第105話 小さな赤い花と、狼くん
気怠い身体をベッドにごろんと横たえると、栞がわずかに乱れた呼吸を整えながら、くたっともたれかかってきた。
「はぁ……涼、すごかったよぉ」
「満足、してもらえた?」
「ひとまず……今はね。でも私、これ……好きだなぁ。頭がぽわぽわするっていうかね──なんか、ハマっちゃいそう」
「……あはは、そりゃ大変だ」
大変なのは主に、俺が、だが。
初めては一昨日の夜。なのに栞は、もう痛みを感じている素振りをまったく見せなくなっていた。
むしろ──
……嬉しそうっていうか、気持ちよさそうっていうか。そんなの見せられたら、ますます歯止めが利かなくなるってのにさぁ。
とはいえ、栞が幸せそうに笑ってくれるなら、なにも言うことはない。俺は少しだけぷるぷるする腕を動かして、栞の身体を引き寄せた。
「……俺も、栞とするの好きかも。だからといって、一回にそう何度もってのは無理だけど」
「ふふっ、わかってるよ。男の子はそうだもんね。別に私もね、涼に無茶させようってわけじゃないから」
「なら、そろそろ朝食にでもする? お腹もすいてきたことだし」
「えー、もう? もうちょっとこうしてたいのにーっ!」
俺の動きを封じるように、栞はがっちりと抱きついてくる。それから、俺の首筋にかぷっと噛みついた。
「ちょっと栞……くすぐったいって。俺を齧ってもお腹はふくれないよ?」
「わはっへるほんっ」
もがもが言いながら、栞はあむあむと甘噛してくる。時折ちゅうっと吸い付いたり、舌先でなぞったり。俺があんまり抵抗しないからって、やりたい放題だった。
こんなことをされると、むずむずするというか、一度引いた熱が戻ってくるというか。何度もは無理とか言った直後だが、どうやら身体は欲に正直らしい。
やがて、ちゅぱっと音を立てて、栞の口が離れた。
「ぷはぁ……涼って、ちょっとしょっぱいんだね」
「……そりゃ、汗かいてるし。嫌なら口ゆすいどいでよ」
「私、嫌だなんて言ってないよ。どっちかというと、クセになる味かなぁ?」
「……そんな人を珍味みたいに」
「えへへ、ごちそうさまでしたっ。じゃあもう一口──と言いたいところなんだけどぉ……ごめんね、涼。なんか痕残っちゃった」
「……え?」
俺は慌てて、自分の首筋に手で触れた。
吸われたせいで、ジンジンはしてる。けれど、指先に感じる肌は普段と変わりないように思えた。
……いやまぁ、栞が舐めたからちょっと湿ってるけど。
「ふふっ。これってたぶん、キスマーク……ってやつだよね? なんだか涼にマーキングしちゃったみたいだね?」
「……マーキングって?」
「私の、大好きで大事な人です……って印、みたいな?」
「……大好きで大事な人の印」
栞の言葉をそっくり繰り返して、俺はごくりと喉を鳴らした。自然と、手が栞の肩に伸びた。
「涼も、私につけたくなっちゃった?」
「……うん。栞に、俺の大好きな人って印、つけてみたい」
「いいよ。どこでも、いくつでも、涼の好きなようにして? 私もまた、涼にいっぱいつけるから」
「……やってみる」
最初は、恐る恐るだった。栞と同じように首筋に噛みついて、痛くしないように気をつけながら食んで、吸って、舌を這わせる。
栞の肌も汗でほんのりしょっぱくて、でも、どことなく甘く感じた。
「……んっ。涼……どう? ついた?」
「まだ、薄っすらかなぁ。すぐ消えちゃいそう」
栞の首筋には、ぽつりと淡いピンク色の蕾。よく見なければ、わからないくらいだった。
「……やだぁ。消えないくらい、涼の印、ちょうだい」
「わかってるって。俺だって──」
その続きを言葉にするよりも前に、俺はまた、同じ場所に吸い付いた。今度はさっきよりも強く。
思っていたよりも、キスマークをつけるのは難しかった。それでも俺は、夢中になって栞に俺の痕跡を残していった。
気付けば、栞の身体には小さな赤い花がいくつもいくつも咲いていた。首筋だけじゃなくて、肩口にも、胸元にも、それから、お腹にも。
栞は目に見える範囲のそれを指先で順に撫でながら、うっとりと息を吐いた。
「……こんなにいっぱい。嬉しいなぁ。これでおうち帰ったあとでも、この三日間が夢じゃなかったんだってわかるね」
「夢なわけないじゃん。でも──確かに夢みたいだったよね」
将来、栞と暮らしたらこんなふうになるんだろうなって。幸せな未来を妄想──いや、夢想してしまうくらいだった。
栞はくすりと笑って、俺の胸元に顔を寄せる。
「涼にも、もっとつけてあげるね。鏡がなくても見えるとこに。私がいない間でも、それを見たら私としたこと、思い出せるように」
「……忘れたりしないって。でも、俺も栞の印、たくさんほしいかな」
栞が俺を好きだって思ってくれる証。そんなの、いくらあっても嬉しいに決まってる。
「はぁい、任せてっ」
しようとしてることとは裏腹に、栞は無邪気に答えて俺に覆いかぶさった。栞が吸い付くたび、小さく赤い栞の痕跡が俺に刻まれた。
きっと数日もすれば消えてしまうのだろうが──その一つ一つがたまらなく愛おしくて。それをくれる栞をぎゅっと抱きしめた。
「……ありがと、栞」
「もういいの?」
「うん、もういい。それより、今は栞とキスしたい」
「んふふっ、キスだけで足りるかなぁ?」
「全然足りない。だから……もう一回、しよ」
俺は栞を抱きしめたまま転がって、上下を入れ替えた。下から俺を見上げる栞は、潤みを帯びた熱っぽい瞳をしていた。
「あはっ、涼が狼くんになっちゃった。やーんっ、こわーい。私、食べられちゃーうっ」
「そんな嬉しそうな顔してよく言うよ。そっちがその気なら──食べてあげるよ、あむっ」
俺はまた、栞の首筋に噛みついた。こんなに煽られたら、草食動物だって狼になるってもんだ。
すでに陽は高く昇り、カーテンの隙間から部屋を明るく照らしている。
それでも俺たちはベッドから降りもせず、終わりに向かうこの時間を惜しむように、素肌を擦り合わせてじゃれ合っていた。




