第12話 白か黒かなど、死なない方を選びなさい
来賓控室のモニターが落ちたあと、部屋の空気はしばらく戻らなかった。
誰もが、いま見た文字の意味を自分なりに飲み込もうとしていた。
白を信じますか。黒を信じますか。
安い。
たいへん安い。
だが、安い言葉ほど人の耳に入りやすいのも事実だった。
「ふざけてるな……」
遼が低く呟く。
「ええ」と凛花は答えた。 「ですが、効きやすい煽りですわね」
部屋の隅では、すでに小さなざわめきが始まっていた。
「白瀬さんって、あの白瀬だろ」 「九条さんは《悪役令嬢》で……」 「比較って、そういうこと?」 「いやでも、今日の現場を止めたのは――」
神は思う。
人類は比較が好きだ。
正しいかどうかより、並べやすいかどうかで話を作る。
まことに雑で、まことに便利で、そして実に厄介である。
学院長代理が机を指で叩いた。
「静粛に」
一言で、空気が止まる。
「挑発に付き合う気はない。だが、来賓の安全導線はこのままでは確保できん。実技棟北側の見学通路を使って退避誘導を行う」 「今からか」と神崎。 「今からだ。止めている間に、誰かが次を仕掛けるかもしれん」 「その可能性は高いですわね」と凛花。 「君もそう思うか」 「ええ。舞台を整えたつもりの方は、間を置くのがお嫌いでしょうから」
学院長代理は短く頷いた。
「再調査班は同行。来賓側の目もある。誰が何を見るか、今この場で決めろ」 「九条は構造」と神崎。 「雨宮は痕跡」 「天堂は設備仕様」 「森本は人の流れ」 「白瀬は、人」
黒峰が淡々と並べる。
よろしい。
まったく話が早い。
ひかりが、隣の凛花へ小さく言った。
「白と黒、ほんとに並べられるんだね」 「ええ」 「嫌じゃない?」 「少しだけ」 「少しなんだ」 「主導権がこちらにあるうちは」
ひかりは一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。
「やっぱり、そこなんだ」 「ええ」 「面白い」
遼が後ろで呻く。
「この二人、もうちょっと分かりやすく喋れない?」 「無理でしょうね」と雫。 「即答やめてくれ」
北側見学通路は、実技棟二階の外周をぐるりと回る長いガラス張りの回廊だった。
外からの光が入る。
幅は広い。
普段なら、来賓を通すには快適な通路だろう。
だが今日は違う。
人が多い。
視線が多い。
そして何より、全員が「安全だと言われた場所ほど怪しい」と薄々気づき始めていた。
結構。
それ自体は悪くない。
ただ、気づいた者ほど迷うのが人間というものだ。
「来賓はこのまま奥へ。案内に従ってください」
学院職員が声を張る。
その直後だった。
「止まりなさい」
凛花の声が、通路を切った。
職員も、来賓も、全員が振り向く。
ひかりが小さく息を呑み、遼は「来たな」という顔をした。天堂は露骨に眉を寄せたが、何も言わない。雫は、すでに凛花の視線の先を見ていた。
通路中央。
避難導線を示す仮設スタンド。
その矢印だけが、妙に新しい。
「九条さん?」 ひかりが小さく呼ぶ。
凛花は答えない。
その瞬間だった。
凛花の視界の奥で、仮設案内板の矢印だけが、わずかに歪んで見えた。
床に残った古い擦れ跡。
締め直された固定ネジ。
今朝付け替えられた向き。
その全部を貫いて、
ここが嘘だ。
とだけ、黒いひびのような線が浮かぶ。
「……あら」
凛花は、ほんの少しだけ目を細めた。
ただ観察して分かったのではない。
整えられたはずの導線の中で、綻びだけがこちらへ名乗るように浮かび上がっている。
正しいはずの案内。
安全であるはずの道。
善意で置かれたはずの誘導。
その“はず”の部分だけが、妙にはっきり見える。
見えておりますのね。
綻びが。
凛花は静かに息を吸った。
これが、《悪役令嬢》の目。
完全に整えたつもりの構造、言葉、導線、立場――
その瑕だけを拾い上げる、職業の目だ。
「その案内板、今朝付け替えられておりますわ」
「分かるのか」 神崎が問う。
「ええ。台座の擦れ跡が古い位置と合っておりませんもの」
雫がしゃがみ込んだ。
「……ほんとだ。床のワックスが薄い線で残ってます。元は逆向きです」 「つまり?」 遼が聞く。
「本来は右誘導」と天堂が低く言った。 「今は左を向いてる」 「はい」と雫。 「しかも固定ネジ、締め直されてます」
来賓側がざわつく。
「どっちが正しいんだ」 「おい、止まって大丈夫なのか?」 「急がないと危なくないか?」
凛花は、左ルートを見た。
左は広い。
広く、明るく、通しやすい。
だからこそ、綻びが濃い。
奥の防火シャッター。
床荷重。
誘導角度。
人を安心させるための顔をしたまま、まとめて落とす形だ。
「左は使いませんわ」
「理由を」 学院長代理が短く問う。
「広すぎるからです」 「……それだけか」 「ええ。それだけで十分ですわ」
凛花は静かに言い切った。
「人を流したい時の罠は、たいてい“安心しやすい道”の顔をしておりますもの」
雫がすぐに続けた。
「左ルート側、防火シャッターの更新履歴が今朝入ってます」 「は?」 職員が振り返る。 「誰が」 「まだ出ません。でもログはあります」
天堂が壁面の避難図を見たまま言う。
「右ルートは狭いが、途中に退避ポケットがある」 「左は?」 遼が聞く。 「一直線だ。人を流し込むにはいい。詰めるにはもっといい」
よろしい。
やっと全員の言葉が噛み合ってきた。
その時だった。
通路奥の学院職員が、少し強い口調で言った。
「ですが、右は人数を捌けません。左へお願いします!」
その言い方に、ひかりがぴくりと反応した。
「九条さん」 「なんですの?」 「今の人、変」 「どこが」 「急にうれしそう」
凛花はその職員を見た。
顔は焦っている。
だが、目だけが違う。
群衆が迷うのを見て、妙に落ち着いている。
見えた。
名札。
制服の着方。
靴の泥の付き方。
そして、袖口に隠れた小さな送信ランプ。
「その方ですわね」
凛花が言った瞬間、その“職員”の顔色が変わった。
「森本さん!」
「おう!」
遼が飛び出す。
天堂も半歩遅れて動く。
だが、その職員は最初から逃げるつもりだったらしい。袖口を叩くと、左ルート奥で警告灯が赤く点いた。
「っ、シャッター!」 雫が叫ぶ。
左ルートの防火シャッターが落ちる。
同時に、床の発光ラインが走る。
やはりだ。
「左へ入っては駄目ですわ! 右へ寄りなさい!」
凛花の声で、迷っていた来賓たちが一斉に動く。
ここで一人でも「でも白瀬さんは」とか「九条さんは」と言い出したら、全員まとめて危なかった。
だが、今回は違う。
「右へ!」 ひかりがすぐに叫ぶ。 「九条さんの方へ寄って!」
群衆が右へ流れる。
遼が逃走しかけた偽職員へ体当たりし、天堂が足を払った。男は派手に床へ転がり、袖口から小型端末が飛び出す。
神崎が即座に踏みつける。
「確保だ」
左ルート奥で、遅れて床が沈んだ。
がこん、と鈍い音。
さっきまで人を流そうとしていた通路の中央が、大きく落ち込む。
悲鳴。
だが、巻き込まれた者はいない。
来賓たちは青ざめたまま、その穴を見た。
誰かが小さく呟く。
「……九条さんが、止めた」 「白瀬さんも、あっちだって」 「選ぶとかじゃなくて……」 「助かった、のか」
よろしい。
その程度には理解が進んだらしい。
偽職員は、床に押さえつけられたまま笑っていた。
感じが悪い。
実に感じが悪い。
「雑魚役にしては、悪趣味ですわね」 凛花が言う。
男は顔を上げる。
「白を選ぶかと思った」 「残念でしたわね」 「黒を選ばせたかったのに」 「もっと残念ですわ」
凛花は静かに微笑む。
「わたくしたち、最初から二択の外におりますの」
男の笑みが、ほんの少しだけ歪んだ。
結構。
その顔が見たかった。
神崎が端末を拾い上げる。
画面には、短い送信待機文が残っていた。
『比較失敗。次は断罪へ移行』
通路の空気が、そこでまた一段冷えた。
ひかりが凛花を見る。
「今の、見た?」 「ええ」 「断罪、だって」 「そうらしいですわね」
凛花は、落ちた左ルートを見た。
白を信じるか。
黒を信じるか。
そんな問いを置いたくせに、相手は最初から答えなど求めていない。
欲しいのは、落ちる絵だ。
ならば次は、もっと大きな舞台で落とそうとする。
結構。
悪役令嬢は、そういう舞台でこそ立つものだ。
凛花にはもう分かっていた。
破滅だけではない。
整えられた嘘の綻びそのものが、いまの自分には見えているのだと。
「白瀬さん」 「うん」 「どうやら次は、もう少し派手になりそうですわ」 「そうだね」 「怖い?」 「怖い」 「結構」 「九条さんは?」 「もちろんですわ」
凛花は、ほんの少しだけ顎を上げた。
「ですが、断罪される側だと思われたまま終わる趣味はありませんの」
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【主人公ステータス】
名前:九条凛花
前世名:エレオノーラ・ヴァレンティア
職業:悪役令嬢
確認済みスキル:破滅予見/優雅歩法/瑕疵看破
未解明スキル:格位威圧/悪名変換
称号:二度目の悪役令嬢/暫定首位




