──その後ろに文乃さん。父さんの姿は、どこにも見えない。
「……えっ、お母さん?」
「あ、栞。お迎えに来たわよ」
「……もう来ちゃったんだ」
「なによ。さっき連絡入れておいたでしょ。今から迎えに行くって」
「そんなの見てないもん」
「まったく栞は……。既読がつかないからもしかしてとは思ったけど──涼くんとイチャイチャするのに夢中だったんでしょ?」
文乃さんの視線が、繋がれた俺たちの手に落ちた。おまけに、母さんの視線も。
「あらあら。相変わらず仲良しだこと。栞ちゃん、涼のお世話ありがとね。それにしても──」
母さんと文乃さんは、意味ありげに顔を見合わせた。二人揃って、なにか言いたげにニヤけていた。
「えっと……なにか?」
恐る恐る尋ねると、文乃さんはさらに笑みを深めた。
「うふふっ。言ってもいいのかしら? ねぇ、水希さん?」
「そうですねぇ。なんとなくこうなるんじゃないかとは思ってましたけど」
「……お母さん、なんの話ししてるの?」
「栞、わからないの? 首よ、首」
「「……あっ」」
俺と栞は、同時に声をもらした。
母さんと文乃さんの視線は栞の首筋に向いていた。そこには、今朝俺がつけたばかりの、小さく赤い痕跡がくっきりと残っている。
「やぁねぇ、涼。栞ちゃんとどんなことしてたのかしら? すみませんね、文乃さん。うちの愚息が」
「……うぐっ」
油断してた俺たちのせいではあるけれど、これはもう完全にバレてる。言い訳の余地は残されていなかった。
「いいんですよ、水希さん。どうせ、栞の方から迫ったに決まってますもの。うちの子ったら、涼くんのこと好きすぎちゃって。口を開けば涼くんのことばっかりなんですよ」
「……お、お母さんっ!」
「いえいえ、うちの涼こそ。常々ヘタレだと思ってましたけど、やる時はやるみたいでちょっと見直しちゃいましたよ」
「……母さんまでっ!」
「まぁ、なんにせよ──よかったわね、栞。でも、それはうちに帰る前に隠しておきなさいね。ファンデーション貸してあげるから」
「……そんなに目立ってる?」
「目立ってる目立ってる。そんなのお父さんが見たら、ひっくり返っちゃうわよ」
俺の背中に、つぅっと冷や汗が流れた。
お礼と報告をしに行こうと思っていたのに、もしこれが聡さんにまでバレたらと思うと。
……まじでやばいかも。
なにがどうやばいのかはわからないが、本能がやばいと告げている。
「……わかった。消えるまでは隠しとく」
動揺しきりの俺とは反対に、栞は開き直ることを決めたらしい。少しだけ照れた雰囲気を残して、こくんと頷いた。
「それでね、お母さん。お父さんって、もうお休み入ってるよね? なんかね、涼が話したいことがあるんだって」
「……し、栞っ?!」
俺は悲鳴に似た声をあげた。
まさか、このタイミングでぶっ込んでくるとは思わなくて。
「お父さんなら、今も家にいるけど──涼くんからお話って、もしかして……」
また、母さんと文乃さんが顔を見合わせた。今度は、どこか真面目くさった顔で。
「まさか涼……あんた、もうそこまで?」
「やっぱりそういうことですよね? ね? なら、早い方がいいわよね。水希さん、ご帰宅されたばかりで申し訳ないんですけど、これからご主人と一緒にうちにいらっしゃいませんか?」
「いいですね、それ。私も、栞ちゃんのお父様には一度しっかりご挨拶したいと思ってたところなんです」
「なら決まりですね。ほら栞、早く荷物まとめてらっしゃい。涼くんも、それでいいわよね?」
「え、あの……えぇ?」
もう、断れる雰囲気じゃなかった。
栞はもう少し俺といられるのが嬉しかったのか、光の速さで帰り支度を済ませて。ようやく大荷物を抱えて車から降りてきた父さんも、事情もわからぬまま逆戻りさせられて。
……いや、待って。
どうしてこうなった?!
そう思う間もなく──
我が家と黒羽家の車、二台が連なって発進した。
俺は当然のように、栞と一緒に文乃さんの運転する車の後部座席に乗せられて強制連行。
その道中、栞は文乃さんから受け取ったファンデーションを首筋にぽふぽふとはたいていた。




