外伝『篠山秋哉』
読まなくても大丈夫です。
アキチカの生前に何があったのか。
どうして、彼だけが『道具』を持たないのか。
人体破壊が平気な方だけ、お進みください。
Heaven's Rule 外伝
『篠山秋哉』
本当に、些細な事だった。
「弱い者イジメは止せ。お前等の力は、そんな事に使うために鍛えたんじゃないだろ?」
ある夏の夕暮れ、仕事帰りに一組の老夫婦を助けた。男が五、六人で寄って集って、小柄な年寄り二人に殴る蹴るを繰り返してるもんだから、持っていた十尺(3m)の角材で頭を叩いてやった。
その前に、一緒に歩いていた仲間は何度か俺を引き止めた。相手は有名な浪人集団だから、と。
そんなの、関係あるか。目の前で、いくら老い先短い命だとしても、誰かが誰かに命を取られる所なんか見ちまったら夢見が悪くて敵わない。
見殺しにするクソッタレな勇気がなかった。ただ、それだけだった。
俺が男共に手を出した瞬間、仲間は憲兵を呼びに走って行く。
「何だ、お前」
男共の意識が此方に向いても、老夫婦は震えて動けなくなっている。可哀想に、痣だらけになった顔を此方に懸命に向けて、懇願と希望に満ちた目で俺を見ている。
可哀想に。俺に何が出来るという訳ではないが、これで彼等が死ぬ事はない。
薄汚い浪人共には力及ばずとも、俺はあの老夫婦よりは幾分か強い。殴られようと、何とかなる筈。
その程度の自身だった。
「俺は通りすがりの大工だから、残念だが金目の物は持ってない。今の御時世、お前等も色々と苦しいのは解る」
「だったら邪魔すんじゃねぇ、失せろ兄ちゃん」
「だが、こんな人目に付く所で追い剥ぎやってるお前等も悪い。もうすぐ憲兵が来る、逃げるなら今の内に逃げた方がいい」
遠くから、仲間の呼んだ憲兵の笛が轟く。舌打ちをした男共は、俺に一瞥睨みを喰らわせてから素早く退散していった。
その情けない後ろ姿に、思わず溜め息が出る。もう時代は変わったのに、戦争は終わったのに、まだ、ああして取り残された者達がいるのか。
「大丈夫か、お二人さん。見た所、旅行者のようだけど」
手を差し伸べると、余程怖かったのか、老夫婦の妻は俺の手を握って涙ながらに礼を言った。旦那の方は、土下座でもせんばかりに頭を下げ始める。憐れにも見えるその姿に、今まで見て見ぬフリをしていた通行人達が拍手なんぞをし始めた。
感謝なんかが欲しかった訳じゃない。このままでは大事になりそうな気がして、まだ来ない憲兵に悪態を付きそうになる。
「やめてくれ、俺はそういうの苦手なんだよ」
「こんな都会にも、アンタのような優しい人間がいてくれて助かった。これで、伏見へ息子の墓参りに行けます」
「………………」
また、これだ。
時代が変わっても、これだ。
平和なんて何処にも無いじゃないか。時代が変わっても、戦争が終わっても、こうして失った何かに悲しんでる人間がいるじゃないか。
「……伏見には、俺の友人達も眠ってる。着いたら、秋哉は元気にしていると言っておいてくれ」
「わかった。わかったよ。本当に、ありがとう」
憲兵の走ってくる姿を確認して、角材を拾って立ち上がる。一緒に走ってきた仲間に合図を送り、老夫婦を憲兵三人に任せて速やかにその場を後にした。
・
・
俺にはまだ、家に帰ると「おかえり」と言ってくれる家族が居る。
父は、俺達が十歳の時に結核で死んだ。そのすぐ後に看病してた母も結核を発症し、療養先の母の里で死んだ。
残された俺達の面倒を見てくれたのは父方の祖父母だったが、優しかった二人も年には勝てず、祖父を十八の時に、祖母を二十三の時に亡くした。
とんでもないバカ息子だった俺は、旧幕府軍の傭兵として伏見やら函館やらで戦争してて、祖父母の死に目には逢えなかった。負けて帰ってきた上に家には双子の妹だけが独り残されていて、綺麗に飾られた仏壇の前で泣き崩れた俺は、土下座しながら育ての親に届かない想いを謝罪した。
働き者で近所に顔の利く妹は、職の無い俺に今の棟梁を紹介してくれた。祖父母が亡くなってからずっと世話をしてくれたらしい恩人である彼は、祖父のように頑固親父だが、祖母のように優しい人だった。
それから俺は真面目一辺倒に働いて、棟梁が亡くなって俺が棟梁になっても働いて、兄妹二人で互いを支え合いながら頑張った。
俺も妹も頑張り過ぎて、未だに家族は俺達の二人だけだ。
「ただいま」
すっかり日の沈んだ帰路を歩き、玄関の戸を叩く。
「悪い、遅くなっちまった」
「おかえり、秋哉。今日どこか寄ってきたの?」
「残業だったんだ。あと、町に浪人が出てな」
「また? まぁどうせ秋哉が退治したか追い払ってたんでしょうけど……人助けも良いけどね、いい加減『良い娘』の一人でも捕まえてきたらどうなの」
「……いやぁ、一香も早く嫁ぎ先探さないとなぁ」
「もうっ、自分の事棚に上げて!」
火の消えた囲炉裏の脇に、二組の膳を構えて片方に座る。しかし次々と出される料理の数や手際の良い妹の動きを見て、自分一人が座っている事に何だか申し訳無く思えてくるのは己の性分だ。
「……何か、手伝おうか?」
「ちょっと、私の仕事取り上げる気?」
「そんなつもりは……湯飲みと、箸ぐらいは自分で取るから」
「家の中でぐらい、じっとしててよ。秋哉はちょっと働き過ぎるわ」
「そんな事ないさ。俺に出来る事なんて、たかが知れてる」
「だったら座ってて。今、秋哉に出来る事は何も無いから」
強く言われ、しおらしく膳の前に正座で座り直す。何だか居たたまれなくて溜め息が漏れた時、妹も強く言い過ぎたと気にしたのか、「そんなに落ち込まないでよ」と呟くように言った。
「大体、秋哉は気にし過ぎなのよ。自分に出来る事とか、出来ない事とか。人に頼んだり任せるって選択肢は無いの?」
「いやぁ、任せっきりだと悪いだろ。仲間にも家庭持ちの奴何人かいるけど、みんな嫁に手伝えって言われてるらしいし」
「それは子供が出来てからの話だと思うし、私は秋哉の嫁じゃないでしょ」
「……そうなんだけどなぁ……」
妹が向かい側に座り、膳を前に二人で手を合わせる。今日もまた飯が食える事を喜び、自分達のために命を絶たれた魚や野菜に感謝して箸を持つと、一品ずつ、白飯に合わせて口へと運んだ。
食べ慣れた祖母の味付けをそのまま引き継いだ妹の料理は、やっぱりいつ食べても美味い。
「もういいよ、一香が嫁で。この飯が食えなくなるって考えたら、働く意欲が失せる」
「バカ言わないで。私は子供が欲しいもの、一生秋哉の面倒見るなんてゴメンだからね」
「でも一香の場合、せっかく相手を紹介してもらってもすぐに帰って来るじゃん。あれじゃあ、子供どうのって言う以前の話じゃないのか?」
「そ……それは、その人が『運命の相手』じゃなかったって事よ。それに、私が先に嫁いで行っちゃったら、秋哉が寂しいと思って……」
「おいおい、俺を引き合いに出すなよ。子供欲しいんだろ? 俺達来月で三十三になるんだから、早くしないと本当に独り身のままだぞ」
「だから! 秋哉が結婚したら私も家を出るわよ。私に嫁いでって欲しいなら、秋哉が先に嫁をもらいなさい!」
「えー…?」
こんな会話を、実は二人きりになってからずっと繰り返している。
片方が先に相手を見つければ、潔く自分も相手を見つけよう……俺達は双子らしく、全く同じ考えを持っていた。
……否、今思えば、俺達は心のどこか奥深くで兄妹以上の感情を抱いていたのかも知れない。
核心に触れてはいけないと分かっているからこそ、気付いていたからこそ、こんな他愛もない会話で互いの心を計り、調整していたのだろうと思う。
「明日死ぬ訳じゃないし、俺はまだいいかなぁ」
「まったく、秋哉も一生独り身かもね」
「それもいいさ。『ただいま』の後で、この飯が食えるならな」
「……もう」
この時、口を尖らせながらも嬉しそうに笑う妹を、俺は絶対に忘れる事はない。
運命を変えられたのは、俺達が三十三になって五日目の夕方だった。
「ただいま、一香」
仕事終わりの、夏の夕暮れ。
いつもと変わらず、いつもの道を歩いて戻り、玄関の戸を叩く。
引き戸を開けると、変わらず鍵は掛かっていない。
「おい、一香? 居ないのか?」
変わらない一日の筈だった。いつもの日常の筈だった。
しかし、玄関を開けても妹の姿は無く、家の中は土足で踏み荒らされたように泥と散乱した囲炉裏の砂で汚されていた。
引き出し、籠の中すら荒らされている。見渡しても、どこにも彼女の姿はない。
「……い、ちか……?」
しまった、と思った。すぐに、誰の仕業か見当がついた。
後ろに気配を感じて、振り返ろうとした瞬間、後頭部に強い衝撃を感じる。痛みに顔を歪める間も無く四肢の力が抜け落ち、汚された床に崩れ落ちる前に意識が途絶えた。
・
・
起きろ、という声が聞こえた。目を開ける前に、顔に水が掛けられたのだと理解する。まだ朦朧とする意識の中で、自分は膝をついて座らされている事に気付いた。
顔を拭おうとしたが、腕が後ろから動かない。手首の痛みからして、麻縄か何かで縛られているのだろうと推測する。仕方無いから顔を振るって水気を飛ばし、ゆっくりと目を開けると、数尺先の土の上で顔の半分を赤黒く腫らした妹が、涙を流しながら裸で奴等に押さえ付けられていた。
その場所は、家から少し離れた所にある廃寺の境内だった。幾つも焚かれた松明は、夜だろうと辺りを昼間のように明るく照らしている。その中で何人もの男に取り囲まれた妹は、泣き叫び、抵抗し、殴られながら、何度も何度も俺の名を叫んでいた。
男共の何人かは、見覚えのある顔だった。すぐに、これが老夫婦を助けた際の報復なのだと悟った。
止めろ、だったと思う。俺が何かを喚いた所で、どうやら首領らしい男が、俺の髪を掴んで引き上げる。耳元で何か酷い事を言われた気がしたが、その男は妹を俺の嫁か恋人と勘違いしていたようだったから、妹だと教えてやればそいつは鼻で嘲笑った。どちらでも良かったらしい。
吐き気がする光景に向かって、俺は情けないほど泣き喚いて、懇願して、頭を下げて、妹の名前を叫んで、また泣いた。その間も、妹が俺の名を呼ぶ声が延々と聞こえていた。
夜通し続いた地獄のような時間。松明は燃え尽き、辺りは日の光で明るくなっている。妹のか細くなっていった声も、空が白み始めた頃にはもう聞こえなくなっていた。
妹が動かなくなったから、と男共は標的を俺へと変えたらしい。泣き枯れて心を手離していた俺の髪を掴んで顔を上へ向かせると、そんなに力の無い表情をしていたのか、俺を見た誰かが鼻で笑う声がした。
俺を妹と同じように凌辱するか、暴行して殺すかで楽しげに話し合っている。身体を起こされて座らされ、首領の男が皆の制止を聞かずに、俺の腕を縛る縄を腰の脇差で斬った。
身体が自由になっても、俺にはもう抵抗する気力など無い。大丈夫だっただろ、という首領の男の声が聞こえても、俺は項垂れたまま動く気も起きなかった。
逃げた所で意味はない。帰っても、あの家にはもう誰も居ない。両親も、祖父母も、愛していた妹さえ。
俺にはもう、何も無かった。出来る事も、守るものも、何も残っていなかった。
時代が変わっても、戦争が終わっても、平和なんて何処にもない。
出来る事は何もない。なら、いっそこのまま殺された方がいい。そう思った。
結局、一対一形式で無抵抗の俺を甚振った後で、嬲り殺す事に決まったようだ。俺は腕を引かれて立ち上がらされ、土に線引かれた土俵へと放り出される。
その時、土俵を囲む男共の間から、打ち捨てられたままの白い身体が目に入った。
元の肌の色が判らないほど全体が赤黒く腫れ、元の骨格が判らないほど四肢が折れ曲がってしまっているのに、初めて見る彼女の素肌は朝陽に照らされ、白く輝いていた。
美しいとさえ、思う程に。
ふと、自分の汚れた掌を見下ろす。手首には麻縄が皮膚に擦れて血が滲み、鬱血の痕が深く残っている。
もし彼女が最期に望んだ事を、俺が最期に『この手』で叶えてやれるなら。
少しは、彼女の無念を晴らせるだろうか。
「……俺に……何が……」
辺りを見渡すと、下卑た笑みを浮かべる男共が、俺を取り囲んで笑っている。彼女にもした様に、俺を取り囲んで笑っている。
数は二十七。この男共に取り囲まれた妹は、きっと、とても怖かっただろう。
苦しかっただろう。恨んだだろう。悔しかっただろう。悲しかっただろう。憎んだだろう。呪っただろう。この場にいる全員が、死ねば良いと思っただろう。
彼女のために、何をしてやれるだろうか。
彼女のために、何か出来る事はないか。
せめて、死ぬ前に何か一つだけでも。
俺に何が出来るのか。
こんな俺に、何か出来るのか。
俺に今、出来る事は。
俺に今、出来る事は。
俺には何が。
俺に何が。
俺には。俺には。俺には。
今、何が出来る?
「俺に、出来る事……」
この場にいる、全員を殺す事。
やっちまえ、という笑い声が聞こえた。
まずは一人目。同じ土俵の中にいる男の拳がやけに遅く見えて、軽く受け流すと男の真正面がガラ空きになった。右で胸骨を狙って殴り付けると男が息を詰まらせたように苦しみ出したから、足を引っ掛けて仰向けに倒し、息をしようと男が仰け反らせた首に目掛けて足を踏み降ろす。すると、男の首は音を立てて簡単に折れた。
なんだ、意外と簡単じゃないか。そう思った。
傭兵をやっていた頃よりも、長筒や大砲を使うよりも自然に、こんなにも簡単に人が死んだ。
周りを囲む男共がざわめき出す。もちろん俺は誰一人として逃がす気は無いが、逆に立ち向かって来てくれれば手間が省けて助るというもの。
次に二人目と三人目。左右から二人同時に向かってきたから同士討ちを誘い、間から抜け出て二人の頭を打ち合わせる。二人の頭は南瓜のように柔らかく砕け、頭蓋の球体部半分以上が陥没して潰れた。
そして四人目。同じ様に殴り掛かってきたのを避けて胸の中心に一撃を打ち込み、五人目は自分との距離が近かったから動く前に喉を掴んで、首が太かったから折るのは諦めて肉を引っ千切った。
血が吹き出し、汚いと思って足で蹴って向こうへ倒す。四人目がまだ苦しそうに地面でもがいていたから、その頭に体重を掛けて踏み潰した。
抉り取った肉を投げ捨てて、汚れた手を自分の服で拭う。赤く染まった服を見て『しまった』と一瞬思ったが、そういえばこの服ももう洗わなくて良いんだな、とぼんやり思い直すと、何故か枯れた筈の涙が頬を伝った。
六人目は逃げようとした奴の襟を捕まえて、腕を巻き込んで首を折る。七人目も同じように逃げようとしたから六人目を投げ付けて転倒させ、小柄だったから持ち上げて膝の上で背骨を逆に折り、頭から地面に叩き落とした。
残り二十人。ざわめきは悲鳴に変わりつつある。
向かってくる奴を優先的に狙う事にした時、八人目でやっと、顎のある一点を狙うと、テコの原理と遠心力で首が回転する事に気が付いた。その方法で九人目、十人目も殴って首をへし折り、後ろから来た十一人目は回転蹴りで顎を狙った。
社の前で腰を抜かしていた十二人目は、俺が近付いた瞬間に泣きながら失禁し、引き攣れを起こして勝手に死んだ。何だか癪に障ったがとても気味の良い顔をしていたから、取り敢えず転がして胸の上に足を置き、踵に体重を掛けて肋骨を陥没させ、心臓を潰しておいた。
日は既に昇っている。いくら廃屋と言えど人が来ないとも限らないから、俺は一度あの広場へ戻り、妹を抱き上げて廃堂の前に運んだ。途中、十二人目を足で避け、妹を堂の縁側にそっと寝かせる。
彼女の首は皮で繋がっている様な状態で、薄く開いたままの口の中は、血と白い何かで汚れ塗れていた。
急に込み上げてきた嘔気に耐えられず、胃の中の物を全部吐き出す。触っただけで分かるほど、腹の中身も、骨も、全て滅茶苦茶にされていた。
えづいた所為か、また涙が溢れ出てくる。堂の外に引っ掛けられたボロボロの御簾を引き破って彼女の身体に覆い被せ、取り敢えずは目隠しになるだろうと胸を撫で下ろす。早く終わらせる事を彼女に誓い、俺は再び歩き始めた。
十三人目。奴等はやっと、素手で向かってくる事を諦めたらしい。後ろから刀で斬りかかってきた男を右に避け、足を引っ掻けると前のめりに倒れる。背に足を乗せ刀を取り上げて後頭部に突き刺し、すぐに引き抜くと後ろから飛び掛ってきた十四人目をその刀で首を飛ばした。十五人目は横の草藪から出てきた所に胸を狙って刺し、引き抜いた後すぐ、後ろの十六人目の顎から上を斬り削いだ。
剣術を知らない俺は主に刺す事でしか刀を使わないから、切れ味に違和感を感じて刀を見てみると、先の方が既に刃零れを起こしてしまっている。刃先の削れた箇所から上を踏んで刀身をへし折ると、まだ使えるかな、と思って折った先も拾い上げ、自分の袖口を破って短い刀身の折り口に巻き付けた。
右手に折れた刀、左に折った刀身を持ち、境内の中を何も考えずにゆっくり徘徊する。石碑の後ろに隠れていた十七人目を見つけて折れた刀で背中を刺すが、それ以降、残りの十人は中々見つからなかった。
境内の入り口以外に出口はない。あまり目を離さずに移動していたから、あそこから逃げた奴はいないだろう。
だとしたら、あとは廃堂の中だけだ。
妹がいる堂の入り口に回り、縁側に上がって御簾の上から彼女の長い髪を撫でる。そして破れた障子の隙間から中を覗き込むと、すぐ目の前に一本の木刀を見つけた。
手を伸ばして拾う。帯に差し、腰の後ろへと回した。
元々は立派な本殿だったらしく、中は意外と広いようだ。しかし今は奴等のアジトと化しており、寺院としての神々しさは微塵も感じない。
俺は障子を手前に引いて取り払い、中に足を踏み入れた。
罠に掛かったな、と掠れた声で誰かが言った。自分の読みが当たった事を言われても何とも思わなかったが、早く襲ってくれば良いものを、警戒しているのか相手は姿を見せない。
お前は何なんだ、と質問される。興味無い、と答えておいた。
声は屋根の梁から聞こえてくる。上に何人か隠れているようだが、後は壁か、仏像の後ろか、別の部屋か。
何をそんなに怯えているのか、怪訝に思った。あんなに、俺を殺そうと楽しげに笑っていたのに。妹に対して、あれほど楽しそうに暴行を加えていたのに。
その疑問を気まぐれで投げてみると、相手は「ふざけるな」と怒鳴ってきた。ふざけたつもりはないのだが。
屋根の梁にいる奴が、死にたくないから隠れるんだ的な事を言った。そっちこそ何をふざけた事を言っているのか、ついカッとなって声の方へ折れた刀身を投げ付けてしまった。
投げた刀身はどこかに当たったのか、すぐに背中から落ちてきた十八人目は右腿を押さえて泣き叫んでいる。腿の刀身を引き抜いて胸の上に足を置くと、そいつは酷く憔悴した様子で命乞いを始めた。
死にたくないとか、殺さないでくれとか、やめてくれとか。
泣き喚くその姿を見ていると、また涙が溢れた。
乗せた足に体重を掛けていく。足の裏から、胸骨が砕けていくのがわかる。呻き声を微かに上がったのを聞いた後、潰れるような音を立てて肋骨の奥に足が埋まった。
俺の身体は、そこまで重い訳じゃない。背も、人よりは多少高いぐらいで、職業柄筋肉質ではあるが、標準と言える体格だった。
そんな俺に、何故ここまでの力が出せるのか……埋まった血まみれの足を抜きながら小さく疑問に思う。もしかしたら俺は目的を果たすために、彼女のために、自分のために、人であるための枷を外し、人である事を辞めてしまったのかも知れない。
化け物め、と聞こえた瞬間、壁の影と梁からもう一人ずつ降りてくる。後ろに降りてきた十九人目は振り向き様に顎の下から上に向かって折った刀身を突き刺し、壁の影から出てきた二十人目は折れた刀で胸を狙った。
しかし、折った長さを忘れていた所為か刺さったのは肩だった。仕方無いから足を掛けて仰向けに倒すも、その時、そいつは命乞いと共に俺が何故泣いているのか聞いてきた。
命乞いされて泣くなら、何故殺す。そう問われて、俺はそいつに、俺達が泣いて命乞いした時に、何故助けてくれなかったのか聞き返した。口籠もったそいつの頭に折れた刀を突き立て、何だか腹が立ったからその横腹を深く蹴っ飛ばした。
刺さったままの折れた刀を使う気になれなくて、腰の木刀を抜く。もしかしたらこの木刀は十二人目の奴が持っていた物かな、などと思いながら、廃堂の中をぐるりと見渡すと、これ以上人の気配は感じなかった。
一歩目を踏み出すと、ふらふらと勝手に前へ足が動いた。誰かが背中から押しているような、誰かに手を引かれるような……そんな感覚の中で廃堂の中を進んでいくと、訓練所というか、道場というか、そんな開けた場所に出た。
ふと風に乗って、鼻をつく臭いが外から流れてくる。開いたままの中庭に近付くと、そこには腐敗し溶け始めた何人もの人間の身体が打ち捨てられていた。男か女かも解らない。ただ、彼等も、あの男共の犠牲者である事には間違いなかった。
しかし、そんな変わり果てた姿の彼等を目の当たりにしても、俺は何とも思わなかった。可哀想だとか、酷いとか、そんな感情すら少しも感じなかった。
その瞬間、俺は悟る。嗚呼、俺は、本当に『人』を辞めたのか。
慈悲も、喜嬉も、杞憂も、憎悪も、無い。今の俺はたとえ妹が甦ったとしても、きっともう何も感じないのだろう。
俺はただ、自分が出来る事をやり遂げるだけだ。あの場に居た『全員』を、手当たり次第に殺すだけ。
それだけのために、俺は今、動いている。
後ろから耳をつんざく奇声が聞こえて、外に向いたまま木刀を後ろに突き出すと奇声が呻きに変わった。体重をそのまま後ろに倒して仰向けになり、全体重を掛けてそいつの腹に木刀を突き立てる。柄に捕まって後ろに押し込むと、木でも肉を貫通する事ができた。
二十一人目の上に重なった時、丁度上から飛び掛かってきた奴と目が合う。木刀を引き抜いて振り上げ、真上に構えると二十二人目は空中で避けきれずにそのまま木刀の上に落ちてきた。
木刀はそいつの腹を貫通し、横に倒して木刀を抜き捨てる。その穴に手を突っ込んで心臓を引き出すと、最初は動いていたが、異様な嫌悪感を感じてすぐに握り潰して止めた。
天井の方から、殺してやる、と声がする。足音からして三人は居そうだと推測し、部屋の中心へと歩いて移動した。
その方が、全員で囲んで襲ってくるかと思ったからだ。姿さえ見えれば、迎え撃つのが簡単になる。
しかし中心へ移って暫く待っても、相手はやはり姿を見せない。さっきの本堂と同じ様に、上から此方の隙を窺っているようだ。
俺は持ったままの肉を外に投げ捨てて、手を拭った後でその場に座り込んだ。多少なり身体は疲れているようで、座って初めて、自分の息が少し上がっている事に気付く。
何も考えず座っているだけで五分。痺れを切らしたらしい相手の一人が、俺に声を掛けてきた。
聞き覚えがある。首領がここにいるのか。
やってくれたな、と言われたから、何もしていない、と答えた。現に、それが事実だったからだ。
しかしそんな事は理解されず、誰かの舌打ちが聞こえる。
何か相談しているのだろうか。作戦でも立てているのだろうか。さっさと出てきてくれれば楽なのだが。
その時、俺の右側に見覚えのある姿が上から降りてくる。近付いてくるわけでもなく、その首領の男も、此方の動きを探り探り動いているようだ。
仇討ちのつもりか、と問われ、否定する。我らが憎いか、と問われ、否定する。殺す事に理由はないのか、と問われ、肯定する。
今なら逃がしてやる、と言われ、逃げる理由も無い、と答えた。
首領の男が一歩前に出る。上から次々と仲間が降りてきて、距離を保ったまま俺の回りを取り囲んだ。動かない俺に、首領の男があの質問を問うてくる。お前は何故、殺しているのか、と。理由もなく、殺せるのか、と。
俺の顔を見た男共は、何故か皆怯えた目で見返してきた。
「……理由は無い。それ以外に、『俺に出来る事』は無いから」
俺は今、どんな顔をしているのだろう。何の考えもなく思ったままを言ったつもりだったが、周りを一歩退かせる程度には、恐ろしい表情をしていたらしい。
まぁ、興味も無いが。
一人が動く。全員が各々の動きを始め、俺を殺そうと刃を向ける。最初の一人が顔面目掛けて刀を突き付けた時、身体を仰け反らせて刀を躱した。
後ろに倒れ、寝転がったまま二十三人目の腹を殴り上げて捕まえると、そいつの腕を折って刃を上に向け、降ってきた二十四人目の胸を一突きにする。二十三人目を盾にして攻撃を受け止め、二十五人目の足を蹴って前のめりに倒すとその喉に爪を立てて肉を引き裂く。素早く身体を起こして二十三人目の刀を奪い、喉を押さえて倒れたそいつの上に、刀に刺さったままの二十四人目を覆い被せて串刺しにした。
後ろからの一撃を避け、次の凪ぎ払いも躱す。木刀の所まで転がって場所を移し、すぐに起き上がって木刀でその短い刃を防いだ。
しかし後ろからの襲撃を感じ、真正面の男の肩に手を置き宙を超えて背後に回る。振り返っての斬り付けを避けながら体勢を立て直し、挟み撃ちに遭わないよう何とか二人の姿を視界に入れながら動いた。
この二人が、こいつ等の中心だったのだろう。首領と、その直属あたりか幹部か。
……こいつ等が、妹を。
床に踏み込み、高く飛び上がる。右腕を振りかぶって殴り掛かった時、ここぞとばかりに狙っていたのだろう男は短い刃を凪ぎ払うように振り下ろした。
ちょうど右腕の下、胸から脇腹にかけて焼けるような熱を感じる。しかしそんな事は対して気にならず、そのまま腕を振って二十六人目の顔面を殴り飛ばした。
拳から離れたその顔は、明らかに陥没し目は完全に潰れている。数尺先に落下したソレを追い掛け、もう一度頭を殴り潰してトドメを差した。
その時、今度は左側の背中から左腹部が熱くなる。後ろから刺されたらしかったが、そういえば首領が持っていた脇差は鍔が無かった筈だと思い出し、腹から突き出た刀身を素手で掴むと前に引き出した。全部引き抜いてすぐに構え、背後で驚いている二十七人目の腹に脇差を斬り付けると裂けた腹に腕を突っ込んで中を引き出した。
膝から崩れ落ちた相手を仰向けに押し倒し、額に足を乗せると初めてその男の言葉がハッキリと耳に入ってくる。
「ワシで最後やな、化けモンよ」
その一言が妙に引っ掛かって、俺はその額から足を退けた。
命乞いをする下っ派達とは明らかに違う、上に立つ者が持つ貫禄と言うのか。死に臆さないその不敵とも取れる笑みに、少しだけ、ほんの少しだけ話が聞きたくなった。
「……化け物か。さっきもそう言われたなぁ」
「仲間ん皆殺しにしといて、言わん方がおかしいやろ」
「でもまだ、あと一人残ってる」
「ワシはもう動けん。ワシが死んだら終わりや」
「あと一人、残ってるんだよ。あの場に居た全員を殺さないと」
その男は、乾いた笑い声を上げる。
「狂とるのう、お前。いや、ワシ等が狂わしたんか」
「俺は狂ってなどいないさ。ただ、出来る事をするまでだ」
「今のお前やったら、日本征服も夢ちゃうで」
「いやぁ、興味無いなぁ。それより、お前いつ死ぬの? 俺まだする事あるんだけど」
「まぁそう言いなや。ワシも直、地獄へ堕ちるさかい」
「これだけ腸引き摺り出しても、人間って死なないんだなぁ」
俺は、まだ動くその頭の横に腰を下ろした。そいつの腹を裂いた脇差を手で弄んだ後、そいつの腰から鞘を取って刀身を納め、自分の腰に差し直す。
「人間の身体っちゅーんはしぶといモンや。それを、簡単に潰してまうお前は、ホンマ化けモンやで」
「へーえ、そう。まぁ特に興味も無いけど」
「それこそ……お前は、ワシが死んだ後、どないすんねや? 妹弔うて、妹の分も、生きていくんか」
「それこそ興味無いね。俺は最後の一人だから、ちゃんと殺さないと」
「…………己を殺す、言うんか」
「これが『俺に出来る事』だ。他にはもう、何も無いから」
「……ある。あるで。お前にも……出来る事が、もう、一つ」
男の言葉が、途切れ途切れになっていく。呼吸が荒れ、短く切るような息を吐いている。
「何が出来るって?」
「お前、に……しか、出来ん、事や。お前が……殺した、奴等。皆を、集めて……ここで、弔うたって、くれ」
「……それは、誰のためになる?」
「お前の、ためや。今の……お前や、ないぞ。人間やった、頃の……お前の、魂の、ために……人間やったお前を……好いとった、お前の、妹の……ため、に」
「……………………」
「知った口聞くな、言いたいんは……分かる。ワシも……許しは、請わん。せやけど、な。自分を、最後に、残すん……やったら……せめて、最期くらい……人間らしい所……見して、みい…………」
「……分かった。それが、『俺に出来る事』なら」
「………………頼…………ん……」
そいつは、それ以上何も言わなかった。
死んだのか。俺は腰を上げ立ち上がる。俺に出来る事なら、成し遂げなければならない。約束もしてしまったし。
道場の中にある七人分の死体を引き摺って、本堂の仏像の前に一つ一つ並べた。折った部位、潰した肉も丁寧に纏め、身体の上に乗せた。
入口の縁側まで歩く。引き破った御簾を払い除け、首が垂れないように右腕で抱え込んで細く白い身体を持ち上げた。
後で綺麗にしてやらなければ。水がいるな。拭く物も構えないと。
そんな事を考えながら妹を一番仏像に近い所に寝かせると、外の奴等も取りに廃堂を出て歩き回った。
潰した頭、斬り落とした部位、ばら撒いた肉片。残さず全てかき集め、各々の死体に乗せる。血の臭いに酔って一度吐いたが、それ以外は何事も無く、一人残さず本堂の床に並べて置いた。
日は傾き始めている。確か、道場の脇の、死体が積み重ねられた中庭に古い井戸があった筈だ。そこへ向かい、腐乱した死体を掻き分けて庭に出る。井戸の桶がまだ使える事を確認して、縄を片手に井戸へと桶を放り込んだ。
汲み上げてみると、水はまだ澄んでいる。俺は一先ず上の服を脱いで、血で汚れた自分の顔と身体を脱いだ服で洗い流した。右脇に激痛が走ったが、見てみると皮が斬れて骨が見えている。しかしその程度で特に何をするでもなく、腹と背も、止まらない血は無視した。
水を一度捨て、再度汲み直して本堂に持っていく。各々の着物を引き破って水を浸し、二十七人全員の汚れた手足と、残っている奴は顔も拭いて回った。
使った布は、広げて頭に掛ける。弔う事とはこんな感じでいいのだろうか、とも思ったが、経など挙げられない自分に出来る事など結局こんな事しか浮かばないから、これで勘弁してもらうしかない。
水を変えようともう一度井戸へ向かった時、ふと思い立ち、腐敗して黒くなった死体も全て本堂へ運んだ。別に頼まれた事ではないが、自分が殺した奴等だけを弔うのは、不公平なような気がした故の気まぐれだった。
慈悲の心が有る訳ではない。ただ彼等とて、妹と同じで死にたくて死んだ訳ではない。立派に奴等の被害者なのだ。
しかし、腐った身体を運ぶのは大変だった。持ち上げれば肉が千切れ、簡単に潰れたり抉れたりした。凄まじい腐臭に意識が飛びそうになるが、十一人全員を運んで千切れた身体を組み合わせ、彼等もちゃんと顔を拭い、皮膚が剥がれ落ちない程度に綺麗にしてやってから、一人一人に布を掛けた。
裸の妹は、自分の腰帯を解いて使った。折れた身体は元通りには戻らなかったが、身体を清めていく程に、苦悩に満ちていた悲しい表情が少しずつ和らいでいく気がした。
多少目を逸らしながら、穴という穴から穢れた体液を掻き出し、傷口から血を拭き取り、髪を整えて汚れを取り除く。
痣はさすがに消せなかったが、風呂上がりのような清々しさを感じるほどに汚れを落とす事ができた。
頼まれた『弔い』を入念にし過ぎて、外はもう空が赤くなっている。
確か最後に帰った時も、こんな夕暮れだったか。
「……そういえば、昨日は言えなかったなぁ」
仏像の前にどっかりと座り込み、その首に気を付けて妹を抱き上げる。
目の前に広がるのは、等間隔に並び、布を被った何体もの死体の山だ。夕焼けで赤く染まるその光景は凄惨であり、しかしどこか、神秘的に思えた。
自然と笑みが溢れる。脇差を手に取り、鞘から抜いた。首に宛がうと、刀身の冷たさに笑い声が漏れた。
もうすぐ、終わる。彼女への償いが。
お前を殺した奴は、これで最後だ。安心して逝くんだぞ。
「…………ただいま、一香」
昨日の夕暮れ、言えなかった言葉を彼女の耳許で囁いて、後ろから前へと一気に脇差を斬り下ろす。半分以上を抉った首からは一瞬血が吹き出て、彼女の脚に散った。
汚してしまったなぁ、と頭の片隅で思うが、すぐに意識が遠退いていき、何も考えられなくなっていく。
後は分からない。きっと、俺は死んだ。
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入所申請届
号番 第七○二号
生名 篠山秋哉
戒名 無
対象 保護
暫定値 零
生存期間 一八四七 - 一八八○
生存齢 三十三
罪歴
第一型
京都 伏見ニテ銃撃 十一人殺害
北海道 函館ニテ銃撃 投擲 十四人殺害
第二型
自宅南 旧妙円寺ニテ殴撲 斬刺 二十七人殺害
配属可能部署 回収班
審判 特別処遇
備考:
生前ノ思想カラ 改善ノ余地有ト認定
但シ途中退職 及ビ所外逃亡ハ 即時保護対象ヨリ回収対象ヘ変更トシ
黄泉比良坂三途収容所ヘノ強制送還ト心得タシ
当 冥府公認遺留者送迎所 ヘノ配属ヲ 許可スル
「ようこそ、我が回収班へ」
朦朧と燻る意識の中で、男の声が耳に響いた。
END




