第5話 外れ職が、成績一位を止めましてよ
「全員、壁際へ!」
凛花の声と同時に、第二区画シャッターの下から金属光が走った。
鋼糸ではない。
今度は、床すれすれを滑る刃付きの金属板だ。
「跳んで!」
凛花が叫ぶ。
遼は反射で飛び、雫は壁へ身を寄せながら足を引く。刃板は二人のつま先をかすめ、火花を散らして第一支柱へ食い込んだ。
そのまま終わらない。
ぎり、と嫌な音を立てて、二枚目が逆側から滑り出してくる。
「うそだろ、往復式かよ!」 「講習の範囲を越えておりますわね!」
遼が着地しかけた足を引き戻す。雫が息を呑む。半テンポ遅れた別班の一人が尻もちをつき、神崎の怒声が飛んだ。
「動くな! そこで止まれ!」
だが、止まっただけで助かる配置ではない。
凛花の視界の奥で、第二の刃板の軌道が赤く走る。
床際を滑り、壁に当たって戻る。
戻る線の上には、ちょうど天堂司の班がいる。
見えた。
「天堂さん、足を上げて右へ!」
反射で叫ぶ。
天堂司は一瞬、こちらを睨んだ。だが、その一瞬で刃板が見えたのだろう。舌打ちしながら右足を引き上げ、半歩ずれる。
銀の線が、彼の靴底すれすれを薙いだ。
遅れて、天堂司の班の女子が悲鳴を上げる。
「い、今の……!」 「九条に言われた通り動け!」と神崎。 「っ……!」
天堂司の顔が歪む。
助けられた。
しかも、珍職扱いしていた相手に。
たいへん結構。そういう顔は、見ていて気分が良い。
ただし今は、楽しんでいる場合ではない。
刃板の往復。
床の圧。
第二シャッターの連動。
支柱の角度。
見学モード連動の残骸。
まだ、切れていない。
「雨宮さん!」
「はい!」
「戻りは三回ですわ! 三回目で床が沈みます! 第二支柱の根元、左側を見て!」
雫がしゃがみ込み、床の継ぎ目へ目を走らせる。
「……ありました! でも細い、これ配線?」 「配線ではなく補助索ですわ! 切れば止まる、ではなく外せば遅れます!」
「外すってどうやって――」 「留め具を押して右回し!」
遼が呻く。
「その説明、やりながら言うのやめろ! 心臓に悪い!」 「現場はだいたいそういうものですわ!」
第二の刃板が支柱へ当たり、甲高い音を立てて戻る。
その角度を見た瞬間、凛花は床の沈み位置を読んだ。
中央からではない。
右端だ。
つまり、遼が今の位置で構えていると巻き込まれる。
「森本さん、右足を引いて! 次の沈みはそこです!」 「マジか!?」
「マジですわ!」
遼が半歩退く。
その瞬間、彼がさっきまで立っていた床板ががくりと落ちた。穴は深くない。だが足を取られれば、そのまま戻りの刃板に膝を持っていかれる位置だ。
「っぶねえ……!」 「だからお下がりなさいと申し上げましたのに」 「いまそれ言う!?」
言う。
当然である。
雫が支柱根元へ手を伸ばした。
「これ、固い……!」 「押し込みが足りませんわ! 体重をかけて!」 「分かってます!」
慎重な人間が腹を括った時の動きは速い。雫は眼鏡の奥の目を鋭くし、そのまま留め具を押し込んで回した。
かちり。
だが、止まらない。
「え?」 「一段目ですわね。二重です」
見学席がざわつく。
先ほどまで“珍しい職業を見に来た”顔をしていた連中が、もうそんな顔をしていない。若い男は前のめりで見ているし、穏やかな笑顔の女性は腕を下ろして真剣な目になっている。黒峰だけは動かない。動かないまま、目だけが鋭い。
よろしい。
値踏みするなら、きちんと怯えながらなさい。
「九条!」
神崎が怒鳴る。
「第二停止はあるか!」 「ありますわ! ただし見せておりません!」 「どこだ!」 「見つけます!」
言い切って、凛花は走った。
「九条さん!?」と雫。 「前へ出ます! 森本さんは固定、雨宮さんは一段目を維持!」
足場は見えている。
優雅歩法――などと名づけられると、少々気取った印象になる。だが実際には、崩れないための動きだ。床を乱さず、軸をぶらさず、余計な力を使わない。
左、半歩。
中央を避ける。
刃板の戻り線から外れ、落下した床板の縁を飛ぶ。
その足運びに、見学席がどよめく。
「速い、っていうか……」 「無駄がない」 「ドレスで舞うみたいな動きしやがるな」
言い得て妙だ。
悪役令嬢とは本来、舞台の中央を奪う者である。足場の悪い壇上でも、みっともなく転ぶわけにはいかない。
凛花は第二支柱の裏へ滑り込んだ。
見えた。
床際の保守パネル。
新品の塗装。
わざとらしく親切そうな固定ネジ。
「こちらですわね」
蹴る。
外れない。
硬い。
ならば固定方式が違う。
見抜きなさい、九条凛花。
一度目で誤ったなら、二度目は綻びを見逃すな。
視線を滑らせる。
ネジではない。
押し込み式の爪だ。
「開きましたわ!」
踵で横を払う。
がこん、と音を立ててパネルが外れ、内側から細い手動遮断桿が露出する。
その瞬間、刃板が三度目の往復へ入った。
遼が叫ぶ。
「九条さん! 戻ってこい!」 「戻る必要がありませんの!」
凛花は遮断桿へ手をかけた。
だが、重い。
第一の停止と連動しているせいか、半端な力では動かない。
背後で、神崎が怒鳴った。
「森本、九条の前へ出るな! 雨宮、第一停止を維持しろ! 天堂、そっちの班は左へ寄せろ! 今度遅れたら本当に切られるぞ!」
天堂司が初めて、ためらいなく自班へ指示を飛ばした。
「左へ寄れ! 中央を空けろ! 早く!」
遅い。
だが、遅れてでも動いたこと自体は悪くない。
雫が叫ぶ。
「九条さん、あと二秒で戻ります!」 「十分ですわ!」
凛花は体重を乗せ、遮断桿を一気に引いた。
がぎん、と耳障りな音。
重い機構が、軋みながら逆転する。
「森本さん、今!」
「おう!」
遼が半落ちの姿勢のまま支柱を蹴り、第二支柱側へ体重を預けた。その衝撃で、噛みかけていた連動歯車が半拍ずれる。
そこへ雫が、一段目停止をさらに押し込んだ。
噛み合った。
瞬間、刃板の戻りが明らかに鈍る。
次に床の発光が消える。
最後に、第二シャッターの下で唸っていた主機構が、どすん、と重い終止符を打った。
止まった。
今度こそ、完全に。
静寂が落ちる。
誰もすぐには動けなかった。
別班の生徒が、ようやく泣きそうな声で言う。
「……助かった、の?」 「ええ」と凛花は息を整えながら答えた。「ひとまずは」
遼がその場へへたり込み、雫は壁にもたれたまま大きく息を吐いた。天堂司は何も言わず、自分の足元を見ている。ほんの少し動きが遅ければ、いまの刃板に脚を取られていた位置だ。
神崎が、ゆっくり前へ出てくる。
「全班、そのまま。まだ踏むな」
低い声が今度はよく通った。さっきまでの“講習を回す教官”ではない。完全に現場の顔だ。
「怪我は」 「ありませんわ」 「肩と脚がちょっと痛ぇ……」 「私は平気です」 「結構」
神崎は凛花、雫、遼を順に見て、それから初めて見学席へ振り返った。
「見学は以上だ。笑ってる余裕があるなら前へ出ろ。なければ黙ってろ」
誰も笑っていなかった。
たいへん結構。
見学席の若い男が、息を吐くように呟く。
「珍職じゃない」 穏やかな笑顔の女性が、今度ははっきりと言った。 「前例がないだけですわね」 「囲うなら早い方がいいな」 「同感です」
黒峰だけは何も言わない。
だが、その無言がいちばん重かった。
神崎が端末を補助教員へ投げるように渡す。
「ログ」 「戻りました」と補助教員。「今朝五時二十三分更新。適用者ID、やっぱり空欄です」 「更新対象は?」 「第一・第二境界、見学モード連動、退避機構の安全制限、一部解除」 「最悪だな」 「はい。かなり」
周囲がざわつく。
「誰がそんなこと……」 「内部の人間じゃないと触れないでしょ」 「いや、でも承認が――」 「消しかけられてます」と補助教員。
つまり、ただの設備不良ではない。
誰かが触った。
しかも、見せるための連動を、実際に人を切れる形へ寄せて。
凛花の胸の奥を、細い冷たさが通る。
ここまで来ると、もう“事故が重なった”では済まない。
趣味が悪いを通り越して、悪意の匂いがする。
その時だった。
天堂司が、ようやく凛花の方を向いた。
「……さっきは」
声が止まる。
飲み込んだらしい。
プライドが邪魔をしているのだろう。実に分かりやすい。
凛花は微笑んだ。
「お礼でしたら、結構ですわ」 「……誰もそんなことは」 「そうですの?」
凛花は静かに言う。
「では次からは、現場で“大げさ”と切って捨てる前に、足元をお確かめなさいませ」
周囲が、息を呑んだように静まる。
遼が小さく「うわ……」と漏らした。
雫は眼鏡の奥で目を丸くしている。
神崎は咎めない。
つまり、言ってよろしいということだ。
天堂司の表情が固まる。
怒りと、恥と、少しの悔しさ。
たいへん良い顔だった。
神はこういう瞬間が嫌いではない。
いや、わりと好きだ。
理屈ではなく現場で負けた者が、自分の立ち位置を思い知る瞬間は、見ていて妙に澄んでいる。
補助教員が、そこでおそるおそる端末を見上げた。
「神崎先生、講習評価の暫定点が出ています」 「今?」 「はい。自動評価が戻りました」 「読め」 「第一小班――危機対応、罠察知、連携判断、全項目暫定最高評価」 「へえ」と遼。 「……当然ですわね」と凛花。 「いや、そこ自分で言うんだ」と遼。 「事実ですもの」 「ぐうの音も出ねえ」
補助教員は、さらに言いにくそうに続けた。
「あと……個人暫定順位、一位更新」 「誰が」と神崎。 「九条凛花さんです」
ざわっ、と空気が揺れる。
見学席。
学生たち。
天堂司の班。
さっきまで《悪役令嬢》を珍しい名前として見ていた連中が、今度は別の意味で黙った。
外れ職。
珍職。
ハズレかもしれない前例ゼロ。
その評価が、今この瞬間、完全には崩れきっていないまでも、明らかにひび割れた。
凛花は、ほんの少しだけ顎を上げた。
「見下すのなら結構ですわ」
静かな声が、止まった区画によく通る。
「その代わり、成果はいただきます」
誰も何も言わなかった。
言えなかった、と言った方が正しい。
そして、その沈黙の端を裂くように、区画のさらに奥から、今までとは違う重い駆動音が響いた。
低い。
鈍い。
床ではない。壁でもない。
もっと大きい。
神崎の顔が変わる。
「……まだあるのか」
凛花の視界の奥で、第三の赤い線が立ち上がる。
今度は、落ちるでも滑るでもない。
閉じる。
「全員、下がりなさい!」
その直後、最奥の通路両側から、分厚い鉄壁がゆっくりと噛み合い始めた。
---
【主人公ステータス】
名前:九条凛花
前世名:エレオノーラ・ヴァレンティア
職業:悪役令嬢
確認済みスキル:破滅予見/優雅歩法
未解明スキル:瑕疵看破/格位威圧/悪名変換
称号:二度目の悪役令嬢




