第106話 彼女の趣味
優姫には趣味と言えるものがない。
強いて言えば生きることが、楽しみであるとは言える。
また彼女にとって、生きるということは馬と共にあるということ。
なので趣味がそのまま、生活に直結しているとは言える。
「趣味?」
そんな人間らしいことを尋ねられて、思わず訝しむ千草であった。
「どうだろうね? まあ……珍しい煙草を集めたり、ライターを集めたりはしているけど」
そうそう高価なものを買う、というほどでもない。
優姫が何か趣味を持つというのか。
「狩猟免許を取ろうと思う」
「はあ? なんでまた」
「将来的に北海道で牧場をやるなら、害獣対策で持っていた方がいい」
「ああ、なるほど、実用と直結してるのね」
「特に熊に対抗するには、猟銃が必要」
「物騒!」
そう言われるが、日高地方は昔に比べて、熊の害は増えているそうなのだ。
栗東の周辺も、比較的山が多い。
そして実はかなり農作物への獣害も多いのだ。
少数ではあるが、ツキノワグマの目撃例もある。
「まあ分からないでもないけど」
千草も北海道の牧場生まれ。
なのでヒグマの恐怖は、多くの実例を知っている。
厩舎でのこの優姫の活動は、簡単に言うと奇抜と思われた。
内容を聞いてみればやはり、実利につながる趣味なのだな、と納得するのだが。
「正直、あんたみたいなのが狩猟もやるのはいいと思うよ」
基本的に日本のハンターは、農家の兼業が多い。
害獣対策として、銃を持っているというパターンなのだ。
しかしそれも年々、高齢化して減少している。
これはちょっと他の者からすれば、意外にも見えたらしい。
馬=動物を好きな人間が、動物を殺す狩猟をするということだ。
ただ世の中というのはそう、歪な単純さで動いてはいない。
この場合の熊というのは、人間の倫理の外にある存在。
中世であれば無法者と言ったところだ。
それを守るためには、自衛の戦力が必要。
そのあたり競馬村出身の美奈などは、よく分からないらしいが。
「そんなことより、恋バナしようぜ!」
ふんふんと鼻息が荒いのは、むしろ女子としては健全なのか。
優姫は顔を歪めて、拒否の感情を露わにする。
「美奈は何が趣味?」
「趣味ってわけじゃないけど……馬の廃棄した蹄鉄、集めてたりする」
それは間違いなく趣味であろう。
蹄鉄は通常、リサイクルされるものだ。
しかし中には縁起物として、魔除けのものとしてプレゼントされることもある。
またはあの名馬が使っていたもの、として贈呈品になったりもする。
もちろん消耗品、と割り切る人間の方が多いだろう。
だが過去の名馬、ハイセイコーやオグリキャップ、トウカイテイオーの蹄鉄などであれば、普通に競馬ファンは欲しいのではないか。
「三ツ木先生は分かりやすい」
「せやな」
三ツ木厩舎にやってきて、将棋を指している優姫である。
麻雀のような運のゲームも、優姫は相当に強い。
だが将棋の早指しなども、かなり強いのは間違いないのだ。
麻雀や将棋などは、優姫にとって趣味ではないのか。
もちろん趣味ではない。レースで戦う相手を知るため、必要な行動なのである。
あとは前日にハコにしてやれば、翌日は万全の精神状態でなかったりする。
そこまでメンタルが動揺するのは、ちょっとジョッキーに向いていない気もするが。
不思議な方向に手を出すのだな、と三ツ木は思う。
だが優姫のやることは、どれもが理由があったりする。
こういった将棋や麻雀も、相手の性格を見通すため。
最初から騎手になるため、乗馬教室ではなく体操を選んだあたり、常に長期的な目標と効率を考えている。
そして長期的に見た場合、逆に効率的になる非効率も、理解していると思われる。
定年間際の調教師に、昼中から将棋で付き合う。
「モーちゃんの弟か妹、どうかな」
「もうすぐ予定日やからね」
こういった理由があるのだ。
今は随分と工夫されて、早くなったのがサラブレッドの出産の季節。
新年になれば出来るだけ、早く生まれた方が有利。
モーダショーの母と姉が、シュガーホワイトの産駒を産む。
優姫に最初のGⅠの栄光をもたらした、その血統がついに生まれるのだ。
日高の中堅牧場などが、中心となってシンジケートを結成した。
初年度は約100頭への種付け。
受胎したのは92頭だったから、相当のいい数字である。
相棒としてはモーダショーが一番長い。
3走目の未勝利戦から乗り替わりして、もう15レースに出ている。
明けて5歳になったが、まだまだ元気いっぱい。
さっさと絞って京都記念に使う、というのが今の仕事なのである。
早熟が多いスプラッシュヒット産駒。
その中でも絶対に、モーダショーは異質である。
3歳の春も悪いわけではなかったが、明らかに夏を過ぎてから強くなった。
三ツ木の感覚からすると、いまだに強くなっている気がする。
クラシックディスタンス以下でのGⅠが一つほしい。
そうすれば大手を振って、種牡馬入りさせることが出来るだろう。
優姫にも得手不得手というものはある。
正確に言うと得意と、超得意の違いであろうが。
短距離よりは長距離が強いが、マイルでも充分に勝っている。
また芝の方がダートより強いが、そこが弱点であればリーディングなど取れない。
基本的にはキレる脚の馬が得意なのだろう。
しかし上手く逃げ馬で、逃げ切ってしまうこともある。
馬との相性を慎重に探っていくタイプか、とも思っていた。
だがテン乗りでアシュレイリンクに乗り、有馬記念を勝ってしまった。
普通ならさすがに、そんなことは不可能のはず。
しかし結果は現実として、そこにあるのだ。
三ツ木もこの世界には長い。
様々な騎手を見てきて、その中には外国人の名手もいた。
だが優姫はそんな中でも、一番上手いのではないか。
天才、と言ってしまえば簡単なのか。
しかしそれ以上に優姫は、馬に愛されているという気がする。
優姫は馬に乗るだけではない。
馬の世話をするのも上手いのだ。
馬にグルーミング(※1)されて、それを楽しむことが出来る。
優姫もまた馬を愛している。
だからこそ強いのであろうか。
太ったモーダショーは、頑丈で知られている。
なので毎日、優姫は彼を追った。
また走るだけではなく、充分に歩かせる。
ようやくレースに使えるほど、絞れてきたモーダショー。
京都記念にも間に合いそうである。
GⅠ馬であり、5歳馬でもあるモーダショー。
背負わされる斤量は、59kgである。
得意な京都コースで、果たしてどんな結果となるか。
一応は面子を見るなら、そこまで強い馬はいない。
ただ明けて4歳の馬ならば、まだ成長途上であったりするが。
ここは叩き台、と三ツ木は思っていた。
本命は大阪杯で、今年はやや層が薄くなっている。
長距離ばかりを勝ってきたモーダショー。
2000mの大阪杯は、取っておきたいタイトル。
しかしその準備の京都記念で、あっさりと勝ってしまった。
2400m以下の重賞の、初制覇である。
「勝ったねえ」
「勝利。ブイブイ」
Wピースの優姫に対して、呆れるような三ツ木である。
序盤からほぼ先頭に出て、かなり集団を引っ張るハイペースに持ち込んだ。
そしてスタミナをなし崩しに使わせて、モーダショーだけは抑えてゴール。
3馬身差の完勝であった。
かつてのモーダショーは、エンジンのかかりの遅い馬であった。
だが今はむしろ、最初から飛ばしていくスタイルに変化している。
競走についての認識が、馬の中で変わったということだろうか。
これは3歳の有馬記念から、もう兆候は見えていた。
(馬に競馬を教えたのか?)
それはジョッキーにしか出来ないことである。
モーダショーの長所。
一番分かりやすいのは、スタミナである。
これは今の競馬からは、失われつつあるものだ。
レースにスタミナが必要ない、ということではない。
種牡馬需要として、スタミナ種牡馬が減っているのだ。
確かに競走において、一番重要なのはスピードだろう。
しかしそれに重点を、置きすぎたとも今の競馬は言える。
2400mを一番早く走る、というのがかつての最大の価値であった。
だがそれが、スピードだけで走れる距離で強い馬が、価値があると変質しつつある。
それが完全に間違えているとは言えない。
オーストラリアはスプリント戦が、そのまま権威ともなっているのだから。
価値観の迷走、あるいは逆点と言える。
勝てる馬を作るのが、かつての目的であった。
今は種牡馬価値に合う距離で、勝つことが重要となっている。
その中で日本は例外的に、距離とスピードを両立させようとしている。
もちろん距離適性で、ある程度は判別されてもいるが。
モーダショーの、スタミナよりも優れた資質。
それはタフネスである。
体力という意味でのタフネスもあるが、それ以上に故障しない骨格。
現代競馬においては、エンジンにシャーシがついていけないということが、普通にどの馬にも起こりうる。
それでもひたすらスピードを求め続け、それはある程度は正解であった。
3戦3勝と、圧勝しながらも重賞さえ勝っていなかったダンジグ。
またミスタープロスペクターも、短い距離を走っているだけであった。
こういったスピードに、己の体がもうついていけない。
サラブレッドの脚は、ガラスの脚と言われる所以である。
だがこのあたりでスタミナとタフネスを、注入すべきではないか。
もちろんこれは単なる理屈だ。
馬産の大前提は、勝てる馬を作ることである。
スピードを伴ったスタミナならばいい。
だがスタミナだけであれば、通用しないのが今の長距離。
GⅡクラスの中距離なら、充分に勝てると証明したのが、今回のレースであった。
スプラッシュヒットの父は、日本生まれでGⅠを3勝した名馬であった。
だが産駒が走らずに、アメリカに移動したのだ。
しかしなぜかそこで、ちゃんと走る馬が出ていた。
スプラッシュヒットがそうであるし、また牝馬が繁殖に入ると、勝ち上がり率が高く重賞馬もかなり出したのだ。
おそらくモーダショーは、その祖父に似ているのであろう。
血統表を眺めている優姫。
五代血統で充分なはずだが、八代まで遡っていたりする。
そして業者に頼んで、血統解析ソフトまで作ってもらったりしていた。
自分が将来馬産をするから、という理由で架空の設定で繁殖させる。
「あれって趣味ですよね」
「あいつの趣味は常に、実益を伴うみたいだな」
美奈と千草のやり取りは、にまにまと笑っている優姫には聞こえない。
繁殖の価値は二つある。
血統価値と能力価値だ。
たとえ未勝利であっても、姉や妹が優秀であれば、牝馬は必ずと言っていいほど、繁殖入りする。
またスタミナに関しては、基本的に母方から伝わる要素が大きいのだ。
もちろんスタミナの理由も、一つだけで決まるわけではないが。
現在のアメリカの三大血統は、大雑把に分けるとストームキャット、エーピーインディ、ミスタープロスペクターになる。
正確を期するならば、ミスプロはもっと細分化すべきだろうが。
この2頭に共通していることは、母父がセクレタリアトであるということ。
セクレタリアトは種牡馬としても、充分に一流の成績を残した。
だがボールドルーラー系で主流になったのは、セクレタリアトを母父に持つエーピーインディのラインである。
母系が重要というのは、こういう母父も含んでいる。
だが中には、母系に血統価値が全くなく、能力価値だけから生まれた、という名馬もいる。
日本における史上最強種牡馬、サンデーサイレンスがそうである。
むしろサンデーサイレンスは、母系に活躍馬がいないことが、血統構成的には優れていたと言える。
世間の一般的な主流血統と、インブリードになる場合が少なかったからである。
母ウィッシングウェルは、重賞をしっかりと勝っている能力を持っていた。
父ヘイローよりもむしろ、能力自体は高いと言われるほどに。
こういう血統の話を、いくらでもやっていけるのが優姫だ。
しかし本人はこれを、自分の趣味と認識していない。
血統に関しては死ぬほど詳しい五代勇作などを見つけると、積極的にこういった話をする。
そこで見せる普段とは全く違う無邪気さが、五代にしても毒気を抜かれるのだ。
北海道でのセリ、あるいは東西のGⅠレース。
さすがにレースの間は、そうそう話している暇などないが。
これには牧場の娘である千草も、ある程度はついていける。
だが現場の生産地では、まだ血統論よりも、肌感覚を重視して配合を考えていたりするのだ。
そしてそれも経験の蓄積から導き出されるため、間違っているわけではない。
フェブラリーSが迫っている。
鳴神厩舎に慣れたアシュレイリンクは、派手に食事をしている。
そしてよく動くのが、アシュレイリンクである。
(運動量が多いからなあ)
内臓機能が極めて高い。
だからこそよく動いて、よく鍛えられていくのであろう。
幼少期は離乳を済ませれば、家庭菜園で作られていた野菜なども、かなり食べていたそうだ。
実際に馬にはニンジン、などという意識は今でも普通にあるだろう。
本当のところ馬は、甘いものが好きであったりする。
角砂糖が大好物、という馬はいくらでもいる。
またビールの好きな馬さえもいる。
今は禁止されてしまって、逸話としてのみ語られているが。
追い切りを終わらせて、東京にアシュレイリンクを送る。
そして優姫もまた、その後を追う。
しかしそのまま調整ルームに入るのではなく、SBCファームに立ち寄った。
治療をメインで管理しているため、ヴァリアントロアはこちらで長く滞在している。
そして経過としては、かなり順調に進んでいるのだ。
もっとも問題はある。
ヴァリアントロアの場合、優姫以外の騎手が乗るのは難しい。
技術的にも、気性的にもである。
「順調ですよ。ただウォーキングマシンを嫌がるので、人間が曳き運動をしないといけないのが……」
そう担当者は言っていたが、馬でも同じことであろう。
人間も基本的には、外の景色を見ながら歩いた方が、気分はいいに決まっている。
ストイックに己を鍛えるなら、マシンでも充分なのであろうが。
久しぶりに優姫を背に、コースを駆けるヴァリアントロア。
走らせることは難しくても、しっかりと歩かせて能力を保っている。
これにプールの運動もさせて、運動不足にはならないようにしている。
馬にとっての運動不足というのは、怠惰で済む問題ではない。
下手をすると内臓の機能が低下して、病気になることもあるのだから。
気分よく走らせるために、ウッドチップ(※2)のコースを使う。
そこで軽く体をほぐし、芝のコースに入っていった。
全力で走らせるわけではない。
だが気持ちよさそうに、芝のコースを走っていく。
(今のところ、後遺症はないかな)
ドバイ遠征の計画が、果たしてこのまま通用するかどうか。
最終的に決めるのは千草だが、その意思決定には大きく優姫の意見も絡むのである。
※1 グルーミング
馬の毛づくろいで、人間の髪をむしゃむしゃとしてくることはよくある。
馬は力が強いので、けっこう痛い。
競馬学校で頭髪規定があるのは、このグルーミングによる危険に配慮しているという面もあるらしい。
※2 ウッドチップ(ウッドチップコース)
地面に細かく砕いた針葉樹などの木片を敷き詰めた調教用のコースのこと。
クッション性が非常に高く、着地時の衝撃を吸収するため、馬の脚(腱や関節)を痛めにくい利点がある。




