第60話 乙女たちの春
クラシックの最初の第一冠は、牝馬クラシックの最初である桜花賞。
旧八大競走の時代から存在する、由緒正しき重賞である。
本場イギリスの場合は、最初は牡馬もマイルの2000ギニーから始まるが、日本の場合は皐月賞が2000mから始まる。
それに比べると牝馬は、元のように1600mのマイル戦から始まって、オークスはイギリスと同じ2400m。
さらに言えば元は、秋の最後の一冠は、牡馬と同じ菊花賞であったのだ。
本場イギリスでは今も、牝馬クラシックの最後は、セントレジャー(※1)の3000mである。
さすがに牝馬の負担斤量は、牡馬よりも軽くなっているが。
日本もかつては、牝馬が菊花賞に勝ったことはあるのだ。
史上最強と名高いクリフジは、クラシックレースを大差勝ちしている、日本競馬史上最強牝馬であり、傑出度合いではアーモンドアイをも上回る。
さすがに時代が違ったため、一頭だけが傑出していただけなのだ、という捉え方をすべきであろう。
その後にも菊花賞を勝った牝馬はいるし、菊花賞に挑戦した牝馬ならばさらに多い。
イギリスの場合は歴史が長いということもあるが、セントレジャーを勝って牝馬三冠を達成した優駿が、それなりにいたりする。
オーソ―シャープ以降は出てきていないどころか、牡馬のクラシック三冠さえも、ニジンスキー以来は出ていないのだが。
ちなみに歴史だけを言うなら、セントレジャーはダービーよりも長い。
だから最も強い馬が勝つ、と言われているのかもしれない。
日本の場合は牝馬は弱くて当たり前と考えたのか、エリザベス女王杯や秋華賞が作られていった。
距離も3000mなどは走らないため、比較的牡馬三冠よりも達成している馬は出やすい。
現在の体系になったのは1996年から。
その短い期間で、牡馬の三冠馬と同じぐらいには、達成した優駿が出ている。
日本の牝馬三冠は、適性という点を考えるならば、牡馬三冠よりも簡単であろう。
また各国の三冠競走と比較するなら、フランスが一番近いだろうか。
もっともヨーロッパは、各国のレースのための往来が盛んであった。
そのためむしろ狙うことは簡単でも、他のもっと重要なレースに出す、というのが一般的になっている。
大阪杯の熱闘の翌週である。
阪神競馬場で行われる桜花賞に、優姫はミニョンフルールで参戦していた。
この牝馬は血統的には、アメリカ血統とヨーロッパ血統を強く持っている。
父はミスタープロスペクターの4×5を持っていて、自身はダンジグの4×5とノーザンダンサーの5×5、そしてアンブライドルドの4×5を持っているというもの。
スピードの結晶であるミスタープロスペクターのラインは、サイアーライン以外に三本入っている。
だが優姫が見る限りスタミナもあるのは、母母父のガリレオ由来であろうか。
ノーザンダンサーも四本入っていて、上手くパワーやスタミナが配合されていると考えていいのか。
(血統の閉塞かなあ)
だがサンデーのラインはハーツクライ系が一本だけであるので、今の日本の種牡馬の多くとは、どうにか配合できそうだ。
優姫がこの週の桜花賞で危険視しているのは一頭だけである。
ファムダンサント。昨年の阪神ジュベナイルフィリーズの勝ち馬で、コースレコードを更新した。
つまりコテコテのマイラーであり、既にGⅠを勝っているわけである。
ミニョンフルールもチューリップ賞を好走しているので、適性がないわけではない。
だがあちらは五代の輸入した、アメリカの速い血統をやや母系に持ち、欧州のスピード血統を付けたというもの。
スタミナはともかく、ものすごいキレがあるのは過去のレースで分かっている。
桜花賞は比較的、外枠の不利があまりない。
あとは馬場がどうなっているか、というのが気になるところだ。
しかしここのところは晴天続きで、馬場は良。
やや外枠寄りのファムダンサントは、おそらくキレだけで勝負してくるだろうし、それで通じてしまうだろう。
対するミニョンフルールは、包まれやすい内側の枠。
スタートの前からやや、不利な条件となっている。
だがミニョンフルールの脚質を考えれば、果たしてどういうレースになるのか。
3戦3勝というのは、朝日杯までのヴァリアントロアと一緒だ。
距離の不安というのが、ヴァリアントロアの懸念材料であった。
朝日杯からの400mの延長。
だが桜花賞は、完全に同じ距離で、同じコースなのである。
変わるのは季節だけだ。
今年も葉桜の中で行われる桜花賞。
優姫は前日からしっかりと、芝の状態を確認している。
阪神開催も終盤に近くなり、どうしても芝は荒れてきている。
やや内枠からのレースとなる、ミニョンフルールには不利な要素がまた増える。
だがスタートを決めれば、一番内の芝を進むことが出来るか。
絶対に確保しなければいけないのは、5着以内に入ることだ。
そうすればオークスの優先出走権が手に入り、牝馬のクラシックがそこまで続くことになる。
マイルではおそらく、ファムダンサントには勝てない。
絶対的な瞬発力が、違いすぎるのだ。
それでもレースの展開次第では、勝てなくもないだろうが。
息も入れずに駆け抜けるのがスプリント。
意外なほどに番狂わせが、この短い距離ではあるものだ。
わずか一つの間違いを、取り戻すことが難しいからだ。
長距離はスタートに遅れても、そこからどうにか出来る。
また馬と折り合いをつけるのが上手ければ、それだけ最後まで脚を残せる。
スプリントにわずかに、息を入れるのがマイル。
よほどの運か相手のミスがないと、マイルも挽回するのは難しい。
コースとしても大回りなので、直線に向いてからが勝負となる。
包まれてしまっても、なんとかならないでもない。
外に持ち出すために、外枠の方が有利であったりもする。
ただ最後の坂のために、パワーも必要であるのは確かだ。
距離をややロスしてでも、スピードを保って最後の直線を上り切る。
チューリップ賞で2着がミニョンフルール。
同じコースでやや成長してからでも、ファムダンサントのタイムを上回ることは出来なかった。
展開によって決着するタイムは変わる。
それは間違いないのだが、ミニョンフルールの脚質は、サンデーよりはミスプロ系のものである。
同じマイルであっても、平坦なコースならもっと、勝てるのかもしれない。
結局競馬というのは、相手があってこそ成立する。
大逃げで圧倒的なタイムで勝つ、というのはさすがに例外であろうが。
持続的なスピードはスタミナにつながる、とも言われる。
どれだけスピードを保ち続けるかが、スタミナの要因なのだ。
逆にスタミナを一瞬にしても、それがスピードになるわけではない。
ミニョンフルールも五代前には、もう日本生産馬は存在しない。
五代が輸入した、ガリデイン配合(※2)の繁殖牝馬を放出し、それにハーツクライ系の種牡馬を付けた母。
それにゴーンウェスト系を付けたのだから、本当ならこちらこそ、マイル程度の馬になってもおかしくない。
適性距離というのは、本質的にはなかなか分からないものだ。
血統的には短距離馬が生まれてもおかしくなかったのに、中距離以上の適性があるというのは、性格的なことも関係する。
基本的にサラブレッドは、全てがスプリンターで全てがステイヤー。
あとは折り合いをつけて走ることが、どれだけ出来るか。
そしてスタートからどれだけ、前向きに走れるかであろう。
はっきりと春を感じる季節。
昔に比べて四季がなくなった、などとも言われる。
それでも桜が咲き、散るころには春を感じる。
(さて、どうしようか……)
それぞれがゲートインしていく中で、作戦など決まることはない。
どれだけ頭の中でシミュレートしても、結局は臨機応変がマイル戦なのだ。
(南無三)
大外枠までの馬が入って、フルゲートでの桜花賞。
ゲートが開いて、今年もクラシックが始まった。
『わずかに桜が残った阪神競馬場、今年も18頭の牝馬たちが競います。
ゲートには続々と入っていって、スムーズにスタートしそうです。
青島さん、パドックからここまで、特にかりかりした馬もいない様子ですが』
『ファムダンサントをどう攻略するか、それが見どころだと思います』
『そのファムダンサントも入りまして、残り二頭。
問題なく全頭が入りました。
さあ……スタートしました!
内枠ピュアコメット、先頭に立っていきました。続いて⑧番のクワノシャクティが追っていきます。
一番人気ファムダンサントは後方外目を回っていきます。
・
・
・
以上18頭、先頭から最後方まで一塊で走っていきます』
ファムダンサントを攻略するには、暗黙の了解でジョッキーたちが協力する必要があった。
もっともそういった手段は、ベテランジョッキーにはあまり適用されない。
若手などはきついマークを受けて、内に閉じ込められてしまうこともある。
(外枠だと、そういうこともないか)
連携して封じ込めることに失敗し、おそらく不利を受けない限りはもう、このレースは決まっているだろう。
後方から行く競馬は、先行抜け出しや逃げに比べると、前が邪魔になることがある。
外枠であっても前の馬がよれて、進路をふさぐことがあるのだ。
もちろんそういう場合、斜行で降着になるし、処分も受ける。
だからといって1着に繰り上げになるのは、1着馬が降着になって自分が2着の場合だけだ。
優姫は中団の中に潜んだ。
(フルールの実力は、この中では普通)
2000m以上であるなら、おそらくは突出した馬がいない。
もしも出走するレースを自分で決められるなら、ファムダンサントはNHKマイルから、秋のマイルCSに出走させるだろう。
あるいはスプリンターズステークス、という選択もあるかもしれないが。
逃げた形の馬も、そこまでかかっているわけではない。
ごく普通に逃げを主張して、それを他の馬が許している。
(ペースも普通だなあ)
これがもっとハイペースになれば、ミニョンフルールにも勝ち目があった。
だがファムダンサントが最後に、充分に脚を残せる展開。
全体的に早くなれば、先にキレる脚をなくしてしまうのだが。
最下位覚悟でも、わずかな勝利の可能性に賭ける。
そんなジョッキーがいなかったので、実力通りに決まってしまう。
優姫にしてもミニョンフルールで、惨敗などはしたくない。
乗った牝馬の中では、一番今年のオークスを取れる可能性が高いと考え、この馬を選んだのだから。
最後の直線、大外からファムダンサントが坂を駆けのぼっていく。
優姫はもう少しだけ、スパートをかけるのを遅らせた。
他の馬の中の何頭かは、ファムダンサントに引きずられてしまっている。
脚を余して負けることだけは避けるため、優姫は内側からひっそりと、死んだふりをしてスパートをかけた。
直線の半ばで、ファムダンサントが先頭に抜け出した。
前の馬は全て、そこから後退していってしまう。
その中で優姫は手綱をしごき、ミニョンフルールは二番手に上がる。
(2着争いか)
後ろの馬がおおよそ、先行馬たちを抜いていく。
だが二番手のミニョンフルールにも届かない。
ゴール板を先頭で、ファムダンサントが駆け抜ける。
その二馬身後ろのミニョンフルールは、後ろからきた馬との必死の2着争い。
脚がなくなりそうか、と思ったところがゴール板。
ハナ差でどうにか、2着を確保したのであった。
桜の女王の戴冠。
ファムダンサントはこれで、GⅠ2勝の五連勝である。
(次はオークスに来るのかな)
オークスならば返り討ちに出来るが、ファムダンサントはクラブ馬である。
五代の選択によりレースも選ぶのであるから、おそらくオークスには回らないだろう。
(NHKマイルCかな)
本命不在と言われそうだが、おそらくこの桜花賞を2着とした、ミニョンフルールが本命になるのだろう。
マークがきつくなるかもしれないが、この選択で問題なかったと思うのだ。
検量から戻ってきたところで、調教師の権田に、オーナーの鹿谷が待っていた。
「いや~、惜しかったなあ」
ブルドッグのような顔立ちの鹿谷は、関西の大馬主である。
常に50頭ほども現役の馬を持っているが、それでも重賞出走まではともかく、GⅠを勝てる馬はそう持つことなどない。
ミニョンフルールは前走のチューリップ賞で、一応はオープン馬になっている。
だが秋以降のことを考えれば、ここでも2着を取れたことは大きかった。
桜花賞の2着によって、収得賞金は3000万円ほど追加される。
これで秋の秋華賞やエリザベス女王杯は、問題なく出走できるだろう。
他のGⅠもほぼ大丈夫だろうが、ジャパンカップと有馬記念だけは、いささか難しい。
GⅠを1着していても、出走できない可能性がある。
かなり少ない可能性ではあるが。
「オークスはもうちょっと期待できるかも」
優姫としてはとりあえず、そう言っておく。
実際にスピードの絶対値では、極端に強い牝馬は、2400m路線ではいないのだろうから。
オークスも八大競走の一つ。
牝馬のクラシックの賞金金額は安い。
これについてはさすがにツイフェミも、差別などとは言ってこない。
なぜならばダービーには、また皐月賞にも、牝馬は出られるからだ。
しかも斤量の有利もある。
まあ人間と馬を同じと考え始めたら、さすがに頭のおかしさも極まる、と言えるであろうか。
GⅠを2着で、1着は圧倒的に強かった。
さすがにこの結果で、優姫を乗り替わりにしろ、とは言ってこないだろう。
もっともミニョンフルールは他の馬と違って、ひどい気性難というわけではない。
なので優姫以外のジョッキーが乗っても、ちゃんと実力は発揮される。
ただ馬主にとっては、もう価値が逆になっているのだ。
もちろん強い自分の馬には、強いジョッキーが乗って勝たせてほしい。
しかし強い馬を提供することで、優姫にGⅠを勝たせる。
こちらの方が単純にGⅠを勝つよりも、よほど広告塔としての効果が大きくなる。
(なんとかオークスは勝ってくれよ)
そんな鹿谷の思惑は、気づかない優姫である。
自分の価値に対して、まだ無自覚なところはあるのであった。
※1 セントレジャー
当初は16ハロン3200mで、現在は正確には2921メートルのレースとなっているらしいが、微妙に変わっている。
まったくもってさっさとメートル法を世界共通単位にしてほしいものであるが、日本も普通に自前の単位を使う分野があるので、あまり言えたことではない。
※2 ガリデイン配合
ニックスと呼ばれる相性のいい配合の一つ。
父ガリレオ、母父デインヒルの組み合わせからこんな名称をつけられている。
なおガリレオもデインヒルもノーザンダンサーをサイアーラインにもっているので、自然とノーザンダンサーのクロスになる。
この配合による代表産駒が、現代競馬最強候補の有力馬フランケルである。




