第10話 客席のつもりなら、そこから落として差し上げますわ
来賓用観覧室は、実技棟の北側二階にあった。
普段は企業やギルドの見学担当、学院上層部、外部監査あたりが使うらしい。要するに、“現場には降りないが、よく見える場所”である。
たいへん結構。
上から眺めるのがお好きな方は、たいてい足元が甘い。
「ここです」
補助員が、重いドアの前で立ち止まった。電子錠はすでに学院側が切っている。だが神崎はすぐには開けない。
「九条」 「ええ」
凛花はドアの縁を見た。
傷。
擦れ。
鍵穴脇の油膜。
そして、取っ手の下だけに残る、ごく薄い白粉。
「開けた痕がありますわね」 「今日?」 遼が聞く。
「少なくとも、最近ですわ。清掃後の指紋ではありません」 「中にいるとか?」 「さすがに息を潜めるには狭すぎます」 「狭すぎるって言い方怖いな」 「事実ですもの」
ひかりが、ドアの横の壁を見ていた。
「ここ、監視カメラの角度がおかしい」 「おかしい?」 雫が顔を上げる。
「普通、出入り口を正面から撮るよね。でもこれ、少し下向き」 「……ほんとだ」 雫が端末のライトを当てる。
「ドアの前じゃなくて、取っ手の高さを見てる」 「手元を記録したかったのでしょうね」と凛花。 「誰が開けたか、より“どう開けたか”を見た?」 ひかりが言う。
「ええ。あるいは、誰に開けさせたかですわ」
神崎が短く言う。
「開ける。全員、左右へ散れ。森本、最初の一拍だけ前」 「了解」 「天堂、二枚目」 「分かった」 「白瀬、後ろを見る」 「はい」
よろしい。
ようやく班らしい動きになってきた。
電子錠が解除され、ドアがゆっくりと押し開かれる。
観覧室は暗かった。
だが、外光が差し込んだ瞬間、室内の輪郭が浮かぶ。
長机。革張りの椅子。壁際の操作卓。実技場を見下ろす強化ガラス。そして――中央のテーブルに、白いカードが一枚。
「またかよ」 遼が呻く。
「またですわね」 凛花は平然と言った。
ただし、今回は少し違う。
カードが一枚だけ、真正面に置かれている。
拾ってほしいというより、座って読めと言いたげな置き方だった。
「触るな」と神崎。 「もちろんですわ」
凛花はカードではなく、机の縁を見た。
細い傷。
置き直した跡。
カップの輪染みは古い。
だが、カードの下だけ、埃が綺麗に消えている。
「置いたのは最近ですわ」 「分かるの?」 ひかりが聞く。
「机は黙りませんの」 「それ、ちょっと好き」 「ありがとうございます」
雫が操作卓へ近づく。
「神崎先生、こっち見てください」 「何だ」 「来賓用観覧室の映像出力、実技区画の監視と別系統です」 「当然だろ」 「当然です。でも、こっちは“送信”の痕跡があります」 「送信?」 「はい。内部記録じゃなくて、外へ流した痕跡」
黒峰が一歩近づいた。
「どこへ」 「まだ先は出ません。でも発信元はここで間違いないです」
遼が室内を見回す。
「じゃあ犯人、ここで見てたってこと?」 「そう考えるのが自然でしょうね」と凛花。 「気持ち悪……」 「同感ですわ」
天堂司は、黙って窓際を見ていた。
やがて低く言う。
「ここからだと、第一と第二の境界がちょうど死角になる」 「死角?」と雫。 「見えるようで見えない位置がある。だから、あのタイミングで仕掛けが重なると、下にいる側だけが混乱する」 「観覧室から見れば“演出”に見える、ということですわね」 凛花が言う。
天堂は不機嫌そうにうなずいた。
「……ああ」
良い。
嫌そうな顔のまま役に立つ。実に良い。
ひかりが、今度は椅子の背もたれに触れずに覗き込む。
「一脚だけ向きが違う」 「どれですの?」 「これ。みんな窓の方へ向いてるのに、一つだけ少し斜め」 「誰かが、後ろも見える位置に座った?」 雫が言う。
「ええ」と凛花。 「下を見ながら、入口も視界に入る角度ですわね」
神崎が眉を寄せる。
「見られる側だけじゃなく、入ってくる人間も見ていた」 「来客待ちでもしていたのかも」 ひかりが言った。
その可能性は高い。
凛花はそこで、部屋の空気の流れに気づいた。
「……香りが残っていますわね」 「え?」 遼が鼻を鳴らす。 「俺には分からん」 「森本さんの感覚が鈍いだけでしょう」 「急に雑!」
凛花は窓際へ寄った。
甘い。
だが学院の消臭剤とは違う。
花の香りではなく、何かを覆い隠すための、少し人工的な甘さ。
「香水?」 ひかりが聞く。
「ええ。しかも、わざと少し強い」 「男っぽい、女っぽいは?」 雫が言う。
「そこまで単純ではありませんわね。ですが、現場仕事の人間が好む種類ではありません」 「来賓側か」 黒峰が低く言う。
「あるいは、来賓側を装いたい誰かですわ」
神は、こういう香りを知っている。
善悪ではなく、“印象を作りたい人間”の匂いだ。
つまり、舞台装置としての自分に酔っている手合いである。
たいへん感じが悪い。
「カード、読むぞ」 神崎が言った。
保守担当が手袋でカードを持ち上げ、表を見せる。
黒字。
短い。
だが前より、少しだけ具体的だった。
『白は眩しく、黒は美しい。並べれば、どちらかが曇るでしょう。』
部屋の空気が変わる。
ひかりは黙り、凛花は目を細めた。
遼が先に言った。
「……うわ」 「分かりやすく下品ですわね」 凛花は言う。
「九条さん」 ひかりが静かに呼ぶ。
「ええ」 「これ、私たち宛てだ」 「でしょうね」 「なんで、そんな落ち着いてるの」 「落ち着いているのではありませんの」
凛花はカードから目を離さず答える。
「こういう程度の安い煽りに、表情を使うのが惜しいだけですわ」
ひかりは一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。
「やっぱり好きだなあ、その返し」 「それはどうも」
天堂司が、露骨に嫌そうな顔で言う。
「つまり、“白瀬と九条を並べたい”ってことか」 「ええ。比べさせたいのでしょうね」と凛花。 「善い人と悪い人、か」 雫が低く言う。
「雑ですわね」 「雑ですね」 ひかりも同意した。
神崎がカードを裏返す。
裏は白紙。
ただし、端に小さく数字が打たれていた。
「……十七」 「整理番号か?」 遼が言う。
雫が首を振る。
「違うかも。観覧室の席番号じゃないですか」 「席?」 「来賓用観覧室、座席に番号あります」
全員の視線が椅子へ向く。
たしかに、足元に小さな金属プレートが付いている。
十六、十七、十八――。
「十七番」 ひかりが指差した。
さっき向きが少し違っていた椅子だった。
「ここに座ってた」 遼が言う。 「たぶんな」と天堂。 「いいえ」と凛花。 「たぶんではありませんわ」
全員が凛花を見る。
「十七番だけ、椅子の脚に新しい擦れがあります。何度も微調整していますわ」 「見えるのか」 神崎が言う。
「見えます」 「で、何が分かる」 「落ち着きがありませんの」
凛花は椅子を見下ろした。
「位置を決めきれない。見たい角度が一つではない。下の区画、入口、そしておそらく――」
彼女は視線を、制御卓のモニター位置へ向けた。
「自分の演出結果ですわ」
黒峰が低く言う。
「見届けたがる性質か」 「ええ。しかも、“上手くいったか”を確認せずにいられないタイプです」 「自己顕示が強い」 雫が言う。 「それでいて、直接は出ない」 ひかりが続ける。
よろしい。
かなり噛み合ってきた。
その時、遼が窓際のゴミ箱を覗いて声を上げた。
「おい、これ」 「何かありまして?」 凛花が寄る。
中に、紙コップが一つ。
中身は空だが、底にだけ少し液体が残っている。
薄い茶色。
そして、縁に淡い口紅の痕。
「女?」 遼が言う。
「決めつけは早いですわね」 「いや、でも」 「見せたい痕なら、なおさらです」 凛花は言った。
ひかりがコップの位置を見ている。
「でも、これわざとらしすぎる」 「ええ」 凛花はうなずく。
「わざとらしいものは、だいたい“そこを見て終わってほしい”時の置き方ですわ」
神崎が短く言う。
「採取だけして後回しだ。九条、他は」 「ええ」
凛花は、十七番の椅子の下へ視線を落とした。
そして、見つけた。
「……こちらですわね」
椅子の裏、座面の下。
黒い小片が、粘着で貼られている。
小指の爪ほどの薄さ。
ただの盗聴器にしては、位置が浅い。
雫が息を呑む。
「発信タグ?」 「おそらく」 「ここにいた人間を追うためじゃない」とひかりが言う。 「ええ」 凛花は静かに答えた。
「これは“ここへ来る人間”を見るためのものですわ」
神崎の顔が変わる。
「つまり」 「観覧室は最初から罠ですの。今日ここへ来る誰かを、相手は待っていた」 「誰を」 天堂が聞く。
凛花は、一拍置いた。
「わたくしか、白瀬さんでしょうね」
ひかりが黙る。
だが、目は逸らさなかった。
「白と黒」 雫が低く言う。 「並べて、曇る方を見るつもりだった」 「あるいは、曇らせたい方を」と凛花。
部屋が少しだけ冷える。
ようやく、相手の悪意の向きが具体になった。
誰でもよかったのではない。
“誰を落とすと面白いか”を、最初から選んでいる。
遼が拳を握る。
「マジで感じ悪ぃな」 「今ごろお気づきで?」 「遅くて悪かったな!」
その時、黒峰の端末が鳴った。
男は確認し、短く言う。
「十七番席の視界角度、外部送信ログと一致した」 「ってことは?」 遼が聞く。
「ここだ。少なくとも、舞台を見ていた席は」
神崎が決断する。
「タグは回収しない。泳がせる」 「賢明ですわね」 「言われなくても分かってる」 「でしたら結構」
ひかりが、静かに言った。
「九条さん」 「なんですの?」 「これ、たぶん次は“私たちを並べる場所”を作る」 「でしょうね」 「どうする?」 「簡単ですわ」
凛花は、十七番の椅子へ目を向けた。
「相手が並べたいなら、並んで差し上げればよろしいのです」 「え」 遼が言う。 「乗るのか?」 「ええ」
凛花は微笑む。
「ただし、脚本どおりに曇るつもりはありませんけれど」
ひかりがその横で、同じように笑った。
「うん」 「ええ」 「それ、面白い」
神は思う。
白と黒を並べて、どちらかが曇ると思い込む方が浅い。
並べた結果、舞台そのものが奪われることもあるのだと、そろそろ学ぶとよい。
神崎が全員を見回した。
「方針決定だ。次は相手が“見たい絵”を逆利用する。再調査班、引き続き動くぞ」 「はい」と雫。 「了解」と天堂。 「おう」と遼。 「もちろん」とひかり。
凛花は最後に一度だけ、十七番の椅子を見た。
客席。
主役。
白と黒。
随分と分かりやすい遊びがお好きらしい。
でしたら、こちらも礼儀を尽くして差し上げましょう。
「待っていてくださいまし」
誰にともなく、凛花はそう言った。
「客席から舞台を眺めていられる時間は、もう長くありませんわ」
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【主人公ステータス】
名前:九条凛花
前世名:エレオノーラ・ヴァレンティア
職業:悪役令嬢
確認済みスキル:破滅予見/優雅歩法
未解明スキル:瑕疵看破/格位威圧/悪名変換
称号:二度目の悪役令嬢/暫定首位




