第9章真実への足跡
午後の光は、まだ柔らかく邸宅の廊下を照らしていた。
だが、その光はエミリーの心に届かない。胸の奥に、冷たい疑念が渦巻いていた。
バルコニーで見た景色――崖、白百合、そして何よりも「遺体のない事故」の知らせ――が、頭を離れない。
「……カルロスは本当に……」
小さな独り言。だが、その声には迷いはなかった。
自分で確かめる――そう心に決めた瞬間から、彼女の目は冷たく鋭い光を帯びていた。
ジョセフは一歩後ろに下がり、静かに見守る。
朝からここに滞在していた彼は、エミリーの安全を守る一方で、必要に応じて調査に動けるよう準備を整えていた。
エミリーは黙って頷き、廊下を進む。
使用人たちの視線を感じながらも、彼女の歩みは迷わない。
長い廊下、重厚な扉、歴代の肖像画。全てが静かに、だが鋭く見下ろしているかのようだった。
最初に立ち寄ったのはカルロスの書斎。
机の上には書類が整然と並ぶ。だが、よく見ると一枚だけ位置が微かにずれている。
エミリーはそっと指先で触れ、紙の裏に何か書き込みがないか確認する。
「……誰かが触ったのね」
その瞬間、ドアの向こうで微かな物音。
使用人の足音か、あるいは……伯爵か。
エミリーはすぐに振り返り、静かに身を隠す。
息をひそめる彼女の目に映るのは、廊下を通り過ぎるイワン伯爵の影だった。
――動きが不自然だ。
足取りは落ち着いているが、視線はあちこちに散らばる。
感情を見せずに、何かを探しているかのような動き。
事故の報告後に家の今後を語ったあの口ぶり……あれも演技だ。
エミリーは静かに息を整える。
「……この人は何か隠している」
ジョセフがそっと声をかける。
「奥様、もし何か手がかりを見つけたら……」
エミリーは振り返り、真剣な眼差しをジョセフに向ける。
「……あなた、手を貸してちょうだい。あたくしが直接行動するわ」
ジョセフは一瞬、微笑むように小さく頷く。
(やはり、彼女は自分で動く……だが、無謀ではない。頼もしい)
二人は邸宅内の調査を進める。
使用人の動き、物の位置、書類の細部、隠し扉の可能性。
エミリーは鋭い目で一つひとつ確認する。
やがて、庭へと出る。
崖道に向かうため、馬車を手配していた使用人が待機している。
崖道に立つと、先日の事故現場が一目で分かる。
馬車の車輪跡、落下の跡、微かな足跡――風で消えかけた痕跡も、彼女の目を逃さない。
「……誰かが手を加えたかも」
ジョセフが隣で頷く。
「その可能性はあります。現場には不自然な点がいくつも……」
風が崖を吹き抜ける。
遠くに見える谷底に、まだ何かが残っているような気配がする。
エミリーの心臓が高鳴る。
「……カルロスは生きている。そう信じたい」
静かに、しかし強く胸の中で念じる。
目に見えぬものを信じる力。
それが今、彼女を突き動かしていた。
午後の光は傾き始め、影を長く落とす。
邸宅と崖道、二つの舞台に分かれる視線の中で、真実の輪郭はまだはっきりしない。
だが確かなことがある。
――イワン伯爵は、何かを隠している。
――カルロスは、まだ死んでいない。
――そして、エミリーは自分の手で真実を掴もうとしている。
二人は馬車に戻る。
沈黙の中、互いの覚悟を確認しながら、邸宅へと戻る。
夕暮れの光が、庭の白百合を赤く染める。
影は伸び、すべてを覆う。
まだ見えぬ真実。
そして、これから始まる新たな行動の幕開け。
馬車で邸宅へ戻る道すがら、エミリーはふと崖の方に目を向けた。
「……あの足跡、完全に自然じゃない……誰かが意図的に作った……?」
ジョセフは静かに頷く。
「可能性は高いです、奥様。しかも、この跡の向きや深さは、何かを隠そうとしているように見えます」
その言葉に、エミリーは小さく息を吐く。
心の奥で、カルロスが生きていると信じる思いと、イワン伯爵が何を隠しているのかを突き止めたい衝動が、せめぎ合う。
邸宅に戻ると、廊下の角に落ちていた紙片に目が止まった。
僅かに破れた角が、先ほどの書斎で見た書類と同じ紙質を示している。
「……これは……」
ジョセフがそっと肩越しに覗き込む。
「奥様、この紙……伯爵の行動と関連があるかもしれません」
夕暮れの光が白百合の影を長く伸ばす中、二人の背後には、まだ誰も気付いていない真実の影が揺れていた。
――次に何が起こるかは、まだ誰にも分からない。
だが確かなことは、エミリーは自分の手でその謎を解き明かそうとしているということだった。




