第1話 深淵のハミング
物心ついた時から、キョウコの世界は常に「 キーン 」という正体不明の高周波に支配されていた。
――その音は、いつから鳴っているのか思い出せない。
病院を巡り、最新の検査を受けても、返ってくるのは「 異常なし 」という無機質な診断結果だけだ。「 音というより、脳が作り出している信号に近いですね 」ある医者がそう説明した言葉だけが、妙に耳に残った。
地方支店の事務職として何十年も働き、定年まであと数年となったキョウコ。バブル経済の後押しもあって多趣味で順風満帆な青年期を過ごしたが、現在の彼女の日常はひどく単調だ。
かつて流行したパワーストーン、音叉、時代遅れになった電子機器。
部屋には、彼女が興味を持って集め、そしていつの間にか置き去りにした物たちが並んでいた。
キョウコはその中で、古びたラジオメーターの緩やかな動きをぼんやりと眺めていた。
気が向くと、キョウコは机の端に音叉を軽く打ち付けた。
カァン――。
澄んだ共鳴音が、頭の奥で鳴り続ける「 キーン 」とわずかに重なる。
一瞬だけ、自分の耳鳴りの輪郭がはっきりする。
その瞬間が、少しだけ落ち着いた。
他人が見れば、退屈で変化のない、しかし平穏な生活そのものだろう。ただそれだけだ。
人並みの人生だった。
失敗もなければ、大きな成功もない。
その平坦さだけが、時々彼女を苛立たせた。
キョウコの聴力はむしろ鋭いくらいだったが、彼女の頭蓋の内側では、美しい彫刻を眺めているその瞬間でさえ、24時間365日、激しく、執拗に、異彩を放つ耳鳴りが居座り続けている。
静寂に包まれた美術館の空気も、かすかな音も、彼女にとっては分厚いガラス越しに聞こえる薄っぺらなBGMに過ぎない。
まるで、世界が静かになるのをずっと待っていたかのように、耳鳴りの音が大きくなるが、もはやキョウコにとってはささいな違いでしかない。
少なくとも、そう思うことにしていた。
金曜の夜。会社の送別会を適当な理由で切り上げ、キョウコは足早に駅へ向かっていた。
週末の繁華街は、笑い声と酔客であふれていた。
――それにしても、こんなにも幸福そうな街だっただろうか。
人混みは嫌いだ。ガヤガヤとした喧騒と、頭蓋の奥で鳴る「キーン」というノイズが相まって吐き気がしてくる。
早くアパートに帰って、独りで映画でも観よう。キョウコは逃げるように帰りの電車に飛び込んだ。
だが、空いている座席に腰を下ろした彼女の苛立ちは、さらに増すことになった。
左隣に座るスーツ姿の男性が、イヤホンもしていないのに虚空を見つめ、満面の笑みを浮かべながらブツブツと「 鼻歌 」を漏らし続けているのだ。
見えない音楽に陶酔しきったその気味の悪い鼻声は、キョウコの耳鳴りと混ざり合い、強烈な不快感となって彼女の神経を逆撫でしていた。
男は、誰かの歌に合わせるように微笑みながら、同じ節を何度も繰り返していた。
キョウコには、そのメロディだけがどうしても聞こえなかった。




