第91話 17歳の女王
優姫がGⅠを制したのは、19歳と約一ヶ月である。
これ以上に若いGⅠ制覇は、もう出てこないのではないか、とも言われていた。
確かにそもそも、一年目から強い馬に乗るのが難しい。
あとは誕生日の関係で、最年少記録はどうしても変わる。
だが天音が勝ったのは、競馬学校ではなく養成センターの卒業一年目。
誕生日が12月の天音としては、17歳の戴冠であった。
もっともGⅠではなく、GⅠ級勝利という、微妙な注釈は必要であったが。
数多くの偶然が、上手く噛み合ったものである。
だが一つ確実なことは、天音とアシュレイリンクだけでは、ここまでの道筋を立てることは出来なかった。
そもそもこの二者が出会った、という時点でかなりの奇跡なのだが。
伝説が作られる時には、そういう奇跡があるものだ。
大規模な祝勝会はまた今度改めて、ということで内輪だけで祝う。
道営からアシュレイリンクと共にやってきたのは、天音と厩務員が一人のみ。
ただ地方の競馬においては、普通なら一人の厩務員が、3~5頭ほどは受け持つものだ。
それだけアシュレイリンクが、期待されている馬だったということはある。
調教師の秋藤も、さすがにこのレースだけは、現地に来て見ていたが。
道営はこれから忙しいシーズンになる。
レースがなくなる季節はむしろ、1歳馬を馴致から育成していくシーズン。
天音はそれを手伝わなくていいのか、という気持ちはある。
だが秋藤も彼女には、次のステージに進むように期待しているのだ。
(凄かった……)
マスコミ対策をしっかりと教えられるのは、フィギュアの強化選手合宿でも重要なものであった。
競馬マスコミというとどうも、怪しげな感じがするかもしれない。
だがアシュレイリンクの周りは、持ち上げることはあってもどこか、足を引っ張るような感じが全くしない。
「オグリキャップの威光だな」
どこを見てもオグリ、オグリ、オグリ。
「勝ったのはリンクなんだけどな」
酒を飲んで潰れている者もいる中、未成年の天音は厩舎を訪れる。
うつらうつらと眠っていた馬たち。
その中にはリンクもいて、レースの終わった後にはすぐ、故障がないかも確認したものだ。
あれだけのパワーがあって、脚へのダメージがない。
それが一番喜ばしいことである。
脚が曲がっているというのはそれだけ、故障の確率は高くなる。
これでも生まれた時よりは、ずっと改善されたのだ。
そのあたりもやはり、オグリキャップだと言われるのだが。
「次はジャパンカップで」
優姫はそう言って、タクシーで去っていった。
明日の朝にも調教を付けるのだ、と栗東への移動である。
地方競馬とはそれが違う。
道営にしても大井にしても、居住区と競馬場に、そこまでの距離がない。
北海道で門別から、函館や札幌に行くことさえ、それなりの距離があった。
だが優姫は栗東から、関東までやってきて乗っていたのだ。
GⅠのシーズンともなれば、それが毎週のように行われる。
北海道で乗っていたのは、むしろ距離は近い。
北海道の距離感だとおかしくなるが、栗東から京都でさえも、ある程度は時間がかかるのだ。
これから優姫は、秋天をヴァリアントロアで戦うと宣言していた。
2000mは皐月賞で制した距離ではある。
だがそれは、唯一敗北した距離でもあるのだ。
(中央に移籍したら、私も……)
来年の試験に合格すれば、再来年からは中央のジョッキーとなる。
秋藤などはそれを、応援してくれている。
戦うはずの立場の優姫さえ、それを望んでいた。
ジョッキーとしての優姫は仮の姿。
将来的には生産をする、というのが彼女の言葉であった。
今の立場はあくまで、過程に至る道に過ぎない。
そう言い切れてしまうところに、彼女の強さがあるのだろう。
だがどこか、危ういものも感じないではない。
翌日の新聞を見れば、自分の成したことが分かる。
もちろんネットニュースの即時性で、大きな話題にはなっていたものだ。
だがこうやって紙の刊行物にまでなっている。
形に残って、ずっと記録されるのだ。
これまでのレースでも、大きく取り上げられていた。
しかし次のレースはジャパンカップ、とはっきり書かれているのだ。
2400mという初めての距離。
優姫はモーダショーではなく、ヴァリアントロアで挑むという。
だがその前に秋天を、あちらは走るのだ。
そして有馬記念まで、秋古馬三冠を、3歳馬に走らせる。
去年のモーダショーも、秋天ではなく菊花賞だった以外は、同じルートをたどっている。
しかし最近ではこのレースは、三つ全てを走るのは、強度が高すぎるとも言われているのだ。
かつての地方競馬は、毎週のように走っている馬もいた、という。
今でも地方の低いクラスは、数を走って出走金を稼いではいるのだが。
強い馬はしっかりと仕上げて、狙ったレースを勝ちにいく。
そう考えるとやはり、1頭の馬が複数のGⅡを勝利するのは、減ってくるのだ。
3歳のクラシックまでは、それなりにあることではあったが。
最近はトライアルすら使わない馬が、本当に増えてきている。
ソウルハンターの敗戦。
ある程度は覚悟はしていたが、あんなレースになるとは思っていなかった。
砂のディープインパクト。
これがヴァリアントロアなら、サイアーラインこそステイゴールド系だが、ディープインパクトの血もカネヒキリの血も引いている。
サンデーマシマシの血統構成。
それでも気性難は、夏の間に改善されてきたが。
アシュレイリンクの血統も、サンデーサイレンス系であるのは間違いない。
だがハーツクライから続くこの血統は、本来なら前で競馬をするのに向いている。
今回の場合はペースの関係でこうなったに過ぎない。
ヴァリアントロアも出来れば先行からの差し、という競馬をやりたいのは優姫も同じだ。
しかし馬の気性はどうにも難しく、少しずつ慣らしてきたところである。
他に乗れる人間が少ない。
そのためヴァリアントロアの調教は、トレセンで重点的に行っている。
「それにしても今年のジャパンカップは、本当にえげつないな」
去年はそれなりに強い外国馬が来ていた。
今年もいないわけではないが、日本の馬場に適しているかは分からない。
アイルランドダービーの勝ち馬や、キングジョージの勝ち馬。
そしてオークスの勝ち馬や、アメリカの芝馬も来ているのだ。
ただ今年は国内の陣営がすごい。
ヴァリアントロアの他に、3歳ではダービーを制したマジックマイスター。
パワーズスターにアトランティックと、距離が伸びて強い馬が入ってくる。
古馬に関してもフォーリアナイトにボーンクラッシャーの中長距離が2頭。
牝馬が入っていないのが、幸いと言うべきであろうか。
今年は牡馬が強すぎると見て、古馬の牝馬はエリザベス女王杯などに照準を合わせている。
ただマイルCSに関しては、ファムダンサントが蹂躙するのでは、などと言われている。
3歳牝馬にして、マイルの女王。
だが他にも晩成のマイラーが、出てくる可能性はあるだろう。
3歳馬の祭典とも言われるクラシック。
しかし今年の牡馬クラシックは、菊花賞がどうにも盛り上がりそうにない。
秋天のメンバーを見れば、菊花賞を狙った方がいいのでは、と思うぐらいの圧倒的な層の厚さ。
それなのに上位が秋天に行くのは、ヴァリアントロアがダービーに出ず、安田記念から秋天というルートをたどったこともあるだろう。
(意外と今年も、菊花賞勝てるかな?)
後に最弱面子の菊花賞、などと言われるかもしれない。
だが賞金は変わらないのである。
世間の注目は、アシュレイリンクと天音に集まっている。
三年目の女性騎手が、総合リーディングを取ろうかという、とんでもない事態にJRAもなっているのだが。
ただこの人気を、JRAに引き込みたい、という判断は普通にあった。
このあたりJRAは国の管轄下にはあるが、かなり柔軟な組織ではある。
やはり収益が増えるのは望ましいのだ。
全体的に見たら、国民がギャンブルに興じるのは、悪いことだと判断されるだろう。
だが幻想に金を使うという点では、他の興行とも変わらない。
秋のクラシックは、優姫もあまり勝てなかった。
秋華賞で3着、菊花賞で4着という結果。
もちろんこれも立派なものであり、リーディングも首位を走っている。
ただこの間の優姫は、とても忙しいことになっていた。
モーダショーは検疫(※)の関係で、先にオーストラリアに向かっている。
そして平日にモーダショーでオーストラリアのコースを走るため、オーストラリアを何度も行き来することになったのだ。
土日は日本に戻ってきて、レースに出る。
そこからオーストラリアに行き最終調整を行う。
秋天が終われば翌週はレースには乗れず、向こうのパレードなどにも参加しなければいけない。
だが人間はまだマシである。
馬の方は検疫のため、隔離の時間が長いのだ。
オーストラリアに来てみると、やはり競馬といっても質が違うのが分かる。
短距離ばかりを走らせるのが、オーストラリアの基本。
ただメルボルンカップ以外にも、長距離のレースはあったりする。
だがそのレースは欧州のステイヤーの草刈り場か、欧州で必要とされなくなったステイヤーが買い取られて出走する、というものになっているのだ。
日本の菊花賞と、春天を勝っている馬は、それなりのハンデを背負う。
モーダショーの場合は56.5kgを背負うこととなった。
これは菊と春天を勝ち、ジャパンカップでも3着に入っていることを考えると、妥当なところであると言えるだろう。
ただ優姫としては、これで充分だと思う。
「思えば遠くにきたもんだ……」
そんなことを呟いているのは、調教師の三ツ木である。
まさかこの年齢になって、また海外遠征をするとは思っていなかったのだろう。
オーストラリアの芝は、洋芝である。
だが本場のヨーロッパに比べれば、ずっと日本の馬場に近い。
札幌を走ったことは無駄ではなかった。
ただ問題になるとすれば、やはり斤量であろうか。
(それでもやっぱり、削っていく勝負になるかな)
モーダショーには向いている。
ロングスパートで相手のスタミナを削れるか、それが重要になるだろう。
乗せてもらえる馬が多い。
天音はJDC以来、騎乗依頼が増えていた。
そして女性の斤量特典と、若手の斤量特典で、条件戦なら3kgも軽く乗れるのだ。
その結果として勝ち星が、60勝を超えている。
このまま最後まで乗せてもらえるなら、80勝ぐらいには届くのではないか。
一年目にして進上金などの収入が、2000万円を超えている。
もちろんその中から、経費はかなりかかっているが。
フィギュアをしていた頃、金は出ていくばかりであった。
だが馬に乗っていれば、こうやって大きな収入になってくる。
(不思議な気分……)
周囲に騒がれることには慣れている。
ただフィギュア時代も、ここまで騒がれているものではなかったが。
場所が変わっただけで、金銭が出ていくのか入ってくるのかが違う。
氷の上と、砂の上。
戦う舞台は変わったが、メンタルの方はレースごとに、これは自分の滑走だと考えて騎乗している。
東京に戻ってきて、また会いに来てくれた人間もいる。
競馬の世界とフィギュアの世界は、かなり違うものであるだろうに。
もっとも日本ではギャンブル、大衆娯楽の側面が大きな競馬は、欧米では上流階級のものであったりもする。
なので海外であれば、それなりにスポンサーの層も同じなのかもしれない。
そう、スポンサーだ。
道営の頃にはなかったが、イメージキャラクターとしてスポンサーになってくれるという企業も出てきた。
これがあの頃にあれば、と思わないでもない。
しかしあの言葉は正しかったのだ。
「今までやってきたことは、必ず無駄にはならない……」
そう呟いて天音は、今日も馬に乗る。
優姫を相手に二連勝。
条件戦なども含めれば、ジョッキーとしての対決だけなら、ずっと勝ち越している。
だが優姫は今年、オーストラリアでレースに乗る。
オーストラリアではそのレースのために、国が休日になるという大レース。
そんなレースに乗ることを、もう許されている存在なのだ。
レースには勝っても、本当に勝ったのだという実感がない。
勝ったのはあくまでも、馬の力である。
それは正しいが、完全に正しいわけでもない。
「また馬が回ってきたぞ」
「はい」
今の天音が預かってもらっているのは、秋藤とも馴染の春田厩舎。
なんでも秋藤が騎手であった頃、同期で養成センターにいたのだという。
競馬の世界は本当に、人脈の世界である。
もっとも天音の場合、乗る馬のオーナーがフィギュア時代、他の選手の保護者であったり、あるいは顔見知りであったりした。
選手や騎手としては、同じように自分の力を尽くす。
しかし選手や馬を支援しているのは、そういった富裕層ではあるのだ。
現在は海外で、復活のために働いている父。
父もひょっとしたら、馬主に誘われたことなどもあったのではないか。
競馬村の人間ではなかった。
だがオーナー層とつながっているという、そういう関係性はあった。
天音がフィギュアの選手で、怪我で引退したということは、そのあたりでは知られている。
ならばうちの馬に乗ってみないか、と大井にきてからは特に言われるのだ。
道営よりもむしろ、営業活動が必要ないぐらいだ。
南関の四競馬場は、地方の中でも別格と言われる。
確かに道営と比べると、まずレースにおける観客の数が違う。
ナイター競馬であると、普通に数万人は入ってくる。
この間のJDCのようなものは、さすがに例外的な数だが。
(私は、まだ恵まれている?)
そうも思った。
運が良かったのだ。
地方競馬の中でも特殊な、道営に引き取ってもらったこと。
賞金の高さなどの待遇では、南関の方が良かった。
しかし道営では、2歳のレースを何度も体験した。
そして馬主が直接に、牧場を見に来たついでに寄ってきたりもした。
そこである程度の顔つなぎも出来た。
もちろん実力もあった。
斤量の特典があっても、女性であったとしても、一年目からここまで勝てるのは珍しい。
特に天音の場合は、2歳馬の背中に乗っても、あまり暴れられないという特性があった。
バランス感覚によって、馬を不快にさせないというものである。
難しい馬を任されて、それを一年目の少女が乗りこなす。
これはかなり特殊なものである。
栄光に包まれていると、憎しみが失われていく。
元々憎しみと言うには、かなり無理があるものだったのだが。
優姫は彼女の出来ること、やりたいことのためにやっているだけ。
同じ世界に来て、それがとても大変であると、もう分かっている。
そして数万人の観衆の前で、数百万の視聴者に見られ、大レースに勝っているということ。
「ジャパンカップ……」
現在の日本において、ほぼ毎年最高のレーティングが記録される舞台。
そこが彼女との、選ばれた対決の場となるはずだ。
※ 検疫と日程
現在の日程では実は、メルボルンカップに出る場合秋天の開催と重なり、両方に騎乗することは出来ない。
だが昨今はGⅠ競走への出走が、ステップレースを使わず直行する傾向にある。
そのため秋天などの開催が、一週間早まっているという設定となっている。




