第14章 静かなる反撃
夜は、静かすぎるほど静かだった。
アーロッソ家の邸宅は、深い眠りに落ちたように沈黙している。
だが――
それは安らぎではない。
張り詰めた、戦の前の静けさだった。
⸻
エミリーは、一人、書斎にいた。
机の上には、何も置かれていない。
地下で見つけた白い花も、カルロスの紙束も、すべて片付けてある。
――あえて。
「……そろそろ、動く頃ね」
小さく呟く。
その声に、迷いはなかった。
ジョセフが控えている。
「奥様、配置は完了しております」
「そう」
エミリーは椅子に深く腰掛ける。
指先を組み、静かに思考を巡らせる。
(伯爵は焦っている)
葬儀を急がせようとした。
地下にも侵入している。
そして――指輪を探している。
ならば。
「欲しいものがあるなら、餌を見せればいい」
エミリーは微かに笑った。
それは、社交界で“セミラミス”と呼ばれた女の顔。
「“見つかったかもしれない”と、思わせればいいのよ」
⸻
その噂は、静かに流された。
意図的に。
だが自然に。
「奥様が、地下で何かを見つけたらしい」
「当主の指輪に関係するものだとか」
使用人たちの間で囁かれる。
止める者はいない。
むしろ――
広がる。
屋敷の壁は、秘密を守るようでいて、時に最も早く運ぶ。
そしてその情報は、必ず届く。
“聞かせたい相手”へ。
⸻
夜半。
時計が低く、時を刻む。
エミリーは書斎に残っていた。
灯りは一つ。
わざとだ。
誰かが来るなら、ここしかない。
ジョセフは姿を消している。
だがいないわけではない。
見えない場所で、すべてを見ている。
完全な、舞台。
(来なさい)
エミリーは本を開いたまま、ページをめくらない。
視線だけが、わずかに動く。
空気を読むように。
⸻
――かすかに。
音がした。
木が軋むような、ごく小さな気配。
風ではない。
この屋敷の音ではない。
“侵入者”の音。
エミリーは顔を上げない。
気づかないふりをする。
呼吸も、動きも、すべて一定に保つ。
だが、神経は鋭く研ぎ澄まされていた。
気配はゆっくりと近づく。
扉の向こう。
廊下。
そして――
書斎の前で止まった。
一瞬の沈黙。
次の瞬間。
ほんのわずかに、扉が動く。
音は、ないに等しい。
だが、開いた。
影が滑り込む。
黒い。
人の形をしているが、顔は見えない。
音もなく、部屋の中へ。
(……来た)
エミリーは、ようやくページをめくる。
自然な動作。
何も気づいていないかのように。
影はゆっくりと進む。
目的は明確。
机。
引き出し。
書棚。
――探している。
(指輪)
エミリーは確信する。
やはり、そこだ。
影が机に手を伸ばした、その瞬間。
「――そこには、ありませんわよ」
静かな声が、落ちた。
影が止まる。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、動きが止まった。
その隙。
「今よ」
低く、鋭く。
その瞬間、空気が変わる。
暗がりから、ジョセフが現れる。
他にも、控えていた者たちが一斉に動く。
だが。
影は早かった。
迷いなく、窓へ向かう。
躊躇なく、開ける。
そして――
飛んだ。
ガラスの破片が散る。
外の闇へ。
「逃がすな!」
ジョセフの声。
だが、すでに遅い。
足音は、消えた。
完全に。
静寂だけが戻る。
⸻
「……取り逃がしたわね」
エミリーは立ち上がる。
怒りはない。
むしろ――
「でも、十分よ」
床に目を落とす。
そこに、小さなものが落ちていた。
黒い布の切れ端。
そして。
微かに付着した、土。
ジョセフが拾い上げる。
「これは……」
「ええ」
エミリーは頷く。
「邸の庭の土じゃない」
地下とも違う。
もっと乾いていて、粒が粗い。
「外から来ている」
つまり。
侵入経路がある。
「……屋敷の中だけではないわね」
ジョセフが静かに言う。
「ええ」
エミリーは窓の外を見る。
闇。
だが、その先を見ている。
「地下だけじゃない」
「別の“道”がある」
⸻
静寂。
割れた窓から、夜風が入り込む。
カーテンが揺れる。
そのとき。
ふと。
違和感が走った。
風とは違う。
気配。
エミリーの視線が、ゆっくりと動く。
部屋の奥。
誰もいないはずの場所。
だが――
(……誰か、いる)
ほんの一瞬。
確かに、何かが“いた”。
だが。
次の瞬間には、消えている。
ジョセフは気づいていない。
気のせいかもしれない。
だが。
エミリーは目を細めた。
(今のは……)
侵入者とは違う。
もっと静かで。
もっと――
「……妙ね」
小さく呟く。
胸の奥が、わずかにざわつく。
恐れではない。
懐かしさにも似た、違和感。
だが、それを追うことはしない。
今は――
盤面の方が重要だ。
⸻
エミリーは振り返る。
割れた窓。
残された痕跡。
そして、自分の手の中の情報。
すべてを、ゆっくりと整理する。
「……釣れたわね」
低く言う。
「ええ、奥様」
ジョセフが応じる。
「だが、まだ“本体”ではない」
エミリーは微笑む。
「構わないわ」
「尻尾は掴んだもの」
そして。
静かに言う。
「次は、逃がさない」
その瞳は、完全に“狩る者”のそれだった。
⸻
夜は、まだ終わらない。
だが。
確実に、何かが動いた。
そしてどこかで――
姿を見せぬ男が、その動きを見ていることを。
エミリーは、まだ知らない。
だが。
確実に、近づいている。
真実にも。
そして――
その“男”にも。




