第7崖の報せ
午後の空気は、どこか落ち着かなかった。
朝から続いていた胸騒ぎは、理由のない不安のまま残っている。
そのとき。
遠くから、馬車の音がした。
エミリーの心臓が、跳ねる。
待っていたくせに、平然を装う。
ドレスの裾を整え、背筋を伸ばす。
妻として、迎えるのは当然の務め。
玄関ホールへ降りる。
高い天井。
磨き上げられた床。
完璧な邸宅。
扉が開く。
光が差し込む。
エミリーは、柔らかく微笑む。
「おかえりな――」
言葉が、止まる。
そこに立っていたのは、カルロスではなかった。
見知らぬ男。
黒い外套。
煤に汚れた袖。
そして、ひどく沈んだ表情。
「……どなた?」
男は帽子を取り、深く一礼した。
「探偵のジョセフと申します」
探偵。
胸がざわめく。
「カルロス様と仕事の件でご一緒しておりました」
嫌な予感が、形を持つ。
男は、静かに告げる。
「本日、崖道にて……馬車が転落いたしました」
エミリーの指先が、わずかに震える。
「カルロス様は――」
時間が、止まる。
「お亡くなりになりました」
音が消える。
空気が、凍りつく。
「……遺体は?」
自分でも驚くほど冷静な声だった。
自分でも驚くほど冷静な声だった。
「まだ発見できておりません」
遺体はない。
その言葉が、妙に引っかかる。
けれど。
心がそれを掴む前に、現実が押し寄せる。
昨夜の影。
あの距離。
あの瞳。
それが、最後?
沈黙の中――
ジョセフが静かに口を開いた。
「奥様」
低く、整った声。
「至急、イワン伯爵とカトリーナ令嬢をお呼びいただけますか」
エミリーの視線が、ゆっくりと上がる。
「……なぜ?」
探るような目。
ジョセフは淡々と答える。
「当主の事故は、家の重大事。
正式に皆様の前でお伝えする必要があります」
“正式に”。
その言い方が、どこか用意されていたようで。
まるで、この場面を知っていたかのように。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、違和感が胸をかすめる。
だがエミリーは、ゆっくりとうなずいた。
「……分かりました」
顔を上げる。
瞳には涙ではなく、硬い光。
「イワン伯爵と、カトリーナ令嬢をお呼びください」
ジョセフが、わずかに目を細める。
「居間にお集まりいただきましょう」
アーロッソ家の大きな居間。
重厚な家具。
歴代当主の肖像画。
その中央に、エミリーは立つ。
静かに。
しばらくして、扉が開く。
まず入ってきたのは、カトリーナ。
「エミリー様?急にどうなさ――」
重厚な居間。
歴代当主の肖像画が並ぶ空間。
その中央に、エミリーは立つ。
扉が開く。
まずカトリーナが入ってくる。
「エミリー様、どうなさ――」
言葉が途切れる。
続いて現れたのは、背の高い男。
ゆったりとした足取り。
計算された微笑。
初めて見る顔。
鋭い眼差し。
計算された微笑。
エミリーはその顔を知らない。
だが、血筋の気配だけは感じ取った。
――この人が。
カルロスの叔父にあたる、イワン伯爵。
先代当主の弟であり、
かつては家督を争ったと噂される男。
鋭い眼差し。
計算された微笑。
「これは……何事かな?」
イワン伯爵。
エミリーは、初めて彼と向き合う。
ジョセフが一歩前に出る。
「皆様にお伝えすべきことがございます」
静まり返る室内。
重い沈黙。
そして。
「カルロス様は、本日崖道にて馬車事故に遭われ――」
「死亡が確認されました」
カトリーナが息を呑む。
「……うそ」
そのまま椅子に崩れ落ちる。
イワンは、動かない。
ほんの一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、その口元が緩んだように見えた。
だがすぐに、深い悲しみの仮面を被る。
「……なんということだ」
完璧な演技。
エミリーは、その一瞬を見逃さなかった。
遺体はない。
確認された?
誰が?
いつ?
どうやって?
違和感が、静かに積もる。
胸の奥にあるのは悲しみか。
それとも怒りか。
エミリーは、ゆっくりとイワンを見る。
初対面。
だが。
なぜか分かる。
――この人は、泣いていない。
カトリーナは震えながら呟く。
「だって……今日、会う約束を……」
その言葉に、エミリーの視線が揺れる。
会う約束?
何の?
イワンが口を開く。
「当主が不在となれば、家の今後を決めねばならぬな」
早すぎる。
エミリーの瞳が冷える。
「……まだ、遺体は見つかっておりませんわ」
静かだが、鋭い声。
「死亡が確認された、と聞きましたが?」
ジョセフを見る。
ジョセフは答えない。
イワンが、ゆるく笑う。
「事故で崖下へ落ちたのだ。生存は考えにくい」
その言い方。
決めつけ。
エミリーの背筋が、すっと伸びる。
悲しみが、静かな炎へと変わる。
――死んだと決めるのは、まだ早い。
彼女は、居間の中央で堂々と立つ。
アーロッソ家当主の妻として。
「……この件、正式に調査していただきます」
ジョセフをまっすぐ見る。
「あなた、探偵なのでしょう?」
ジョセフは、わずかに微笑む。
「もちろんです、奥様」
重苦しい空気の中。
歴代当主の肖像画が見下ろしている。
そして。
どこかで、誰かが笑っているかもしれない。
本当に死んだのか。
それとも。
イワン伯爵は、深く息を吐きながら立ち上がった。
「本日はこれ以上、話すこともあるまい」
その声音は沈んでいる。
完璧な悲嘆の響き。
カトリーナは椅子に座ったまま、蒼白だった。
「……」
唇がわずかに開く。
けれど、声が出ない。
指先が震えている。
まるで、言葉というものを忘れてしまったかのように。
ゆっくりと立ち上がるが、
足元がふらつき、侍女に支えられる。
それでも何も言えない。
ただ、エミリーを見る。
涙が溜まっているのに、
こぼれることすら出来ない。
イワンが静かに言う。
「参ろう」
カトリーナは、小さく頷くだけだった。
一礼すらぎこちなく、
そのまま伯爵の後を追う。
扉が閉まる。
重い音。
広い居間に、静寂が落ちる。
広い居間に残されたのは、エミリーとジョセフだけ。
ジョセフが軽く一礼する。
「奥様、お疲れでしょう」
「大丈夫ですわ」
エミリーはゆっくりと歩き出す。
そのまま廊下を抜け、
陽光の差し込むバルコニーへ。
昼の光は、残酷なほど明るい。
庭の白百合が揺れている。
崖。
落下。
死亡。
言葉だけが頭の中を巡る。
背後に足音。
ジョセフが、距離を保って立つ。
少しの沈黙のあと。
「……悲しいですか?」
唐突な問い。
そして静かに続ける。
「ご愁傷様です」
エミリーはゆっくり振り返る。
その目に涙はない。
そして、微笑む。
「あたくしを心配しているのか、そうではないのか……よく分かりませんわね」
やわらかい笑み。
だが、芯は硬い。
ジョセフの目が、わずかに細まる。
「失礼を承知でお尋ねします」
一拍。
「お二人は、政略結婚だったのでしょう?」
空気が変わる。
エミリーの瞳が、ほんの少しだけ見開かれる。
ここまで直球に踏み込んでくる者は、初めてだ。
一瞬の沈黙。
ジョセフはすぐに頭を下げた。
「ただの探偵に過ぎぬ身が、立ち入ったことを。どうかお許しを」
だがその目は、逃げていない。
怒るか。
拒絶するか。
試している。
エミリーは、ふっと笑った。
「よくてよ。許しますわ」
ジョセフが、わずかに驚く。
普通の貴族なら。
身分の低い者にそのような口の利き方をされれば、
叱責するか、無視するか。
それが常だ。
エミリーは手すりに指をかけ、空を見上げる。
「政略結婚?」
昼の光が、彼女の横顔を照らす。
「世間では、そう見えるのでしょうね」
静かな声。
だが、揺らぎはない。
「あたくしにとっては、違いますわ」
ジョセフが、わずかに息を止める。
エミリーはゆっくり視線を戻す。
「カルロス様は」
ほんの一瞬、言葉が震える。
それでも、笑う。
「あたくしの宝石箱ですもの」
風が吹く。
白百合が大きく揺れる。
ジョセフはしばらく黙っていた。
やがて、小さく言う。
「……そうですか」
その声には、先ほどまでの探る色がわずかに薄れていた。
昼の光の下。
涙は流れない。
だがエミリーの指先は、
強く、白くなるほど手すりを握っている。
悲しくないはずがない。
けれど。
死んだと決めるには、まだ早い。
その確信が、
彼女の胸の奥で静かに燃えていた。
バルコニーの向こう。
遠くに続く崖。
本当に、終わったのだろうか。
それとも――
物語は、まだ揺れている。




