第92話 秋の盾
今年の秋の天皇賞は、とんでもない面子になっている。
大阪杯勝ち馬フォーリアナイト、宝塚記念勝ち馬ボーンクラッシャー。
フォーリアナイトはシルバーコレクター脱却で、ボーンクラッシャーは菊の上位入着から春天も好走し、宝塚記念に勝利。
ダービー馬メテオスカーレットは脚部不安で、ジャパンカップ直行と言われているが、この2頭の4歳馬がまず強い。
思えば皐月賞馬シュガーホワイトも、菊花賞馬モーダショーも、クラシック勝ち馬は全員出ていないことになる。
もちろん他にもGⅠ馬でこそないが、複数の重賞を勝った馬が出てくる。
3歳馬はまず、ヴァリアントロア。
ここまでGⅠ3勝の、マイルから中距離の王者と思われている。
そして皐月賞こそ負けたものの、ダービーを制したマジックマイスター。
ダービー3着までのパワーズスターとアトランティックも、賞金を積んでこの秋天に出走してきている。
層が薄くなった菊花賞ではなく、この数年では最高の層の厚さとなった、秋天を選んできたその意思。
距離さえもてば菊花賞を勝てていたであろう、という馬が少なくない。
昨今は確かに、皐月賞とダービーを勝っていなければ、三冠目の菊花賞はわざわざ狙わない、という陣営もいる。
しかし種牡馬価値とか、将来性などというのは引退後の話。
普通に考えればクラシック最後の菊花賞を選ぶべきだ。
それなのに天皇賞を選んだのは、やはり距離に不安があったからである。
有力どころがいなくなったので、優姫も勝てるかもとは思ったのだが。
そもそもの菊花賞馬に種牡馬価値がない、という論調は最近、薄くなってきてもいる。
夏場はレースに使わなかった分、本当にロアは強くなった。
カリカリしなくなった、とも言えるだろうか。
優姫のお手馬はどの子も、少しずつ精神的に成長している。
モーダショーもオーストラリアで、かなりリラックスはしている。
だがブクブク太ることはなく現地にて、しっかりと毎日歩いてはいるのだ。
最終追い切りでも、優姫はあまり時計を出さなかった。
あまり追い込んでおくと、本番でスタートからダッシュしてしまう、というのがヴァリアントロアの性向なのだ。
枠も決まったが、やや外寄りの枠。
外枠は絶対不利の秋天であるが、ヴァリアントロアの脚質や戦法を考えると、比較的どうにかなったりする。
この年の秋、優姫はヴァリアントロアで、秋古馬三冠路線に挑むつもりだ。
去年はちょうど、フォーリアナイトが走った路線である。
全て2着であったフォーリアナイトは、今思えばすごいのだ。
そもそもこのタフな秋古馬三冠は、完走するだけでも難しい。
以前よりはさらに、中一週空くような日程にはなった。
それでもレース一回あたり、消耗度が違うようになってきたのだから。
東京競馬場2000m。
枠が決まっておおよそ、マークを薄くしていい馬が出てきた。
おそらく一番のライバルだ、と優姫が思っていたフォーリアナイト。
これが大外とまでは言わないが、16番となったのである。
府中の2000というのは実のところ、相当に実力差がそのまま出るコースなのだ。
ただしフルゲートになり、実力が拮抗する秋天であると、途端に外枠が不利になる。
フォーリアナイトは追い込み、あるいは最後のぎりぎりで差す馬だ。
なので本来ならば、外からでもいいはず。
しかし秋天の場合はさすがに、位置取りをしていかないと勝てない。
16番なので、完全に無理とまでは言えない。
だが警戒する順番は、かなり後回しになる。
これまた追い込み馬のメテオスカーレットまでいたら、ものすごくややこしい話になっていたであろう。
ヴァリアントロアは脚質と気性的に、最初から内に入れてしまう必要がある。
おそらく厳しい勝負になるだろうが、東京の最後の直線。
中山に比べたら長いだけに、後ろから差し切られてしまう可能性もある。
「まあ作戦は全部、あんたに任せるよ」
「任された」
千草との会話は、こんなものである。
モーダショーは三ツ木厩舎の馬。
それに付き合って、オーストラリアと香港を走る。
この香港を走ることによって、阪神JFには乗れないことになる。
ここは優姫としても痛いところだが、牝馬の2歳GⅠは、それほど重要なものでもない。
牝馬限定の重賞を勝てば、そのまま桜花賞には出られる。
今年は白雪の馬が入っているので、出来ればそれで勝ち上がりたい。
しかしまだ未勝利なのである。
シュガーホワイトの全妹であるが、父親に似てやや晩成傾向だ。
モーダショーが渡航、ヴァリアントロアも送り出し。
栗東の忙しさが、少しだけなくなった気がした。
もちろん厩舎には20頭以上の馬がいて、次のレースに使われるのを待っている。
秋天の翌週は、メルボルンカップに出るために、優姫が日本の週末に乗ることが出来ない。
千草としては出来ればその間に、優姫に乗っていてもらいたい、という馬もいたのだが。
なんならラインで、長谷川に乗ってもらってもいいのだし、条件戦ならこれまたラインの女性騎手がいる。
それでも他のジョッキーと、優姫は違うのだ。
長年馬に携わってきた千草だが、優姫に関してはそう思う。
さほど馬に馴染みのある環境、というところが出身でもないのに。
近江八幡であるならば、栗東だけではなく、乗馬クラブはあるはずなのだ。
そこで乗ったのは競馬学校に入る前、一度きりであったという。
才能、の一言で済ましてしまっていいものではなかろう。
彼女は馬に近すぎるのだから。
金曜日、優姫は府中の調整ルームに入る。
ダービーほどではないが、やはり関東のGⅠであると、ぴりぴりした雰囲気を感じさせる。
今回の秋天と、それに続くジャパンカップは、とんでもないレーティングになると考えられている。
特にジャパンカップは、海外馬もしっかりと参戦してくれる。
やはりヨーロッパからすると、古馬ならば送りやすいレースになった、ということであろう。
現在の優姫は、リーディングのトップを走っている。
また獲得賞金額や、勝率においてもトップ。
もっとも勝ち鞍と勝率は、条件戦で稼げるところが大きいのだ。
そして少し気にしているのは、秋口からはまだ、重賞を一つしか勝っていないことだ。
ローズSの一勝のみで、あとは好走していても1着がない。
上半期で勝ちすぎた、ということはあるだろう。
それだけ特に重賞になると、マークされていても当然だ。
優姫としては秋天は、どうしても勝っておきたい八大競走の一つ。
皐月賞、菊花賞、オークス、春天。
三年目で四つを制覇というのは、歴代でもないペースである。
だがダービーを勝てていない。
ホースマンにとっては、やはりダービーが特別なのである。
賞金自体はジャパンカップや有馬記念に次ぐ、三番手となっている。
しかし名誉という意味では、一番高いと言ってもいいだろう。
個人的に優姫は、八大競走の中でも、ダービーと有馬記念、そして春の天皇賞の格が高いと思っている。
あとはそれ以外からなら、ジャパンカップである。
もっとも格が高くても、そこを勝てる馬を作るか、というと微妙なのだが。
生産は長距離でも走れる馬、を作るべきだ。
スピードはあった上で、距離もこなせるというものである。
短距離の馬ばかりを作っていると、距離がもたなくなってしまう。
どうも欧米ではスピードのある馬に、スタミナは無駄だ、という極端な思考が入っているような気もする。
昔は4000mぐらいを走るのが普通であったので、今後も長距離が完全に消えるなら、それには合わせていく必要があるだろうが。
土曜日に優姫は、10レースに騎乗する。
ここで三つも勝ち鞍を得て、リーディングの首位をさらに確固としたものとする。
メルボルンカップと香港で、乗れないレースが出てくるのだ。
その分を勝っておきたい、というのは本心である。
海外でも乗鞍が用意されるのなら、それはありがたいことである。
だが童顔で少女にしか見えない日本人女性が、現地で使われることは諦めておいた方がいい。
今年のジャパンカップの海外招待馬は、どうやら2頭になりそうである。
東京2400で外国馬が勝てなくなったのは、21世紀になってからの話だ。
だがそれ以前から、もう90年代後半には、その傾向が見えてきていた。
もちろん時々、参戦して勝ってくる怪物はいる。
だが欧州馬のクラシックディスタンスを走れる馬は、香港を走ることが多いのだ。
世界的に見れば競馬は、最強馬の激突ではなくなっている。
繁殖の質を高めるためであるが、種牡馬ビジネスが過熱しすぎて、結果が出たら3歳で引退させるのだ。
ダービーと凱旋門賞を勝っていれば、それ以上の勝利は必要ではない。
わずかな賞金と引き換えに、敗北のリスクを抱えるのは、種牡馬としての期待値を下げてしまうこととなる。
5戦しか走っていなくても、そのパフォーマンスがあれば充分。
日本のようなブランド価値が、重視されていないのだ。
ドゥラメンテはアメリカやヨーロッパなら、復帰を目指させずに種牡馬入りさせていただろう、とも言われる。
クレーミングレースの存在で、アメリカはそのあたり、馬の底力や血統の多様性が維持されていると言えるかもしれない。
日本で言うならば、芝とダート、あるいは中央と地方である程度、分かれているのに似ている。
ヨーロッパの競馬の衰退を、笑うことが出来る人間は、競馬関係者にはまずいない。
血統の輸入という点では、世界中の馬と互恵関係にあるからだ。
ジャパンカップで惨敗していた時代から、日本にとって海外というのは、克服しようとする対象ではあっても、別に敵ではないのだから。
土曜日のレースが終わって、関西からこの日に、府中に合流するジョッキーもいる。
比較的若手であれば、前日には自分の庭で乗って、日曜日にGⅠのために移動してくるというのは、別に珍しいことではない。
そのあたり優姫は、持続的な体力ではやはり、男性には勝てないなと思う。
だが勝つべきレースにさえ、勝てばいいのである。
秋の天皇賞の朝である。
女性用区画には他に、二人ほどしかいない静寂。
早朝から馬場をチェックするが、今日は雨も降らない。
ヴァリアントロアはどちらかというと小柄だが、あまり道悪も気にしない。
顔に土などがかかっても、むしろそこから怒り狂うタイプ。
だからこそ前に馬を置く、という作戦が成立するのだが。
府中の芝2000m。
マイラーでもどうにか、挑むことが出来るかも、という距離限界。
最後の直線の坂と長さが、馬の能力をそのまま区別する。
1番人気が飛びやすい、などと言われた過去のこともある。
事前の売り上げでは、ヴァリアントロアが1番人気。
だが他の馬もあまり、差がないのだ。
フォーリアナイトの五十嵐、ボーンクラッシャーの松川。
そしてマジックマイスターのリード。
このあたりのリーディング上位勢が、ちゃんと有力馬に乗っている。
(おそらくほとんどの馬は、ジャパンカップまで)
あるいは秋天から、ジャパンカップを飛ばして、有馬記念に出るか。
有馬記念も比較的、人気通りの決着にならなかったりする。
おそらくここで消耗して、ジャパンカップを飛ばすという馬もいるはずだ。
そのあたりのことを考えれば、やはり3歳馬は菊花賞に進むべきではなかったか。
もちろんその判断を、優姫がどうこう出来るわけもない。
優姫自身はワカフリートで、菊花賞に参戦した。
だがヴァリアントロアで菊花賞、というのは全く選択肢にも浮かばなかった。
気性が改善すれば、2400mを走れるだろうとは思っていた。
だが同じ2400mでも、競馬場によって向き不向きは変わってくる。
日本の競馬だけを知っている人間が、ヨーロッパの大レースの決着タイム(※)を見れば、今のヨーロッパははるかに日本より劣る、などと誤解するようなものだ。
距離だけでは分からないし、同じ馬でも成長して適性が変わる、というのはよくあることなのだ。
気性面ではフランケルやロードカナロアが、距離延長に成功した例だろう。
ヴァリアントロアもそうだ、と優姫は感じられている。
秋天から中四週で、ジャパンカップへ。
これまでにも多くの馬がたどったルートだが、ジャパンカップで燃え尽きて有馬は凡走したり、回避したりした馬もいる。
そう考えるとモーダショーには、予備としていてほしかった。
だがヴァリアントロアが無理になったから、モーダショーを寄越せは無理がある。
また有馬記念はどうも、モーダショーには向いていない。
去年はジャパンカップと同じく、3着という結果は同様に見える。
だが実際に走ってみて、優姫は感じたのだ。
小回りの中山は、やはりモーダショーには向いていない。
それならばまだモーダショーをジャパンカップに、ヴァリアントロアを有馬にという使い分けの方が、適性としては正しい。
ヴァリアントロアは小回りでも、しっかりとコーナリングが出来るのだから。
この日も優姫は、秋天までに6レースに乗っている。
最終レースには予定を入れず、GⅠに全力を出す予定である。
ジャパンカップは例外的に、その日の最終レース。
なのであちらは本当に、全力を使い切って乗ることが出来る。
いよいよGⅠのパドック。
どの馬もしっかりと仕上がっているが、ヴァリアントロアも問題ない。
安田記念を勝ってから、どうも気性が落ち着いたという気はしている。
おそらく古馬の流れの中で、戦ったのがいい経験になっているのだろう。
サラブレッドはその生涯で、それほど多くのレースを走るわけではない。
一流馬なら多くても15レース程度で、あるいは10レースもせずに引退する馬も多い。
特に近年は、1レースでの馬にかかる負担が大きすぎる。
そういう点では少し前だが、生涯に7歳まで50レースも走り、最後の最後にGⅠを勝ったステイゴールドは、本当に非常識ではある。
ヴァリアントロアも、そのステイゴールドの曾孫である。
小柄なことが逆に幸いしてか、ここまで故障らしい故障はない。
古馬混合2レース目となる、この秋天。
パドックを回る、他の馬に対しても、変に好戦的にはなっていない。
「仕上がりはいいよ。落ち着いている」
厩務員の北川は、さすがに熟練の技でもって、ここまでの状態を保ってくれた。
本日のヴァリアントロアのレースには、オーナー側からは社長とその夫人がやってきている。
千草はそれに付き添って、色々と説明をしていた。
「勝てそうかい?」
「勝ちましょう」
社長の問いかけに対して、優姫はそう応じる。
正直なところここまで、相手が強い馬が揃ったレースは、今までになかったと思うのだが。
おそらくはヴァリアントロアは、これまででも最高の状態。
だがそれをもってしても、必勝などとは言えない。
そういったレースでこそ、ジョッキーの力が問われる。
「ロア君、今日もゆっくりと行こうか」
優姫は落ち着いた声で、ヴァリアントロアの耳元で囁く。
馬場に入場して、返し馬に走っていく。
筋肉の躍動が、背中からはっきりと感じられた。
※ 決着タイム
現在の日本でも、コースによって決着タイムは違う。
ただ一番有名な府中の2400mでは、2分20秒から24秒ぐらいが近年の平均である。
これを欧州の2400mに当てはめると、ものすごく遅い競馬になるのは確かだが、実はあちらは正確には2400mでなかったりするので、そこは本当にややこしい。
もっとも欧州競馬では、タイムが出にくいのは本当である。
パワーのある馬場でスタミナを削っていて、しかも最後の脚を残さないといけないというレースなのである。




