第3話
アリシア視点
「さて、と――」
ライルが王城の外に歩いていったことを確かめると、アリシアは真剣な表情になった。深く吐息をつくと一転して冷たい目つきになる。
「――全く度し難いですね。あれだけ優秀な先輩を僻地に追いやるなんて」
ライルの実力は、後輩として見てきたアリシアが一番よく知っていた。
父、ウルスの薫陶を受けた彼は後輩に対しても面倒見が良く、分け隔てなく接する人物だ。困ったことがあれば耳を傾け、それとなく手を貸してくれる。
アリシアが積極的に話しかけても、嫌そうな顔を一つせず付き合ってくれたものだ。
相手が誰であっても謙虚に接し、権威にも媚びない。そんな彼には多くの仲間がいつの間にか傍にいた。彼の卒業後は、彼が赴任した北方戦線に志願する者が続出した。
本音を言えば、アリシアも志願したかったのだが、実家の猛烈な反対に断念した。
アリシアの実家であるローズライト家は貴族の名門――致し方ないとも言えた。
(けど――おかげで今はいろいろな選択肢がある)
アリシアは冷静な頭で思考を巡らせながら、足早に廊下を歩いていく。
「ん、アリシアじゃないか、そんなに急いで――」
「すみません、失礼します」
馴れ馴れしく話しかけてきた男の騎士を素っ気なくあしらい、大股で歩き去る。迷いなく彼女は近衛の執務室に足を踏み入れると、自身の机から一枚の紙を取り出した。
それを見据えて黙考――たっぷり考えを深めてから、その上にペンを走らせた。
――『異動願』の文字を。
(今の時間なら、将軍がいるはず)
書類を書き上げると、アリシアは速やかに立ち上がった。将軍のいる部屋を目指し、扉を叩く。すぐに声は返って来た。
「うむ? 誰かね?」
「アリシア・ローズライトです」
「おお、アリシアくんかね。入り給え」
扉を開いて中に入る。中では小太りの中年の男が椅子に深く腰を下ろしていた。その顔は赤く、酒の匂いが部屋に充満している。
どうやら昼間から酒を飲んでいたらしい。呆れながらも表情を押し殺し、敬礼する。
「将軍、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「うむ、アリシアくんならいつでも時間を作るとも。おお、そういえば以前、話したことは考えてくれたかね。私の側近になるという」
将軍はそう言いながら、舐めるような目つきでアリシアの身体を見る。それに身震いしそうになりながら、アリシアは奥歯を噛みしめる。
(――こんな男が、上司だなんて)
ライルと話した後の余韻が台無しだ。
だが、耐える。束の間の雌伏――そう言い聞かせ、アリシアは淡々と告げる。
「いえ、別件でご相談があります」
「ふむ、そうか――で、相談とは?」
「はい、異動を志願したく」
「――異動?」
余程、想定外だったのか、将軍の動きがぴたりと固まった。その彼の机に書いたばかりの異動願を置く。それを目にした将軍の顔色から見る間に血の気が引いていった。
「じょ、冗談は止し給え、アリシアくん――近衛の何が不満なのだ」
何もかもが。
アリシアは即答しそうになったのを、また耐えなければならなかった。深呼吸を二つ挟み、静かな口調で言葉を続ける。
「以前、世話になった先輩が今回、将軍位を拝命しました。赴任地に赴く際の人材を募集している、ということでしたので、是非恩返しをしたいと考えています」
「――ほう、恩返し、とな?」
将軍は引きつった笑みを浮かべながら、書類を指で弾いた。乾いた音が室内に響き渡る。
「それはあの新しい征西将軍のことかね?」
「はい、ライル・ベルガルト将軍です」
「あの若造が将軍とは、世も末だね。武功だけで人の上に立てると思っている。貴族のしきたりも知らぬ成り上がりが」
その吐き捨てられた言葉は、侮蔑に塗れていた。
瞬間、アリシアは目を見開き、一歩前に進み出ていた。押し殺した声で彼女は将軍を見据えて訊ねる。
「――今、なんと?」
そこから滲み出る気迫に将軍は身を強張らせていた。だが、すぐに両手を挙げると、薄っぺらい愛想笑いを浮かべて告げる。
「じょ、冗談だとも。口が滑った――だから、その手を下げてくれないか」
その言葉を言われて初めて、アリシアが自身の剣の柄に手を掛けていることに気づいた。彼女は咳払いをすると、その手を下げて告げる。
「冗談でも我が軍の仲間を貶めることはよろしくないと思います。それこそ平民にも劣る所業だと思いますが――違いますか?」
「ああ、そうだな、全く以てそう思う。いや、本当に失礼した」
将軍は慌ててそう言い繕いながら、書類を持ち上げてアリシアに差し出す。
「だから一旦考え直してくれないか。異動するということは、近衛から――出世の道から離れる、ということだ。ローズライト家の意に反するのではないか」
アリシアは無言を保ち、書類を受け取らない。ただ、将軍を見据える。
「そ、それに西はひどい土地だ。ここほど温暖湿潤じゃない。それに街もなければ、物資もない、娯楽もないのだぞ。そんな環境に望んでいくというのか」
ひたすら無言。アリシアは視線も逸らさない。
「冷静になって考えてくれ――あまり悪いことは言いたくないが、ライル・ベルガルトくんは目立ち過ぎた。官僚たちに警戒されてしまったのだ。そんな彼の下に行けば、アリシアくんも警戒される。何をされるか分からないぞ」
沈黙。何も反応を返さない。
そのアリシアの圧力に将軍は額から汗を流し始めていた。視線を泳がせ、ひたすらに引き留めようと言葉を続ける。
「分かりやすく言おう、あれは左遷なのだ。いくら恩があるとはいえ、左遷に付き合う道理はない。そうだ、私の側近になれば、彼をこちらに引き戻す協力をしよう。それがいいじゃないか、二人で近衛になれるかもしれんぞ」
だが、アリシアは無言を貫く。突き返そうとする書類も受け取らない。
あらゆる言葉を投げかけても今の彼女には無駄だ。
完全な無関心――この嫌いな将軍に要求することはただ一つ。
彼の下に行く許可だけだ。
(もし、それが手にできないのなら――)
考えがある。アリシアの手が微かに動いた――剣の柄へと。
それを前にして、将軍はぴたりと動きを止めた。口を噤んで沈黙――眼球だけがしきりに動いている。肥えた頬を冷や汗が流れていく。
荒い呼吸ばかりが部屋に響き渡り――将軍はがくりと項垂れた。
それから書類を引っ込め、代わりの紙を用意し始める。
「――何故だ、アリシアくん。何故、あの男の下に行くのだ。あの男はただの軍人に過ぎんのだぞ。身分も、栄誉も、金も何も持っていないというのに」
「……そんなくだらないものを、私は一度も望んだことはありません」
その言葉に将軍は引きつった笑みを浮かべながら、手元の書類に弱々しく判を押す。それから紙をゆっくりと差し出した。
「――持っていくといい。大将軍に渡せば、手続きは済む」
「ありがとうございます」
ひったくるようにその紙を奪い取る。その紙は異動に必要な事項が記入され、それを承認する判がしっかりと押されていた。不備がないことを何度も確認していると、将軍は椅子にぐったりと背を預けながら言う。
「異動願は受理せずに、取っておく。もし気が変わったら――」
「変わることはないのでご安心を。お世話になりました」
叩き切るように言葉を吐き捨て、踵を返した。その背後からは将軍の虚ろな言葉が響き渡り続けていた。
「訳が分からん。一体何がどういう気持ちで――」
(理解してもらおうとも思いませんよ)
栄誉や財産、身分――それを第一に考える者たちに理解できるはずがない。彼女にとって重要なのは、ライルの傍にいること。そのためならば何だってする。
そして、それ以外のものには何ら関心がない。
自身の家も、身分も、職も――全てがどうでもいい。
だからこそ、ライルの傍に行ける紙を大事に握りしめ、アリシアはすぐさま王城の廊下を歩いていく。目指すのは大将軍のいる部屋だ。
(待っていてください。すぐにお傍に参ります)
先ほどの将軍に見せた冷淡な目つきは打って変わり、彼女の瞳には強い炎が宿っていた。




