第23話
「――軍事演習が、できないのですか?」
その日の朝――執務室ではアリシアの困惑の声が響き渡った。
同席するパラオッドも驚きに目を見開く中、ライルは王都から来た書状を机の上に放り投げながら、投げやりに頷いてみせた。
「ああ、たった今、大将軍から届いた書状によると、軍を西に動かせないそうだ」
「一体、何故……っ」
「ウィロウ帝国が、動いたらしい」
ライルが告げた言葉に、アリシアが言葉を失う。彼は立ち上がると書状を軽く目を通しながら、執務室の壁に貼られた地図に歩み寄る。
トリスタ荒原の西側――ウィロウ帝国の支配地域を軽く指先で叩いた。
「数日前からウィロウ帝国軍が動きを見せており、この辺りに兵を集中させているらしい。こちらを刺激しないように荒原には立ち入らないものの、三万規模の兵がいる」
「――まさか、ムーディ族の支援に……?」
「さぁな。それは分からないが、その情報を聞いた軍務卿閣下がありがたい命令をお下しになった。大規模に兵を動かすな、と」
「は?」
アリシアの声にライルは思わず頷いた――その一文には彼も目を疑ったものだ。
「曰く、我が軍が西方に大規模な軍事演習を行えば、ウィロウ帝国を刺激する可能性がある、とのことだ。そうなれば、軍同士の衝突が起きる恐れもある、と」
「い……いやいや、逆でしょう。国境付近に軍が集中しているなら、こちらも対抗して軍を集めるべきですよ……!」
信じられない、とばかりにアリシアは引きつった笑みをこぼす。一方でパラオッドは遠い目をして深いため息をついた。
「いつもの軍務卿の事なかれ主義ですな――毎回、頭が痛くなります」
「え、毎回?」
「……実は軍務卿の的外れな命令は今に始まったことじゃない」
ライルが北部軍――つまり、ウルスの指揮下にいたことも的外れな命令を聞かされていた。ライルは頬杖をつきながらパラオッドに声を掛ける。
「いろいろあったな。パラオッド。前線で戦う親父に急に王都召喚命令が出たり」
「ありましたなぁ。一番意味が分からなかったのは、撤退命令でしたか」
「はは、あった、あった。あれがなければ敵を全滅できたのに」
「――え、ええ? 撤退命令?」
アリシアが困惑した声を上げる。ライルはそちらを見て思い出しながら続ける。
「北部戦線では敵が山々や森林を利用したゲリラ戦術を展開していたんだが、あるとき、首尾よく作戦が上手く行って、敵の一隊を一つの城砦に追い込むことに成功したんだ」
「その際、殿――ウルス様はその城砦を完全に包囲しましてな。あとは煮るなり焼くなり好きにできたのですが、そのときに王都から『撤退して戦線を立て直せ』という、とんでもない命令が届いたのですよ」
「え、敵軍を包囲して、殲滅できる状況で、ですか?」
「その通りだ。もうその命令について、親父はぶち切れていたな」
だが、その命令は王の名も連なっていたもの――言ってしまえば、勅命だった。だから、前線で好き勝手やっているウルスも逆らうことができない。
兵たちは不平不満を口々に唱えながらも、速やかに撤退するしかなかった。
「本当にあれは意味の分からない命令だったな。しかも撤退しろ、と言われて、すぐに撤退できたら苦労しない」
「間違いありません。一歩間違えば、敵軍の追撃を受けて被害を出すことになります――そういえば、そのときの殿軍はライル様でしたな」
「ああ、あんな危険な殿軍、他の者には任せられないからな」
そのときは一計を案じ、案山子を立てて篝火を大いに焚くことで敵の目を欺いたのだった。それでも一部の敵は感づいて追ってきたが、それは軽く蹴散らしている。
とはいえ、肝が冷える撤退戦だったのは確かだ。
ライルはやれやれと首を振っていると、アリシアは恐る恐る訊ねる。
「ち、ちなみに何故、そんな命令が来たんですか?」
「どうにも軍監が勘違いしたらしい」
「勘違い、ですか?」
「ああ、敵軍を包囲しているのを、前線で突出しているのだと勘違いした、とな」
「――――」
もはや唖然として何の言葉も出ないらしい。アリシアはぱくぱくと口を開け閉めするのをおかしく思いながら、ライルは肩を竦めた。
「ま、それは言い訳だろうな。実際のところは親父がこれ以上、手柄を立てることを良く思っていない人間の裏工作だろう」
「当然、ウルス様はその後、厳重な抗議をしました。陛下は判断の過ちを認め、報告を上げた軍監は罷免、関係者は失脚――というのが結末ですな」
「あ、もしかして二年前の大規模人事異動って……」
「これが原因だろうな。ほぼ間違いなく」
そのライルの言葉にアリシアは深いため息をこぼし、失望を滲ませた口調で告げる。
「……軍務省が腐っていると知っていましたが、まさかここまでとは」
「上に立っているのが現在の軍務卿だからな。仕方ない」
ライルは諦め半分に告げてから、書状を持ち上げて軽く振る。
「話を戻そう。その腐った連中の仰せで、大規模な軍事演習が禁じられてしまった。となれば、本軍の動きはもう当てにできない、ということになる」
「――大将軍は、それを良しとされているのですか?」
「そんなわけないだろう。ただ、彼とて軍務卿の配下。表立って動くのは難しい」
つまり、援軍は絶望的ということになる。やれやれとため息をこぼすライルに対し、アリシアは少し考えていたが、やがて視線を上げて告げる。
「であれば、私も手を打とうと思います」
「何か、考えがあるのか?」
「はい、ローズライト家の判断次第にはなりますが」
「――分かっていると思うが、領邦軍を動かすのは無理だぞ?」
領邦軍は貴族が抱える私軍だ。自身の領邦を守るために組織されているが、その権限が及ぶのは基本的に自身の領土内であり、領土外に出るには許可が必要になる。
ライルが予め口にするが、アリシアは苦笑交じりに首を振った。
「ローズライト家の領邦軍は宛てにしていません。第一、征西軍の動きについていけませんよ――ただ、物資などの輸送を早めようかと」
「……ふむ?」
ライルとパラオッドは顔を見合わせる。正直、彼女の考えが読めない。
だが、彼女の瞳は何かを見通すかのように澄んでいる。何かしらの考えがあるのは確かだろう。ライルは少し迷ったが、頷いてみせる。
「物資の輸送に限らず、何か手があるなら動いてくれ」
「ありがとうございます。ひとまずは輸送の許可だけで充分です」
アリシアは頷きながらも、わずかに顔を曇らせて続ける。
「とはいえ、間に合うかは五分五分ですね」
「ああ、そうだな」
ライルは頷き返し、視線を地図に注いだ。
「帝国軍が西方に集まり、王国軍が援軍に来ない――その状況でムーディ族がどう動くかはもはや目に見えているからな」
その場にいる全員の考えを裏付けるように、廊下から慌ただしい足音が響き渡った。扉のノックが響き渡る前に、ライルは鋭く声を発した。
「入れ。至急の報告か?」
「はい! 申し上げます!」
兵が部屋に転がり込むように入ると、敬礼と共にはきはきと告げる。
「カルガン族の使者から伝達! ムーディ族たち一部氏族が蜂起! 反王国を謳って城砦方面へと進行中とのこと――!」




