第6話 少々目立ってしまいましたわ
「全員、下がりなさい!」
凛花の声と同時に、最奥通路の両側からせり出した分厚い鉄壁が、低い唸りを上げながら閉じ始めた。
落ちるでもない。
滑るでもない。
閉じる。
それだけの違いなのに、ひどく悪趣味だった。
人は、目に見えて落ちてくるものや飛んでくるものには怯える。
だが、ゆっくりと逃げ場を奪ってくるものには、判断が遅れる。
この仕掛けは、その遅れを殺しに来ていた。
「壁際ではありません! 支柱の陰へ!」
凛花は通路中央を見たまま叫ぶ。
「中央へ出ると詰みますわ! 第一、第二支柱の裏へ寄りなさい!」
講習区画が一気に騒がしくなる。
「どっちだよ!」 「こっち、早く!」 「押すなって!」
人間は、逃げ場が狭まると中央へ集まりたがる。
昔も今も変わらない。舞踏会でも崩落しかけた石廊下でも、最後に勝つのはたいてい「皆が行きたがる方ではない方」を選べる者だ。
神崎の怒声が飛ぶ。
「九条の指示を聞け! 全班、最奥には寄るな! 森本、左側を捌け! 雨宮、床を見ろ!」
「おう!」 「はい!」
遼が動く。
混乱しかけた別班の生徒の肩を掴み、無理に押すのではなく、進路を切るように支柱側へ誘導する。昨日までの彼なら勢いのまま前へ出ていた。今は違う。ちゃんと指示が頭へ入っている。
雫はしゃがみ込み、床の継ぎ目へ視線を走らせた。
「右側、二枚だけ光が薄いです!」 「沈みますのね」 「はい、たぶん荷重逃がしです!」
よろしい。
見えている。
凛花の視界の奥で、閉じる鉄壁の圧が通路中央へ集まり、その圧に押された床が落ちる筋が赤く浮いた。
鉄壁が本命ではない。
閉じ切ったあとに中央床が抜ける。
「まだ終わりませんわ! 中央へ出ては駄目!」
見学席がざわつく。
神崎が即座に補助員へ怒鳴った。
「中央床の荷重ログ! 今すぐ!」 「は、はい!」
端末が叩かれ、数秒後に補助員の顔色が変わる。
「上がってます! 中央荷重、急上昇です!」 「やっぱりか」 「遅いですわ」 「今言おうと思った」
神崎の返しに、遼が噴き出しかけて慌てて口を押さえた。
危機感の置き場が少しおかしい。だが、少し笑えるくらいの方が人は固まらない。
「時間は!」と神崎。 「あと五秒ですわ!」と凛花。 「十分だ。全員、中央から離れろ! 支柱の陰から出るな!」
四。
天堂司の班が最後の一人を押し込む。
三。
遼が左側の生徒の腕を引き、ぎりぎりで中央線から外す。
二。
雫が床だけを見て、動きを止めない。
一。
どすん、と鈍い音がした。
中央三歩分の床が、そのまま真下へ落ちた。
悲鳴。
だが、落ちた者はいない。
支柱裏へ固まっていた生徒たちが、青ざめた顔で穴を見下ろす。深さはそこまででもない。だが落ちていれば、閉鎖壁との間に脚を取られ、怪我では済まなかっただろう。
数秒の沈黙。
それを破ったのは、見学席だった。
「……読んだのか?」 「中央床まで?」 「初心者が?」
よろしい。
その程度の反応はいただかなくては困る。
神崎が長く息を吐く。
「全機構停止。講習は一時中断だ。補助員、境界封鎖。見学側は記録を勝手に外へ出すな。学院名義で止める」 「はい!」 「急げ。今は“事故”で済む段階じゃない」
言い切った。
つまり教官も、そういう認識なのだ。
黒峰景一は腕を組んだまま動かない。
だが、その目だけは一度も凛花から外れていなかった。
少し離れた若い男が低く言う。
「珍職じゃないな」 穏やかな笑顔の女性が返す。 「前例がないだけでしょう。少なくとも、外れではありませんわね」 「囲うなら早い方がいい」 「ええ。手遅れになる前に」
結構。
そのくらい露骨でよろしい。
人が手のひらを返す瞬間というのは、昔から妙に分かりやすい。嫌いではない。むしろ、かなり好ましい。
「……九条」
固い声だった。
天堂司が、ようやくこちらを向いていた。
顔には不機嫌と悔しさが残っている。だが、逃げはしなかった。
「さっきは」
一度止まる。
それでも、今度は飲み込まない。
「……助かった」
遼が目を丸くし、雫も驚いている。
見学席まで静まった。
たいへんよろしい。人は、見たいものを見られると静かになる。
凛花は、ほんの少しだけ首を傾げた。
「そうですの?」
「……礼だ」
ずいぶん不機嫌な礼だった。おそらく人生でも上位に入る不本意さだろう。
だが、言った。
それはそれで価値がある。
「お礼でしたら結構ですわ」
凛花は静かに言う。
「次からは、“大げさ”と片づける前に足元をご覧なさいませ。それで十分です」
天堂司の顔がまた固くなる。
だが、反論はしなかった。
神崎が低く言う。
「天堂。今のを忘れるな」 「……はい」 「森本」 「はい!」 「よく支えた」 「お、おう」 「雨宮」 「はい」 「九条の見立てを拾ったのは良かった」 「……ありがとうございます」 「九条」 「はい」 「あとで全部報告書に起こせ」 「かしこまりました」
神崎はそこで初めて、見学席の方を振り返った。
「聞こえたな。珍しい肩書きが見たいなら動物園へ行け。ここにいるのは現場で使えるかどうかを見る相手だ。今のを見てもまだ笑えるなら、もう見学は必要ない」
誰も笑わなかった。
補助員が端末を見て、少し震えた声で言う。
「神崎先生、暫定評価、更新されました」 「読め」 「第一小班――危機対応、罠察知、連携判断、全項目最高評価です」 「個人順位は」 「……九条凛花さん、暫定一位です」
空気が揺れた。
学院内首位候補の天堂司がいる場で、前例ゼロの珍職が暫定一位。
それが何を意味するかくらい、ここにいる全員に分かる。
凛花は、ほんの少しだけ顎を上げた。
「見下すのなら結構ですわ」
静かな声が、壊れた区画によく通る。
「その代わり、成果はいただきます」
誰も何も言わなかった。
言えなかった、と言う方が正しい。
そして、それで終わるはずだった。
「神崎先生」と補助員が言った。今度は、さっきとは違う意味で顔色が悪い。 「何だ」 「……今の停止処理と同時に、外部アクセスの痕跡が出ています」 「外部?」 「学院外端末です。見学モード連動の書き換え元が、学内ではありません」 「は?」
見学席がざわつく。
「そんなこと可能なの?」 「学院の模擬区画に?」 「外から?」
神崎の顔つきがさらに険しくなる。
「追えるか」 「途中で切れてます。ただ、ひとつだけ残ってます」 「何だ」 「接続名……匿名化されていますが、送信コメント欄が」 「読め」 「……『舞台は整えました』、と」
数秒、誰も何も言わなかった。
舞台。
その言葉だけが、妙に安っぽく、妙に悪趣味で、だからこそ嫌に生々しかった。
凛花の胸の奥を、細い冷たさが通る。
ただの事故ではない。
ただの設備不良でもない。
誰かが、誰かのために、舞台を整えたと言っている。
ならばそれは、講習ではなく演出だ。
しかも人を傷つける気で組まれた、最低の舞台である。
見世物にするなら、相手を選ぶことだ。
少なくとも、《悪役令嬢》を舞台へ上げるなら、その結末を他人の都合で決められると思わない方がいい。
黒峰景一が、初めて口を開いた。
「……面倒なことになったな」
若い男は笑みを消し、穏やかな女性は目を細める。
遼が小さく言った。
「なあ九条さん」 「なんですの?」 「これ、講習どころじゃなくない?」 「ええ」
凛花は静かに答えた。
「どうやら、最初からそのつもりだったのでしょうね」
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【主人公ステータス】
名前:九条凛花
前世名:エレオノーラ・ヴァレンティア
職業:悪役令嬢
確認済みスキル:破滅予見/優雅歩法
未解明スキル:瑕疵看破/格位威圧/悪名変換
称号:二度目の悪役令嬢




