第13章 見えない視線
夜の帳は、音もなく降りていた。
イワン伯爵の邸宅は、昼間の華やかさとは別の顔を持っている。
灯りは最小限に落とされ、廊下には長く沈む影が静かに横たわっていた。
人の気配はある。
だが、それは表に出るものではない。
囁きも、足音も、すべてが抑えられている。
――何かを、隠すように。
その奥。
重厚な扉の向こうで、低い声が響いた。
「……葬儀は、まだ整っていないようだな」
イワン伯爵は椅子に腰掛けたまま、グラスを傾ける。
琥珀色の液体が、わずかな光を受けて揺れた。
対面には、影の中に立つ男。
灯りの届かぬ位置に立っているため、顔は見えない。
「はい。奥方のご意向で、延期されております」
報告は簡潔だった。
余計な感情も、装飾もない。
伯爵の指先が、わずかに止まる。
「……そうか」
短く、淡々とした声。
驚きはない。
それはすでに知っていた事実の“確認”に過ぎない。
だが――
グラスの中で液体が、ほんのわずかに揺れる。
静かに、冷えていく空気。
「感情に任せているのか」
一拍。
「あるいは――時間を稼いでいるのか」
その言葉は、独り言のようでもあり、問いでもあった。
だが答えは求めていない。
すでに、思考は進んでいる。
グラスを置く音が、静かに響く。
その音だけが、やけに重く感じられた。
沈黙。
影の男は何も言わない。
それでいい。
余計な言葉は、邪魔になるだけだ。
伯爵はゆっくりと立ち上がる。
動作に無駄はない。
「どちらでも構わん」
窓辺へ歩み寄る。
外は闇に沈み、庭の輪郭すら曖昧に溶けていた。
「問題は、時間だ」
低く、確信を込めて言う。
「“あれ”を開けるには、指輪が要る」
その言葉に、空気がわずかに張り詰める。
影の男は微動だにしない。
だが、聞いている。
「地下の扉は確認済みだ」
伯爵は窓枠に手を置く。
指先が、静かに木を叩く。
一定の間隔で。
焦りではない。
思考のリズム。
「だが、あの紋章は動かない」
軽く叩く音が止まる。
「当主の証――あの指輪が鍵になっている」
淡々とした分析。
感情はない。
だが、その奥にあるのは――執念。
「カルロスめ……」
初めて、わずかな感情が滲む。
低く、抑えた声。
「余計な細工を」
その一言に、すべてが込められている。
警戒。
苛立ち。
そして――認めざるを得ない評価。
すぐに消える。
再び、完全な静けさへ戻る。
「……だが、もういない」
断定。
揺らがない。
「ならば、次は誰が持つ?」
ゆっくりと振り返る。
影の男を見据える。
その視線は鋭く、冷たい。
答えは一つしかない。
「奥方だ」
空気がさらに重くなる。
「邸内を探れ」
命令は短い。
だが、拒否は許されない。
「使用人でも、執事でも構わん。口を割らせろ」
一拍。
「ただし――」
声が、さらに低くなる。
「目立つな」
「まだ“疑われている段階”で止めておきたい」
完全に疑われているわけではない。
だが、気づかれている可能性はある。
その“境界”が最も危うい。
影の男が、静かに頭を下げる。
「……承知」
「それと」
伯爵はふと付け加える。
「奥方の動きも監視しろ」
わずかに、目を細める。
「地下に入ったそうだな」
その情報はすでに入っている。
そして、それが意味することも。
「……面白い」
ほんのわずかに、口元が緩む。
だがそれは、楽しんでいる笑みではない。
獲物を見定めた、狩人の表情。
「ただの飾りではないらしい」
「ならば――利用できる」
手を軽く振る。
それが合図だった。
影は、音もなく消える。
まるで最初から存在しなかったかのように。
部屋に残るのは、伯爵一人。
沈黙。
完全な静寂。
伯爵はゆっくりと机へ歩み寄る。
そこに置かれているのは、小さな鉢。
白い花。
細い茎に、繊細な花弁。
地下に落ちていたものと、同じ。
指先で、そっと触れる。
「……よく咲く」
誰にともなく呟く。
その声には、何の感情もない。
ただ、事実を述べているだけ。
だが。
その花は、確かに“外”へ持ち出された。
誰かの手によって。
伯爵はそれ以上何も言わない。
ただ静かに、花を見下ろしている。
まるで――
すでに次の一手を、思い描いているかのように。
アーロッソ家の邸宅。
夜。
昼間の空気を引きずったまま、邸宅は沈黙の中にあった。
だが、その静けさは違う。
張り詰めている。
どこかで、何かが動いている。
エミリーの部屋には、まだ灯りが残っていた。
机の上。
ハンカチに包まれた白い花。
それを、彼女は静かに見つめている。
昼間。
イワン伯爵の前で口にした言葉。
――白くて、小さな花。
そのとき。
彼は、わずかに間を置いた。
ほんの一瞬。
だが確かに。
(あの男は、“知られていること”を嫌う)
だからこそ、完璧であろうとする。
だが、完璧なものほど――歪みは小さく現れる。
「……伯爵の庭のもの、で間違いないのね」
改めて問う。
ジョセフは頷いた。
「ええ。庭師に確認を取りました。あの花は伯爵が外から取り寄せたものです。この地方では確認されておりません」
「他家では?」
「見つかっておりません」
エミリーは小さく息を吐く。
「……やっぱり」
確信に変わる。
地下。
花。
伯爵。
すべてが、一本の線になる。
そのとき。
――かすかな音。
エミリーの指先が止まる。
ジョセフも同時に顔を上げる。
廊下。
何かが触れたような、微かな気配。
だが、すぐに消える。
「……今のは」
ジョセフが低く言う。
エミリーは答えない。
ただ、扉を見つめている。
空気が、違う。
ほんのわずかに。
だが確実に。
(いる)
確信ではない。
だが、感じる。
見られている。
その感覚。
エミリーはゆっくりと立ち上がる。
音を立てずに、扉へと歩み寄る。
手をかける。
だが――開けない。
代わりに。
「……探し物?」
静かに、声を落とす。
返事はない。
だが。
ほんの一瞬。
空気が揺れた。
そして――消える。
足音は、もうしない。
完全な沈黙。
エミリーは扉から手を離す。
追わない。
追えば、逃げる。
それだけだ。
「……浅いわね」
小さく呟く。
恐れているのは、向こう。
だから姿を見せない。
だから――雑になる。
机へ戻る。
白い花を手に取る。
「焦っているのね」
静かに言う。
(地下まで来て、開けられなかった)
(だから、指輪を探している)
(そして――私を見ている)
確信。
エミリーはふっと笑った。
「いいわ」
低く、静かに。
「来るなら来なさい」
宣言。
その言葉は、誰に向けたものでもない。
それでも――確かに届く。
見えない誰かに。
その夜。
邸宅の裏手で、ひとつの影が倒れた。
音はほとんどない。
ただ、地に崩れる気配だけ。
誰かに、背後から打たれたのだろう。
その傍に、もう一つの影。
立っている。
動かない。
ただ、邸宅を見ている。
長く。
静かに。
そして――
音もなく、消えた。
誰にも知られることなく。
だが確かに。
“何か”は、すでに動いている。




