第3章予期せぬ訪問者
朝の光が窓から差し込む。
エミリーはゆっくりと目を覚まし、赤毛をまとめると、昨夜のドキドキを胸に抱きながら鏡に向かう。
――今日は庭園を散歩してみようかな。あの花々、どれくらい咲いているか見てみたい。
邸の庭園は社交界でも有名で、四季折々の花が色とりどりに咲き誇る。
カルロスの家族が代々手入れしてきた庭は、まるで小さな王国のようだと人々は言う。
白百合、薔薇、チューリップ、朝の光に照らされた花々が、柔らかく香る。
エミリーは自室の扉をそっと開き、廊下に出る。
――あ、そうだ。ひとりで庭に出てもいいのかしら……
部屋のドアの向こうには、エミリーのメイド、マリーが待っていた。
「お嬢様、お目覚めですか?」
「ええ、マリー。あの……庭園を見て回ってもいい?」
マリーは少し眉を上げ、にこりと笑う。
「もちろんですわ。お庭に出られるのですね。あまりはしゃぎすぎないでくださいね。お嬢様はお転婆ですか」
「気をつけるは、ありがとう」
エミリーは嬉しそうに頷き、朝の光に誘われるように廊下を抜け、庭園への扉を開けた。
朝露に濡れた小径が、光を反射して柔らかく光る。
――ああ……本当に美しい。
花々の香りに包まれながら歩いていると、遠くで二人の人影が見える。
――あれは……
声が聞こえてきた。
「昨日は本当に美しい結婚式でしたね」
柔らかく、どこか無邪気な声。
「ありがとう、カトリーナ。君が見てくれていたとは知らなかった」
カルロスの声は穏やかだが、いつもの冷静さの中に少しだけ柔らかさが混ざる。
エミリーの心臓が跳ねる。
――な、なんで……!
まさか、朝からこんな親密な会話を……
声と姿を確認し、二人が花壇の前に立っているのを見た。
カトリーナは薔薇の花を手に取り、笑みを浮かべる。
「カルロス様、子供の頃からこの庭、よく一緒に遊びましたね」
「そうだな……覚えている」
カルロスは少しだけ笑みを浮かべ、カトリーナの手元の花を指で撫でる。
エミリーは足を止め、息を呑む。
(……なんでここにいるの!?)
――思わず心の中で叫んでしまう。
カトリーナ・ブロッシュウッド
ーーカルロスの幼なじみであり彼女も社交界の花として人気のある令嬢だ。
その金髪はまるで陽光そのものを閉じ込めたかのように煌めき、微笑むたびに庭の花々よりも鮮やかに目に映る。
エミリーは胸の奥で嫉妬と闘志が入り混じる。
(ここにいるから何よ!負けてちゃダメでしょ!あたしが振り向かせるんだから……!)
思わずエミリーは、庭に咲く白百合の一輪を手に取る。手の中で花の香りを確かめながら、カトリーナとカルロスの間に自然と歩を進める。朝の光を受けて赤毛が揺れるたび、二人の視線を引きつけるように――。
――カトリーナがどれだけ無邪気でも、あたしはあたしの方法で、カルロスを振り向かせる!
そして、庭園の小径を曲がると、カルロスがふと振り返る。
その瞳は冷たく、だが確かにエミリーを捉えていた。
「……エミリー」
その一言で、胸が熱くなる。
けれどエミリーは動じないふりをした。
白百合を指先でくるりと回し、ゆっくりと歩み出る。
「――あら、カルロス。ごきげんよう」
朝の光を背に、にこりと微笑む。
「こんなところでお会いするなんて奇遇ですね」
そして視線を、隣に立つ金髪の令嬢へと向ける。
ほんの一瞬だけ、値踏みするような静かな間。
「……隣の方は? どなた?」
柔らかな声。
だがその奥には、かすかな棘。
カトリーナは一瞬目を瞬かせたあと、優雅に一礼した。
絹のような金髪がさらりと揺れる。
カルロスが口を開く。
「紹介しよう。カトリーナ・ブロッシュウッド。私の幼なじみだ」
幼なじみ。
その言葉が、胸の奥を小さく刺す。
カトリーナは穏やかに微笑む。
「初めまして、エミリー様。お噂はかねがね伺っておりますわ」
「まあ、どんな噂かしら?」
即座に返すエミリー。
にこやかだが、一歩も引かない。
カルロスがわずかにため息をつく。
「庭を見に来たのか」
「ええ。こんなに美しいお庭ですもの。見逃すなんてもったいないでしょう?」
エミリーはカルロスのすぐ隣まで歩み寄る。
わずかに肩が触れそうな距離。
カトリーナの視線が一瞬だけ揺れる。
「子供の頃は、ここでよくかくれんぼをしましたの」
カトリーナが柔らかく言う。
「そうだな」
短い肯定。
エミリーの鼓動が速くなる。
(かくれんぼ……? この庭で? 二人で?)
けれど、すぐに白百合を差し出した。
「では、今は私と歩いていただけます?」
挑むような視線。
カルロスはエミリーを見る。
その赤毛が朝日に揺れ、瞳は真っ直ぐで強い。
ほんのわずか、口元が緩んだ。
「……今日は賑やかだな」
カトリーナはにこやかに微笑んだまま、静かに二人を見つめる。
庭の空気が、甘く、そして緊張を帯びて揺れる。
三人の距離は近いのに、
心の距離はまだ測れないまま。
朝の庭は、美しさの裏で、確かに火花を散らしていた。
庭の空気が、わずかに張りつめる。
「幼なじみ、ですのね?」
エミリーは微笑む。
穏やかで、澄んだ声。
張り合う気配は一切ない。
カトリーナが優雅に頷く。
「ええ、小さな頃から――」
「まあ、素敵」
遮らない。
奪わない。
白百合を指先でそっと整える。
「長い時間をご一緒なさったのですね」
祝福するような声音。
カトリーナは一瞬だけ言葉を失う。
——挑まれない。
それは、予想外だった。
だが次の瞬間。
エミリーは自然な動きで、カルロスの前に立つ。
視線を合わせることもなく、
ただ当然のように距離へ踏み込む。
「朝露で濡れていましたわ」
白百合を、彼の胸元へ。
指先が布を整える。
ほんの一瞬。
けれど迷いのない動き。
甘やかしでも媚びでもない。
日常の所作。
“触れてよいと知っている者”の手つき。
カルロスの瞳が、わずかに見開かれる。
完全に、想定外。
その手を払うことはしない。
花を拒まない。
「……気が利くな」
低く、少しだけ掠れた声。
エミリーは微笑むだけ。
「積もるお話もおありでしょうし、ごゆっくりなさってくださいませ」
一歩、静かに引く。
その引き際の美しさが、いっそう際立つ。
裾が朝露をかすめ、光を弾く。
「あたくしはこれで失礼いたします」
深く、完璧な一礼。
それは令嬢の礼ではない。
この邸を預かる者の礼だった。
カトリーナの指先が、わずかに強く薔薇を握る。
自分が客であるという現実。
言葉にされていないのに、突きつけられる。
エミリーは振り返らず、ただ一言だけ落とす。
「カルロス様」
その呼び方は柔らかい。
だが、揺るぎない。
「朝は冷えますわ」
それだけ。
命令ではない。
束縛でもない。
“妻が見せる夫への気遣い”。
カルロスの視線が、彼女の背に張り付く。
今まで見せたことのない表情。
わずかな驚き。
わずかな熱。
そして、確かな意識。
「……エミリー」
呼び止めはしない。
だが視線は、完全に彼女を追っている。
カトリーナはそれを見逃さない。
ほんの少しだけ、笑みが揺らぐ。
自分が共有してきたのは過去。
今、触れたのは——彼女。
エミリーは振り返らない。
背筋を伸ばし、歩幅を乱さず庭を横切る。
赤毛が朝日に燃える。
(幼なじみ?)
胸の内で、静かに微笑む。
過去は、美しい。
けれど。
今、彼の胸に咲いているのは
自分が選んだ白百合。
――静寂が落ちる。
カトリーナが、柔らかく笑った。
「……素敵な方ですのね」
カルロスはすぐには答えない。
視線は、まだ彼女の背を追っている。
胸元の白百合に触れる。
指先に残る、わずかな温もり。
「……ああ」
低く、短く。
だがその声は、
先ほどまでよりも確かに柔らかかった。
朝の庭に残るのは、
甘い花の香りと、
圧倒的な余裕を見せつけられた沈黙。
そしてカルロスの胸元で揺れる白が、
誰の手によるものかを、はっきりと示していた。




