第12章 未亡人の駆け引き
朝の邸宅は、静まり返っていた。
いつもなら人の気配で満ちているはずの廊下も、今日はどこか遠慮がちだ。
声は潜められ、足音は吸い込まれるように消えていく。
だが、完全な喪ではない。
黒布も、弔いの花も、まだ整えられてはいなかった。
すべてが――止まっている。
決断が下されていないまま、時間だけが宙に浮いていた。
その中心にいるはずの女、エミリー・ダッチェスは。
いつもと変わらぬ装いで、静かに椅子に腰掛けていた。
黒ではない。
だが華美でもない。
控えめな色合いのドレス。
まるで、“どちらにも属していない”ことを示すように。
机の上には、一輪の白い花。
地下で見つけた、あの草だった。
薄く透ける花弁が、朝の光を受けてわずかに揺れる。
(……終わっていない)
エミリーはそれを見つめながら、静かに息を吐いた。
(あなた、本当に死んだの……?)
遺体はない。
確かな証もない。
ただ「亡くなった」と告げられただけ。
それだけで、この男が消えるはずがない。
あの、隙のない男が。
――簡単に。
「奥様」
ノックの音。
ジョセフの声。
「イワン伯爵がお見えです」
エミリーは一瞬だけ目を伏せた。
だがすぐに顔を上げる。
「通して」
短く告げる。
机の上の白い花に、そっとハンカチをかけた。
隠すためではない。
“使うために”。
扉が開く。
入ってきた男は、静かに一礼した。
イワン伯爵。
穏やかな微笑み。
整った所作。
どこから見ても、非の打ち所のない貴族。
だが――
(底が見えない)
エミリーは椅子から立たない。
視線だけで迎える。
「この度は……誠にご愁傷様でございます」
滑らかな声音。
悲しみを語るには、あまりにも整いすぎている。
「……ありがとうございます。」
感情は乗せない。
伯爵は一歩進む。
「突然のことで、さぞお心痛かと」
「ええ。あまりに急で……まだ実感がございませんの」
それは事実だった。
だが意味は違う。
“死を受け入れていない”という意味で。
一瞬の沈黙。
やがて伯爵は、穏やかな調子のまま本題に入る。
「さて、本日は――ご葬儀の件で」
エミリーは、わずかに目を細めた。
来た。
「このような状況です。あまり長く先延ばしにするのは、得策ではございません」
「当主を失った家は、不安定になります」
「早急に整えるべきかと」
正論。
非の打ち所のない理由。
だが。
(急いでいる)
エミリーは一拍、間を置いた。
そして静かに言う。
「……随分と、お急ぎなのですね」
伯爵の微笑が、ほんの一瞬だけ揺れる。
「決してそのような――」
「では、なぜ?」
かぶせる。
声は低く、静か。
だが逃がさない。
「どうして、あの方をそんなに早く“終わらせよう”とするのです?」
空気が止まる。
ほんの一瞬。
伯爵の言葉が途切れた。
その“わずかな隙”を、エミリーは見逃さない。
だが彼はすぐに立て直す。
「……誤解でございます」
「私はただ、アーロッソ家の安定を――」
「ええ、わかっております」
エミリーは遮る。
そして視線を落とした。
ほんの少しだけ、声を弱める。
「……あたくしは、まだ」
「受け入れておりませんの」
崩れきらない悲しみ。
完璧すぎない未亡人。
「もう少し……このままでいさせてくださいませ」
願いの形を取りながら。
それは拒絶。
伯爵は数秒、彼女を見つめる。
測るように。
探るように。
やがて、静かに頭を下げた。
「……承知いたしました」
「奥方のご意向のままに」
一歩下がる。
会話は終わる。
――はずだった。
「伯爵」
エミリーが呼び止める。
彼は足を止めるが、振り返らない。
「何か」
その背に向けて、エミリーは微笑む。
「珍しいお花をお持ちなのですね」
沈黙。
一瞬だけ、空気が張り詰める。
「……花、でございますか」
声は変わらない。
だが、完全でもない。
「ええ。白くて、小さくて……とても繊細なお花」
ゆっくりと、言葉を重ねる。
「どこかで見たことがある気がして」
伯爵は、わずかに顎を引いた。
「……世には、似た花も多うございます」
それだけ言って、歩き出す。
扉が閉まる。
静寂が戻る。
エミリーはしばらく動かなかった。
やがて、ハンカチを外す。
白い花が、そこにある。
それを見つめて、静かに笑った。
「――やはり、あなたなのね」
確信。
だが、まだ証拠はない。
それでいい。
盤面は、動いている。
エミリーは立ち上がる。
その瞳にあるのは、悲しみではない。
計算。
「ジョセフ」
「はい、奥様」
「伯爵について、調べて」
振り返らずに言う。
「徹底的に」
ジョセフは一礼する。
「承知いたしました」
エミリーは窓の外を見る。
曇り空。
だが、その先を見据えている。
「――終わらせないわ」
葬儀も。
真実も。
そして。
あの男も。
すべて、自分の手で掴むために。
まだ、終わらせない。




