第4章白百合の残り香
ーーカルロス視点
庭を後にしたあとも、胸元の白は外さなかった。
外す理由がなかったわけではない。
当主が花など飾るものではない。
だが――指は動かなかった。
執務室の扉が閉まる。
重厚な机、整然と積まれた書類、磨かれた床。
すべてが日常の風景だ。
その中央に、白百合を置いた。
飾るためではない。
ただ、そこに置いた。
指先が無意識に花弁をなぞる。
柔らかい。
朝露の残り香が、まだ微かに残っている。
「……余裕だな」
思い出すのは、振り返らなかった背中。
赤毛が朝日に燃え、裾が光を弾いた。
奪わず、縋らず、誇らしく。
あれは牽制ではない。
宣言だ。
――私はここにいる、と。
小さく息を吐く。
「面白い女だ」
政略のはずだった。
結婚は義務、淡々とした手続き。
だが違う。
あれは、自ら立つ。
背筋の伸び、揺るがぬ眼差し、そして淡い朝の光に映える赤毛。
自分の思惑など届かない。
――初めて、意識する。
扉が叩かれる。
「旦那様」
「なんだ」
「イワン伯爵より書状が届いております」
「入れ」
差し出された封蝋。
蛇のように絡む紋章。
目がわずかに冷える。
封を切る。
『近々、財産管理と家督の件でお話ししたく。
当主殿もご多忙とは存じますが、ぜひ。』
家督。
わざわざ書く必要のない言葉だ。
口元が、僅かに歪む。
「……始めたか」
側近が声を落とす。
「最近、屋敷周辺に見慣れぬ者の影がございます」
やはり。
暗殺未遂は一度ではない。
事故に見せかけた馬車の故障。
狩場での銃弾。
毒を混ぜられた酒。
すべて、証拠は掴ませない。
だが、匂いは同じだ。
イワン・アーロッソ。
血縁であり、最も信用できぬ男。
机の引き出しを開ける。
中に収められているのは、アーロッソ家当主の指輪。
家紋が刻まれた重厚な銀。
その裏に、代々当主のみが知る印。
地下通路へ続く暗号。
隠された文書と財。
これがあれば、イワンは“正統”を名乗れる。
だから狙う。
指輪も、命も。
どう動くか。
先に潰すか。
泳がせるか。
その時、視界の端に映る白。
白百合。
――巻き込むな。
政略で迎えた妻だ。
家の事情に触れさせる必要はない。
守ればいい。遠ざければいい。
だが、浮かぶのは朝の赤毛。
怯えもせず、揺れもせず、当然のように胸元へ触れた指。
あの距離。あの目。
(……守る必要があるのか?)
自問する。
あれは庇護の対象か?
違う。
対等だ。
共に立つと、無言で告げる女。
胸の奥が、わずかに熱を持つ。
面倒だ。
だが――悪くない。
指先が白百合を弄ぶ。
柔らかさ、香り、微かな温もり。
花弁が一枚、静かに落ちる。
机に触れ、ひらりと止まる。
その白が、やけに脆く見えた。
夜が深まる音とともに、扉の向こうで足音。
報せが動く音。
机の上の白百合は、甘さと嵐の予兆を静かに残していた。
指輪を握る手に力を込める。
「来るなら来い、イワン」
瞳は冷たい。
だが机の上の白だけが、
この部屋に残る、もう一つの温度だった。
花弁はまだ香っている。
――甘さと、嵐の予兆を共に。




