第4話 世界で一番静かな場所
どれほどの時間が過ぎたのだろうか。
気がつくと、あれほど街を埋め尽くしていた聖歌も、人々の狂乱した自殺フェスティバルも、すべてが吸い込まれるように消え去っていた。
キョウコは、誰もいなくなったメインストリートの真ん中に立ち尽くしている。
かつては車と人が行き交い、絶え間ない騒音に満ちていたその場所は今、ひっそりと静まり返っている。
視界の端から端まで、おびただしい数の肉の塊が、不法投棄された粗大ゴミのように折り重なっていた。
直前まで天使の囁きに幸福を叫んでいたはずの群衆は、目をひん剥き、筋肉を限界まで硬直させたおぞましい形相のまま転がっている。
人も、囁きも、光も、この場所からは消え去っていた。
「 ……あ 」
ふと、キョウコは気づいた。
頭蓋の奥を満たしていた違和感が、完全に消え失せていることに。
物心ついた時から彼女の頭蓋を支配し続けていたあの執拗な「 キーン 」という音が。一生付き合っていくのだと諦めていた、あの孤独なノイズが。
キョウコは、ゆっくりと両手を上に伸ばし、深く、深く、背伸びをした。
肺を満たす空気はどこまでも冷たく、清浄だ。
「 ……ああ、静かだな 」
――だが、その静けさが、どこまで続いているのかは測り知れない。
口からこぼれた独白が、誰にも邪魔されることなく、まっすぐ空へと吸い込まれていく。耳の奥に届くのは、重なり合った肉の隙間を吹き抜ける風の音のようなものだけだ。
ようやく手に入れた、彼女だけの世界。
キョウコはかすかに微笑むと、足元に転がる肉の塊を、無造作に踏み越えながら、一定のステップで歩き出した。
タアン、タアン。
アスファルトを蹴る自分の足音が、静寂の街に心地よく響く。
だが、数十メートル進んだところで、キョウコの足がピタリと止まった。
タアン、タアン……タン。
自分が立ち止まった直後、背後をなぞるように「 もう1人分のステップの足音 」が遅れて聞こえたのだ。
キョウコはゆっくりと振り返った。
そこには、ただ静まり返った街が続いているだけで、動くものは何ひとつない。気のせいかと思い、キョウコは再び前を向いて歩き出した。
タアン、タアン。
背後からも、タアン、タアン。
間違いない。彼女の真後ろを、目に見えない「 何か 」がぴったりと同じリズムでついてきている。
それが何なのか、思考と現実がうまく結像しない。
キョウコが止まる。
タアン、タアン……タン。
背後の足音も止まる。
少し間を置いてから、もう一度だけ鳴った。
キョウコは振り返る。
何もいない。
だが今度は、前方から足音が聞こえた。
タアン、タアン。
自分がまだ動いていないのに、
“ これから歩くはずの足音 ”が先に鳴っている。
「 ……まあ、いいか 」
そう呟いた声は、少しだけ遅れて、どこかの虚空から聞こえてきた。
キョウコは振り返るのをやめた。
背後から忍び寄るその足音はひどく不気味だったが、長年苦しめられたあの高周波に比べれば、物理的な足音など些末な問題だ。
どこまでも着いてくる見えない足音を引き連れて、キョウコは再び歩みを進める。
背後の足音は、キョウコがまだ踏み出していないはずのタイミングで、一歩先に鳴った。
自分が音に合わせて歩いているのか、音が自分に合わせているのか。その境界はすでに曖昧だ。
それでもキョウコはあえて「 その音を聞こう 」とは思わなかった。
完全な静寂に包まれた滅亡の世界に、足音だけが、いつまでも少しずれて響き続ける。
その少しずれた足音だけが、彼女の新しい世界の音だった。




