第3話 不協和音と滑稽な粛清
粛清は、光り輝く狂気のパレードだった。
天から降り注ぐ「 囁き 」に当てられた人々は、誰もが歓喜の声を上げ、自らその命を「 返上 」し始めたのだ。
テレビでは「天の声を聞かないように」とテロップが流れていた。 どこからともなく、「他の音を流し続ければ助かる」という噂も広まっている。
キョウコは鼻で笑った。
「そんなもので防げるなら、とっくに耳鳴りなんて治ってるよ」
幸福の絶頂で自ら命を絶っていく群衆を、キョウコは冷めた目で見つめていた。
目の前の交差点では、信号待ちをしていた人々が「 お迎えが来た! 」と歓喜の悲鳴を上げながら、走ってくる大型トラックの前に笑顔で身を投げ出していく。
オフィス街のビルを見上げれば、スーツ姿のサラリーマンたちが「 肉体からの卒業だ! 」と万歳三唱しながら、窓から次々と降ってくる。
公園では、家族連れがピクニックシートの上で「 天使様、いただきます 」と致死量の毒を盛ったサンドイッチを笑顔で頬張る。
しかし、キョウコの目の前で繰り広げられている結果はこうだ。
大型トラックに轢き潰された彼らの顔は、眼球を限界まで見開き、恐怖に引き攣った絶望の形相へと変貌していた。
ビルから身を投げたサラリーマンたちの、アスファルトに叩きつけられた顔は、どれも地獄の底を覗き込んだような、おぞましい苦悶に歪んで固まっている。
毒盛りサンドイッチを食べていたピクニック親子は、死の間際に首を掻きむしりながら、この世のものとは思えない恨み顔で絶命していった。
かつての同僚も、恍惚とした目でビルの屋上から満面の笑みを浮かべ、そのまま虚空へと足を踏み出していった。
キョウコには、彼らを止める言葉が見つからなかった。なぜなら、彼らをそこまで駆り立てている「 至高の音楽 」が、キョウコの耳には一切届かないからだ。
誰もいないはずの信号機が、律儀に赤と青を繰り返していた。
キョウコは赤信号を無視し、横断歩道に散乱する「 物体 」を、倒れた看板か不法投棄の粗大ゴミでも避けるように無造作に跨いで歩き出した。
それはつい数分前まで人間だったはずの肉の塊だったが、キョウコには、カラスが漁って散らかしたゴミ箱の中身と大差なく見えた。
世界中が同じ幻聴に酔いしれ、歓喜のパレードに熱狂して束になって死んでいく。そのグロテスクな一体感は、彼女にとって不快な集団狂気以外の何物でもなかった。
今、街中に転がっているのは、最後まで幸福だと信じた人々の残骸だった。
それでも、現在の彼女の最大の関心事は、アスファルトにへばりついた不快な赤い粘液で靴の裏が汚れるという苛立ちと、頭の中で絶え間なく鳴り響く「 キーン 」という耳鳴りだけだった。
そして、ついに「 それ 」がキョウコの前に現れた。
姿形はない。ただ、圧倒的な光と、空間そのものを震わせるような恐ろしいほどの音圧が彼女を包み込んだ。
鼓膜を直接揺らすのではなく、脳髄に直接語りかけてくるような、おぞましいほどに甘美な旋律。それが、人々を死の歓喜へと導いた「 天使の囁き 」の正体なのだろうか。
囁きは、キョウコを「 あちら側 」へ誘うため、あの手この手で周波数を変え、彼女の精神に同調しようと探りを入れているかのようだった。
キョウコはコートのポケットから、くすんだ金属製の音叉を取り出した。長年、自分の耳鳴りのピッチを確認するために持ち歩いているものだ。
彼女はそれを、無表情のまま近くの標識のポールに打ち付けた。
カーーーン、という澄んだ音が鳴る。
天使の囁きが、その音を掻き消そうと、怒りを含んだような強烈な不協和音へと変化した。脳内を直接破壊するような、暴力的で精緻な旋律だ。
だが、そこは24時間365日、狂気的な高周波が支配するキョウコの絶対的なノイズのテリトリーであった。
天使の旋律がどれほど神聖で巨大であろうと、キョウコの頭蓋にこびりついた執拗な金属音を上書きすることはできない。
光の圧力がさらに強まる。囁きが、なんとかキョウコの耳鳴りの高さに自らを合わせようと、必死に変調していく。
だが、キョウコの頭蓋を支配するノイズは微塵も揺らがなかった。
不快なうなりが生じ、やがて2つの周波数が完全に一致し、波の山と谷が逆転した状態で激突した――次の瞬間。
心電図の波形がふっつりと平坦になるように、互いの波が逆位相となって打ち消し合い、完全に相殺された。
完璧な「 無音 」が訪れたのだ。
――それは、音の死だった。
見えない光の存在が、機能を停止した機械のようにフッと揺らいで消滅した。
――何が起きたのかは、理解できなかった。
その絶対的な沈黙が、キョウコ自身に向けられたものなのかどうかも、定かではない。




