第94話 国が止まる日
メルボルンカップはオーストラリアの国家的なお祭りである。
正確には前後一週間を使った、巨大なイベントなのだ。
そんな週にもしっかりと調教をして、優姫はオーストラリアに飛ぶ。
参戦する馬のジョッキーたちは、前日には市街地のパレードに参加したりもする。
ちょっと驚くのは、参加するトップクラスの騎手の中には、他にも女性が二人もいたこと。
それでも優姫が、圧倒的に若いのは変わらなかった。
これに向けて前哨戦というわけでもないが、コックスプレートなどの中距離馬最強決定戦も行われる。
1着賞金も日本円で3億前後と、かなりの金額のレースである。
なおコーフィールドカップの2400mを走った後、中一週でメルボルンカップに出てくることも珍しくない。
昔の日本のように、レースに使いながら仕上げていくというスタイルだ。
ここで負けてもオーストラリアの主流、スプリント路線の価値がなくなるわけではない。
またそもそもスプリンターは、メルボルンカップはもちろん、中距離にさえも出ないのだ。
ヨーロッパからの遠征馬が、時間をかけて仕上げていくのを見て、地元の馬もそういう傾向にはなっているという。
優姫もゆっくりと仕上げたものだが、以前はほぼ連闘という話を聞くと、まるでオグリキャップのローテだなと思ったりもする。
「お祭り騒ぎだ……」
優姫もそう言うほどの、ちょっと独特のものである。
ギャンブルの空気が薄い、健全な祭りの空気がある。
ファッションショーも同時に行われ、馬主席なども確かにドレスコードはあるが、女性のそれはむしろ最先端のものであったりする。
これは日本で競馬が行われるより、はるか昔からの伝統。
「メルボルンカップがどうかと言うよりは、巨大なカーニバルの中心にメルボルンカップがあるという感じやなあ」
三ツ木としてもまさか、自分の調教師生活の最後に、こんな派手な舞台が回ってくるとは思っていなかった。
「来年も参加する?」
「いや、それはどうやろ……」
火曜日にレースが行われるが、前週の土曜日からもう、オーストラリア全体がお祭り騒ぎの準備に入っているのだ。
月曜日のパレードには、騎手や調教師だけではなく、馬主やその家族も加わる。
またかつてのメルボルンカップを制覇した馬たちが、姿を現して誘導馬の後に続く。
オープンカーの後部座席で、優姫は勝負服を身に着けていた。
「いや、すげーなこれ」
SSRCの社長も、夫人を連れて参加している。
「馬券自体の売り上げはともかく、有馬記念以上のイベントじゃねえ?」
その感想は正しい。
このメルボルンカップに向けて、オーストラリアは特にヴィクトリア州では、一般的な経済活動は停止する。
インフラやお祭りに関しては、むしろ爆発的に動いているのだが。
世界で一番馬券が売れる有馬記念。
あるいは複数のGⅠが開催される、ブリーダーズカップやドバイミーティング、そして香港国際競走。
それらは確かに、最強馬決定戦ではあるのだろう。
だがこれは祭りなのである。
わざわざこのレースに走らせるためだけに、ヨーロッパからステイヤーを買ってきたりもする。
オーストラリアの馬産は、完全に短距離に特化しているのだ。
このレースは賞金が高いのに、レーティングは高くない。
その理由はというと、ハンデ戦だからである。
馬によっては52kgなどという、モーダショーよりはるかに軽い斤量で乗っている。
なので箔は付くが、種牡馬選定の価値は高くならない。
それでも斤量の不利があってなお、勝てばそれなりの評価にはなるのだ。
モーダショーは今の競走馬にはなくなってきた、頑丈さを持っている。
種牡馬として成功するかは、微妙なところであろう。
だが下手なステイヤー体型でもないので、今の世界のサラブレッドには、必要とされる血統であるのかもしれない。
24頭の多頭数で行われるメルボルンカップ。
もっとも日本も昔は、ダービーを30頭ほどで走っていたものだ。
その頃の名残が、ダービーポジションという言葉や、最も運がいい馬が勝つ、などという言葉として残っている。
なおメルボルンカップはさらにそれを上回る、40頭近くで走っていた時代もある。
競走という形をしているが、お祭りのようなものである。
だからこそハンデ戦で、いいレースになるように調整しているわけだ。
ただ過去には斤量の重さで、予後不良になった馬もいる。
なので比較的斤量のハンデも、昔ほど極端ではなくなっている。
このハンデ戦というのはレースの予想を難しくする。
だが伝統のGⅠでハンデ戦というのは、これが競走ではなく祭典となっていて、結果としてレーティングが低くなってしまう。
日本の場合、春の天皇賞に、その前後でジャパンカップなどを制覇する馬が出てくる。
なので比較的レーディングは高くなり、長距離の区分では世界一の年もあるのだ。
菊花賞を勝って、春天を勝つ。
ステイヤーにとってみれば、分かりやすいGⅠの勝ち方である。
だがちょっと調べてみれば、2000mの札幌記念や、2400mのジャパンカップの結果も分かる。
それを知っていればモーダショーを、軽視するという選択にはならない。
いくら鞍上がまだ、20歳の小娘であっても。
月曜日のパレードに間に合えばいい、と思ってやってきた。
それでもオーストラリア全体が、ふわふわとした空気の中にある。
一度勝てば、二度は出なくてもいいな、と思えるレース。
なのでこの一度で、確実に勝ってしまおう。
モーダショーは基本的に、斤量はあまり苦にしない。
だが最後に坂があるコースでは、キレが見られないという特徴がある。
阪神大賞典のように、それまでの距離で他の馬の、スタミナを削ったならば勝てるのだ。
だが2400mぐらいまでの距離では、削り切れない。
むしろ最後の坂で、上り切るパワーが足りない。
最後に坂のない札幌などでは、だから勝てるはずであった。
あれで勝てなければ、もう京都のGⅡなどを探すか、いっそ海外に出た方が早い。
優姫の考えというのは、そういったルートで導き出された。
このメルボルンカップも、どうやって戦うかはずっと前から考えていた。
溜めて溜めて、最後にスパート、という作戦は考えていない。
もちろんロングスパート、という手段も間違いではないだろう。
だが優姫が選んだのは、有馬記念を考えてのもの。
またフレミントン競馬場のコースについても、しっかりと調べてあった。
24頭中、6番という枠もなかなか良かった。
モーダショーはスタートがそれほど早くはないが、出遅れるということもない。
ならば優姫が上手く息を合わせれば、スムーズに出ることが出来るのでは。
長い直線から始まるこのレース。
12万人の観客は、日本の競馬場と比べても、見劣りするようなものではない。
だが馬券の売り上げは日本ほどではなく、やはりお祭りという側面が強いだろう。
ゲートに収まった24頭が、わずかにスタートを待つ。
もうずっと前から、どうするかは考えていた。
ゲートが開いた瞬間、モーダショーはその意思に従ってくれていた。
スムーズなスタートの中で、特に早く出足をつける。
直線の半ばに入るころには、先頭を走っていた。
3200mを逃げる。
本当に強い馬は、逃げて勝てる馬。
またアップダウンが激しくないので、モーダショーのじり脚のスピードとも合っている。
ヨーロッパでは勝てないタイプ。
むしろヨーロッパの方が、世界的に見れば孤立しているのだが。
テンから先頭に立ったモーダショー。
普通ならこれはラビットのように、ペースメーカーに使われてしまうものだ。
だが優姫の体内のラップは狂わない。
そしてモーダショーはマークされても、気にしない図太さを持っている。
一周が2300m以上ある、このフレミントン競馬場。
コーナーのカーブも緩やかなので、小回り苦手なモーダショーでも、問題なく走れる。
逃げ馬が有利なのは、コースの位置取りを争わなくてもいいということだ。
もちろん同じ事を考えて、先頭を狙ってきた馬もいた。
だがここでは優姫が、一番作戦を徹底していた。
最初に長い直線から入る。
そこで急には内側に切り込まず、まずは真っすぐ走らせたのだ。
そしてしっかりと抜けてから、カーブに合わせて内側へ。
上手く先頭のまま、コーナーを曲がっていくことが出来た。
有馬記念でも比較的、逃げを選択していたのだ。
小回りでコーナーが多いが、それでも自分で進路を選べるため。
折り合いをつけて最後の直線で爆発させる、というのが日本やヨーロッパの競馬のスタイルである。
芝のパターンと言ってもいいかもしれないが、ハイペースの逃げに他の馬を引きずり込めば、削り取って勝つことが出来る。
これはスタミナよりも、脚質の問題であったろう。
向こう正面で一気に、10馬身ほども差をつける。
だが優姫はそれほど、ハイペースというわけでもないのだ。
ペースを一定に保って、長くいい脚を使う。
モーダショーのロングスパートを、そうやって使っている。
最後のカーブに入っても、無理に小回りで回る必要がない。
なのでスピードのロスなく、モーダショーは回ってきている。
さすがに4コーナーの前からは、後ろの馬もペースを上げてきている。
本来のロングスパートが得意な馬が、進出してきているのだ。
だがこの時点でもモーダショーは、スピードが落ちていない。
長くいい脚を、ずっと使っているのである。
これは勝てるどころか、圧勝ではないのか。
見ている側としては、そう思えてしまうかもしれない。
だが三ツ木などはこの展開、最後の直線が不安でならない。
(もつのか……)
後ろの馬との差は、確実に狭まってきていた。
そもそもメルボルンカップでは、逃げ馬が勝った例というのは、あまりないのだ。
最後の長い直線、残り100mぐらいで捉えられる。
そういうパターンが多いのが、欧州のステイヤーの脚質である。
それはそうだなと優姫は分かっている。
だが欧州からの参戦馬だと、芝の適性が変わってくる。
そして最後に坂がなければ、モーダショーの脚は最後までもつだろう。
最後の直線に入った時点で、まだ7馬身ほどの差があった。
果たしてこれがセーフティリードなのか、それはモーダショーの脚が最後まで、粘れるかにかかっている。
絶対的なスピードにしても、札幌記念でレコード決着で僅差負け。
スピードの最高値では勝負しない。
スタミナで最後まで、このペースを維持し続けるのだ。
残り1ハロン。
200mとなったところで、まだ5馬身差もある。
セーフティリードかと思ったら、後ろから差しの馬が飛び出してくる。
徐々にその差が縮まって、モーダショーに迫ってくる。
そもそも事前の人気にしても、モーダショーは一番というわけでもなかった。
ヨーロッパで4000mを走るような馬が、このレースに参戦しているのである。
果たしてどちらが正しいのか。
優姫は参戦する馬の実績や斤量、持ち時計を計算していた。
だがヨーロッパでのタイムは、あまり参考にならない。
また2400までしか走っていない馬なども、ダークホースになる可能性はあった。
そのあたりは完全に、勝てるなどと思っていたわけではない。
ここまで正確にラップを刻んできて、まだ脚が残っている。
それがモーダショーという馬であった。
ゴールが近づいてくるに従い、後ろからも気配が近づいてくる。
モーダショーはここで加速は出来ないが、脚が衰えることはない。
残り50mあれば追い越される。
そう思ったところが、半馬身差のゴールであった。
メルボルンカップの副賞は、純金製のトロフィー。
これだけでもかなりの金額になる、と言われているものだ。
「すげー! 海外GⅠ勝っちゃったよ。これは追加でボーナス払わないとな!」
「いや社長、それは競馬法違反になりますから」
「え、マジで? なんで? 海外だしいいんじゃね?」
「いやいや、正式な進上金以外を渡すと、他のオーナーの馬に乗った時にうちの馬には負けろとか、そういう八百長につながる可能性があるんで」
「は~、確かにそうか」
そうなのである。
「だけどうちのいい馬に乗せてやるから、他の馬では負けろとか言われたら、金銭を介さない不正にならないか?」
「社長、馬が本当に走るかどうかなんて、分かるものじゃありません」
まあクラブの実質的な専属、ともなれば話は変わるのだろうが。
そういう場合は囲い込みに近いことは、確かに行われる。
日本に帰れば祝勝パーティーをする。
また消え物の贈呈品を送る、などというのが一般的だ。
ただジョッキーにとって一番の報酬は、続いていく騎乗依頼。
勝てる馬にまた乗せてもらうことこそが、最大の報酬なのである。
そんな際どいことが言われていたが、優姫には関係のないことである。
その日の夜のパーティーは、盛大なものが行われた。
優姫はここから、少し体重を増やしていく。
現時点で49kgと、女性の斤量特典を考慮しても、充分にほとんどのレースには乗れる。
だがあと500gほど、筋肉を増やしたい。
メルボルンカップの後も、お祭り騒ぎはしばらく続く。
土曜日までがカーニバルなのだが、優姫はさっさと飛行機に乗り込んでいた。
オーナーは社交などがあるのだろうが、優姫の次はエリザベス女王杯。
クワノシャクティにまた、乗せてもらえるようになっている。
ただ優姫としてはその前の、2歳重賞の方が重要であったりするのだが。
日本に戻ってくれば、空港からマスコミが待っていた。
日本馬の海外GⅠ制覇というのも大きいが、優姫の海外GⅠ初挑戦で初勝利、という面の方がニュースになりやすい。
メルボルンカップは、確かに派手なレースではある。
だが種牡馬選定においては、あまり意味がないはず。
ただかなりの斤量を負ったモーダショーが、それでも勝ったのは、パワーの証明であると言えただろう。
記者会見というのも、JRAが用意してくれた。
そこでマスコミが色々と聞いてくるが、優姫としては勝てるレースと思って、それに勝ったのみである。
ハンデ戦というのも、微妙な評価軸となった。
だが半馬身差で3200mを勝利というのは、かなりハンデキャッパーも有能であったのだろう。
もう一度挑戦したら、おそらくさらに重い斤量で、敗北するんだろうと思えた。
モーダショーはこれで、今年のレースはあと、香港ヴァーズを残すのみである。
本当ならばここから、有馬記念に出てほしいのが、JRAなどであろうが。
海外GⅠを勝った馬が、次にどこを走るか。
現在4歳のモーダショーには、まだ引退の声は出ていない。
ステイヤーであるために、ここまでの勝ち鞍では、ブランドとしてまだ薄いのだ。
だがこれまで一度も、掲示板を外していないという安定感。
既に需要自体は、それなりにあると思われる。
ここからはヴァリアントロアで、ジャパンカップと有馬記念を、どうやって戦っていくのか。
それが優姫の今年の、競馬の見どころである。
だが2歳馬もまた、朝日杯やホープフルSを狙っている。
3歳が本番と考える日本の競馬。
オーストラリアは2歳で終わるが、日本換算なら皐月賞かダービーで、エリートは引退という路線になっている。
オーストラリアのスピード競馬は、ある程度体験した。
これは日本のクラシックには、合わないだろうなというのが優姫の感想。
そのオーストラリア血統を、母に強く持っているのがアシュレイリンク。
果たして2400mのジャパンカップで走れるのか。
かなり疑問が残る血統なのだ、と今更ながら思うのだった。




