第2話 福音という名のノイズ
異変は、翌朝には街中へ静かに広がっていた。
最初はSNSの些細な書き込みだった。何年も会っていない学生時代の友人たちのグループトークが、土曜の朝から異常な頻度で通知を鳴らしている。キョウコはコーヒーをすすりながら、ピロン、ピロンと無遠慮に響く音に眉をひそめていた。
テレビをつけると、ワイドショーのコメンテーターが、そして街行く人々が、一様に同じことを口にし始める。「 天の声が聞こえる 」と。
それは宗教的な啓示というよりは、もっと生理的な快楽に近いものらしかった。声を聞いたというキョウコの友人がビデオ通話で、まるで長年の悩みが消え去ったかのような、晴れやかな表情で語った。
「 あんなに透き通った、美しい囁きは聴いたことがない。あれを聴くだけで、心が満たされていくんだよ。
――何が満たされているのかは、よく分からないけど 」
だが、キョウコの耳の中だけは、相変わらず「 通常運行 」だった。
世界が「 天の声 」「 神の声 」の話題で持ちきりになろうが、彼女の鼓膜の裏側では、変わらぬあの無機質な「 キーン 」という音が居座り続けている。
キョウコは、世間が言う「 天の声 」は、何らかの巨大な電波障害か、あるいは人々が幻聴を都合よく解釈しているだけのおめでたい現象だと思っていた。
――そう考えると、少しだけ安心できた。
ある日、スーパーのレジ待ちをしている時、前方の客が突然、虚空を見上げて涙を流し始めた。
「 ……ああ、今、天使様が囁いてくれたわ。なんて心地よい声なんでしょう…… 」
その向かいで、レジ係が静かに立っていた。
何も起きていないかのように、かごの中の商品を1つずつベルトコンベアに並べている。
口元だけが、ゆっくりと笑っていた。
その隣で、キョウコはただ顔をしかめていた。彼女の頭蓋の中では、その瞬間も、執拗な金属音が鳴り響いていたからだ。
気づけば、あちらこちらで悲鳴が上がっていた。スーパーの客の一部が異様な行動を始めたのだ。
キョウコの目の前では、さっきの客がレジの精算機に自分の頭を打ち付けている。後ろでは漂白剤の容器を抱きかかえて恍惚とした表情を浮かべている年配の女性がいた。
鮮魚コーナーでは、男が包丁を手にしたまま動かなくなっていた。精肉コーナーでは……飛び散る血しぶきと阿鼻叫喚でスーパーはまたたく間にパニック状態となった。
子供が1人、床に座っていた。
何も見ていないような目で、手だけを叩き続けている。
キョウコには、叫び声は確かに聞こえているのに、どこか音が遠い気がした。
――いや、自分のいる位置のほうが、ずれているのかもしれない。
そう思った瞬間、「 キーン 」という音が、ほんの少しだけ近づいた気がした。
その音が、自分の頭の中のものなのか。
それとも、この世界のものなのか。
急に分からなくなった。




