第108話 ドバイミーティング
フェブラリーSのレースからある程度回復すれば、検疫後すぐにアシュレイリンクはドバイに送られる。
他の日本馬は適応するため、既に出発している。
実績からして、日本の現役最強馬とも言えるヴァリアントロア。
ドバイターフ芝1800に出走。
フォーリアナイトも同じく出走する。
もっともレーティングが高くなることが多いシーマクラシック。
こちらはボーンクラッシャーとマジックマイスター。
晩成のグランプリ馬と、去年のダービー馬である。
そしてドバイワールドカップ。
多くの競走の中でも、圧倒的な賞金を誇る。
こちらに芝ダート兼用、ほぼヴァリアントロアと互角のアシュレイリンク。
レーティングはともかく、レースとしての格は、この中で一番高い。
また今年はアメリカの、強いダート馬がかなり参戦している。
日本のダート馬も、参加する予定はあったのだ。
だが去年の東京大賞典で、ソウルハンターが勝利した。
そのソウルハンターを、アシュレイリンクがあっさりと倒している。
日本のダートと、中東のダートの違いもあって、結局は1頭だけの参戦となっている。
優姫は3月の初め、チューリップ賞に出走。
かろうじて3着に入って、桜花賞の出走権利を得る。
ただ今年も牝馬クラシックは、比較的勝つことは難しそうだ。
だが重要なのは、GⅠに必ず騎乗馬がいること。
もっとも今年も高松宮記念は、乗鞍がない。
去年と違うのは、有力馬の依頼がないわけではなく、ドバイと日程がかぶさっているからだ。
「随分と早めに行くんだね」
千草がそう言ったのは、メルボルンカップや香港は、ここまで気合を入れていなかったからだ。
「メルボルンカップや香港とは違って、2頭で勝ちに行くから」
モーダショーをヴァリアントロアと戦わせないため。
そのために香港には行かせたのだ。
基本的に優姫は、選ぶ馬を間違えない。
間違えるのは選ぶ際に、条件があったりするからだ。
去年の有馬記念は、まさにそうであったと言えよう。
乗鞍がない優姫を、自分の馬に乗せたいという、オーナーなどはいた。
だがそこで他のジョッキーの、馬を取らなかった。
その結果として、アシュレイリンクの騎乗が回ってきたのである。
千草はこの時期、牧場巡りを始める。
そろそろ多くの牧場で、幼駒が誕生し始めているからだ。
今年は特に、注目している新種牡馬の産駒がいる。
シュガーホワイトの子供たちが、生まれてきているのだ。
「モーちゃんの弟が、シュガーの子供って、不思議な気分だね」
そう美奈は言うが、牧場育ちの千草や、配合オタクの優姫としては、別に何も珍しくはない。
ドバイでの調整などは、最終的には優姫に任せられる。
ただこの遠征にあたって、SBCファームからは、頼もしい助っ人が出てきた。
自身も管理馬で、ドバイのレースを勝たせた池元元調教師。
海外遠征はいくら準備を整えていても、不測の事態が起こるものだ。
そういう時にはやはり、経験がものをいうものだ。
優姫はドバイの、今の競馬を知らない。
あの遠くなった記憶では、そもそも競馬場が違ったのだ。
土日の合計八日間を、中東の地で過ごす。
そのためリーディング争いからは、少し遠ざかることになる。
だがこれは優姫の価値観の問題だ。
リーディングももちろん、ジョッキーの勲章である。
かつて騎手大賞は、主要三部門を勝った騎手でないと、取れないものであったのだ。
今もそれは変わらないが、MVJというものが作られた。
これを目指してもいいし、優姫はこれすら目指していない。
重要なのは、そういうところではないと、自分で決めているからだ。
競馬というのはどういうものであるのか。
根本的なテーマは、かなりきついものになる。
優姫はちゃんとそれを理解している。
もっとも競馬に限ったことではなく、この世はそれにあふれている。
つまり虚構にルビを振って、ロマンと読ませるものだ。
馬主をすることによる、節税の観点。
だが普通の馬主は、経済的合理性で馬主はやらないし、やったとしても続かない。
それを徹底的に合理的な観点から、やっているのがSSRCの会長だ。
社長は普通に、馬のことが好きらしいが、耽溺するほどではない。
高額馬を買ったのも、賞金がそれだけ入ってきたからだ。
「ところで優姫、この馬を預かることは、聞いているのか?」
ドバイへの荷物をまとめている優姫は、それでもかなりのミニマムサイズ。
ドバイなら必要になれば、買えばいいと思っているぐらいだ。
「リトルキングダム産駒?」
これは珍しいサイアーラインである。
内国産の父が四代も続いている、テスコボーイのライン。
写真を見る限り、明らかなスプリンター体型。
ルートとしては育成で鍛えられた後、2歳セールに出てきた即戦力。
今年の夏にはデビューする、というものだ。
「どこのオーナー……しょーちゃん?」
「名前で呼び合ってるのか」
「珍しくない。けれど、しょーちゃんがなぜ?」
「私にもわからないけど、いいんだね?」
いい感じでトモが発達していて、これは走りそうである。
短距離のリトルキングダム、とはよく言われたものだ。
ただSSRCではなく、個人の名義の馬主というところは、優姫も引っかかったのであった。
関西国際空港から、ドバイへの直行便。
優姫は遠慮することなく、ファーストクラスの席を使っていた。
去年はビジネスで我慢していたのだが、今回は本当にタフなレースになる。
また優姫にしても10時間のフライトは、かなり長いものになるのだ。
これも経費と割り切って、体調を完全に整える。
あとは馬たちが、果たしてどういう状態にあるか。
やってきましたアル・マクトゥーム国際空港。
中東の砂漠の国ドバイは、3月でも日本の夏に近い気温。
だが過ごしやすさという点では、圧倒的にこちらが上なのだ。
パンツスーツの優姫を迎えてくれたのは、現地のスタッフである。
普段の優姫であれば、そのまま馬のところへ直行ということになる。
だがこの場合は、ホテルにチェックインして問題はない。
なぜならホテルがそもそも、競馬場と一体化しているのだ。
ザ・メイダン・ホテル。
競馬場のバックスタンドと、一体化したホテルなのである。
ドバイは基本的に、女性がビジネスに進出もしている。
イスラム圏といっても、原理主義者であったり、過激な思想は薄いといっていい。
それでも女性の服装には、ある程度の配慮が求められる。
具体的には肩や背中、膝などを露出するのは、はしたないとされる。
あとはこの時期、ドバイはラマダンに入る。
基本的にイスラム以外は、普通に昼でも食事が出来る。
ただ店外や公共の場では、水を飲むことさえアウト。
昔に比べればこれでも、かなり開放的になったのだ。
「おお、来たか」
一足先に、池元はドバイに到着している。
「馬は?」
まず第一声がこれの優姫であった。
池元としても承知はしているが、苦笑をまじえている。
「どっちも仕上がってきとるな」
ヴァリアントロアはおよそ四カ月ぶりのレース。
逆にアシュレイリンクはつい一か月前に走った、という違いはあった。
だが池元から見ても、優姫のやったことは分かった。
「フェブラリーSを、叩き台に使ったやろ」
「しっかりと絞ってきた」
今はまた調整の段階に入っている。
そしてドバイの馬房は空調が、日本以上に快適であったりする。
ヴァリアントロアとアシュレイリンク。
2頭は少し離れた馬房で、ちゃんと世話をされていた。
UAEの競馬シーズンは、11月から翌年の3月まで。
随分と短いと感じるかもしれないが、現実的な理由がある。
それは中東と言われると、日本人が普通に思い浮かべるもの。
日中の酷暑である。
この時期の中東の馬は、ヨーロッパ戦線に移動することが多い。
5月から9月あたりになると、日中の気温は50℃を超える。
それでも夜になれば、日本よりは過ごしやすいのだが。
「初めてのドバイはどうや?」
「派手になった」
「……前にも来たことあるんか?」
「映像で見ることが出来る」
確かにドバイの競馬は。拡大の一途をたどっているのだ。
ナド・アルシバはメイダンシティに、発展的な解消となった。
ホテル、ショッピングモール、高層マンション、オフィス、さらには運河までを備えた広大な複合型スマートシティの建設。
メイダン・シティをゼロから構築する計画のために、ナド・アルシバの敷地も使われていったのだ。
スタンドの収容人数も一気に増加。
王族のオイルマネーは、国家規模のプロジェクトとして存在する。
競馬を明らかにスポーツ、あるいはショーとして展開する。
ギャンブル性がないのが、加熱させる要因を減らしてはいるが。
レーティングとしてはジャパンカップと違い、トップ20に安定して入るのは、むしろシーマクラシック(※)の方が多い。
これは日本の芝馬のトップが、シーマクラシックに出走する、ということが多いからでもある。
それでもなぜ、アシュレイリンクをワールドカップに出すのか。
実力的にもレーティング的にも、シーマクラシックでマジックマイスターや、ボーンクラッシャーと戦った方がいい。
特に今年は欧州からの参戦が、やや層が薄くなっている。
3歳で上手くGⅠ勝利を稼いだ馬や、別路線で強かった馬が多いからだ。
あとは純粋に、ドバイの2400mでは、日本馬の方が強い、と判断もされたからであろう。
晩成寄りの馬であっても、同じヨーロッパの中で戦った方が勝ちやすい。
ただブランド、という点ではワールドカップの方が上なのだ。
アメリカもまた、3歳で充分な実績を残せば、そのまま繁殖に入ってしまう。
あと少し実績が足りないぐらいなら、国内のペガサスワールドカップを使えばいい。
ダートが真の意味で存在するのは、アメリカ国内と中東のみ。
それで中東のダートを選択する、というのは確かにあるのだ。
ここはオーナーの判断が影響してくる。
賞金に関しては、ワールドカップの方が上。
しかし実力を正しく査定するためならシーマクラシック、もしくはターフの方が上であったりする、
それでもドバイミーティングのメインレースはワールドカップ。
最初にGⅠ格付けに到達し、他のレースはこれに付随したものであった。
あとはアメリカのダートが、近く再現されているのは、中東のレースだけという条件もある。
芝にしろダートにしろ、本当に強さを比較するなら、どちらかのホームではなく、どちらのホームでもない場所で対戦するべき。
すると香港や中東、という選択になってくる。
オーストラリアもあるが、あそこは専門性が高い上に、距離が離れすぎている。
そして香港やオーストラリアに、巨大なダートのレースはない。
ドバイワールドカップを勝てば、世界的なダートの名馬としての評価が確立する。
アシュレイリンクという馬に望まれているのは、ただ強いことではない。
常識外のことを起こすことである。
それはもう、血の宿命と言ってもいい。
馬にとっては、そんなん知らんがな、であるかもしれないが。
人間は勝手な夢を託すものなのだ。
優姫はオグリキャップを、アシュレイリンクに投影している。
ならば4歳のシーズンは、春は国外に専念してもいいだろう。
宝塚記念あたりは、消耗次第だが出ても構わない。
そして秋は国内に専念し、ジャパンカップを中心に戦う。
ただそうした場合、ヴァリアントロアとどう使い分けるかが問題となる。
マイルから中距離という印象は、あのジャパンカップで完全に払拭した。
だがそれでもシーマクラシックではなく、1800mのターフを選んだ。
アシュレイリンクと違い、ヴァリアントロアは海外を使っていってもいい。
3歳の時点で安田記念とジャパンカップを勝ったため、二つの路線で最強と証明したからだ。
もちろんアシュレイリンクとは接戦で、長距離ならモーダショーに負けるかもしれない。
しかしクラシックディスタンス最強を証明したなら、次は海外挑戦が妥当なのである。
その意味でこの1800mというのは、世界のマイル近辺でも最強、ということを証明することになる。
もちろん確実に勝てる、などとは言わない。
他国でGⅠを複数勝っている馬が、しっかりと出走してくるからだ。
(本当はヨーロッパのマイルあたりに向いてると思うんだけど)
パワーと体重の軽さ、は泥んこ馬場では有利と言われている。
ドバイミーティングまでには、それなりにレースがある。
優姫は少ない数であるが、そこで現地の馬に乗ることが出来た。
そして馬の質はそうでもないはずなのに、勝率が高い。
現地でその異常さが知れていくのは、普通に当たり前のことであった。
ただこれをやっていると、ジョッキーとしても周囲からマークされるのだが。
あの女の子は乗れる、と思われていく。
もちろんレースよりは、調整の方に比重をかけている。
現地のスタッフに加え、ヨーロッパやアメリカからやってきた、各国のホースマンとも交流が出来てくる。
「英語ぺらぺらやなあ」
「そうかな?」
池元が呆れるほど、現地に溶け込もうとしている。
「でもアラビア語は喋れないし」
「喋れたらびっくりやろ」
それはそうである。
ジョッキーというのは基本的に、世間一般的で言うような学がない。
高校や大学に行く前に、騎乗技術を磨いてジョッキーになるからだ。
ただ学がないのと、頭が悪いのはイコールではない。
そもそも頭が悪ければ、レース中の判断なども即決出来ないだろう。
ただ勉強用の頭の良さと、判断力は別とも言えるだろうが。
UAEの競馬シーズンの、最後を飾るのがドバイミーティング。
アシュレイリンクもヴァリアントロアも、順調に仕上がっていた。
特にアシュレイリンクは、移送から現地に慣れるまで、時間が短かった。
しかしメンタルもタフなこの馬は、輸送で減った体重を、あっという間に戻している。
そして併せていくのに、ヴァリアントロアとバチバチになっている。
あのジャパンカップで走っただけであるが、2頭の間にはライバル関係が成立しているように見える。
優姫としてはここで、なんとかヴァリアントロアを乗りこなす、攻め馬の調教助手がいるのが驚きであった。
だがやはり世界は広い、と言うべきなのであろう。
もちろんそんな人間が多いわけでもなく、多くの人間が振り落とされてから、ようやく見つかったわけだが。
アシュレイリンクはまだしも、他の人間を乗せるのだ。
ただ体が柔らかいので、乗るのが難しいのは間違いない。
対してヴァリアントロアは、優姫でさえも隙を見せれば振り落とす。
完全に面白がっているのだ。
池元をはじめスタッフは、この2頭を一人がお手馬にしていることに、なんとも言えない感じがした。
「しかしまあ、服装の制限が厳しいですね」
やってきた千草としては、そこが一番気になるらしい。
これだけ暑ければもっと、露出のある服にしたいものだが。
「調教師はしゃーないやろ」
千草は結局、パンツスーツで関係者として動く。
いつもの栗東と変わらない。
観光などはすることなく、優姫はひたすら2頭とのスキンシップをしていた。
そんな中では現地の王族から、乗ってみないかと言われた馬もあったりする。
「シーマクラシック……」
他に日本馬が2頭、既に出走することは決まっている。
それに乗せようとするのは、欧州産の牝馬。
調教で乗ってみた優姫は、その騎乗依頼を了承したのである。
※ シーマクラシック
2410mという微妙に違うが、ほぼクラシックディスタンスの距離。
ヨーロッパの4歳以上の強い馬は、騙馬であったりするとやはり、この距離を狙ってきたりする。
また日本馬も特にこの距離を重視しているため、自然とレベルは高くなってくる。
ただドバイターフ(旧デューティフリー)の近年の日本馬の強さも相当のものである。




