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第6章遠ざかる背中

朝の光が、厚いカーテン越しに柔らかく差し込む。


エミリーは目を覚ました瞬間、胸の奥に小さな熱を感じた。


昨夜の影。

ランプの光。

肩が触れそうだった距離。


――今日だけの秘密。


枕に顔を埋めても、思い出は消えない。

むしろ、指先に触れるように鮮明だ。


胸が静かに、けれど確かに高鳴る。


「……寝られないはずよね」


小さく呟き、身を起こす。


身支度を整えながら、鏡の中の自分を見る。

頬がわずかに紅く、目元が柔らかい。


――普通に、振る舞わなきゃ。


けれど心は、廊下の先を探している。

あの低い声を。

あの落ち着いた足音を。


邸宅の朝は、完璧だった。


磨き抜かれた床。

整えられた花。

使用人たちの無駄のない動き。


このアーロッソ家は、いつだって隙がない。


だが。


その中心が、いない。


「……カルロスは?」


何気なく尋ねたつもりだった。

だが声がわずかに急いていたことを、自分だけは知っている。


「早朝に外出なさいました」


淡々とした返答。


外出。


胸が、きゅっと縮む。


彼はよく出かける。

家のこと。領地のこと。取引。

それは当然の務めだ。


それでも。


――どうして、こんなに寂しいの。


昨夜、あんなふうに影を重ねたのに。

あんなふうに、互いの体温を感じたのに。


何事もなかったように、いなくなる。


エミリーは窓辺に歩み寄る。


朝の庭。

白百合が風に揺れている。


昨夜、彼に渡した花。


そのとき、ふと思い出す。


昨夜、ランプの灯りの下で彼の手元が光った瞬間。


あの指輪。


アーロッソ家の紋章が刻まれた、当主の証。


いつもと変わらぬはずなのに、

あの時だけはやけに重く見えた。


――あれは、ただの装飾品ではない。


邸の古い噂を思い出す。


当主だけが知る秘密。

地下へ続く道。

受け継がれる何か。


エミリーは首を振る。


馬鹿らしい、と笑おうとする。

けれど笑えない。


胸の奥に、小さな不安が灯る。


昨夜の距離は夢だったのだろうか。


あの「光の具合で見え方も変わる」という言葉。


あれは美術品の話?


それとも――自分のこと?


彼のいない廊下は、妙に広い。


肖像画も彫刻も、今日は冷たい。


ふと足が止まる。


大広間の扉の前。


あの場所で。


あの距離で。


自分は言った。


「あなたの方がよっぽど美しい彫刻ね」


思い出した瞬間、頬が熱くなる。


――どう思ったのかしら。


彼は平然としていた。


けれど、瞳は一瞬、深く揺れた。


あれは見間違いじゃない。


……たぶん。


どうしてこんなに気になるのだろう。


どこへ行ったのか。

いつ戻るのか。

誰と会っているのか。


知らなくていいことのはずなのに。


――あたし、どうして。


答えはもう、知っている。


そのとき、遠くで馬車の音がした。


エミリーの視線が弾かれるように窓へ向く。


違った。


通り過ぎただけ。


胸が静かに沈む。


その反応に、自分で驚く。


――こんなに、待っている。


彼の帰りを。


窓枠に触れた指先が、わずかに震える。


昨夜、影が重なった場所を思い出す。


あれは確かに現実だった。


ならば。


次に彼が帰ってきたとき。


ただ黙って、奥方の顔をしているだけではいられない。


遠ざかる背中を、

今度は自分から追いかけたい。


朝の光の中、

白百合が揺れる。


その花は、昨夜よりも――

どこか凛として、強く見えた。


そしてその強さが、

やがて彼女を地下へと導くことを、

まだエミリーは知らない。


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