第105話 彼の背中
アシュレイリンクが入厩したのは、年明けで金杯が終わった後である。
有馬記念を激走し、見事に勝利したアシュレイリンク。
なおJRA賞の各賞が決まっていた。
年度代表馬と最優秀3歳牡馬には、文句なしでヴァリアントロアが選出。
また安田記念しか走っていないのだが、最優秀マイラーにもかなりの票が入っていた。
そちらはさすがに、桜花賞とNHKマイルC、マイルCSを勝ったファムダンサントが選ばれたが。
おそらく彼女に直接対決で勝ったことが、原因であろう。
さすがに去年はマイルを一度しか走っていないので、投票するのも迷ったということであろうか。
ちなみに彼女は、最優秀3歳牝馬にも選ばれている。
最優秀4歳以上牡馬には、モーダショーが選出。
春天とメルボルンCの他に、安定して走り続けたことが評価されたらしい。
他の古馬がどれも、GⅠを一つしか勝たなかったことが、この選出理由でもあるだろうが。
なおGⅠを勝っているのに、名誉シルバーコレクター会員のフォーリアナイトにも、相当の票が入っていたらしい。
そして特別賞に、アシュレイリンクは選ばれた。
地方所属馬が、有馬記念を勝つ。
もちろんそれは間違いなく、偉業ではあるのだ。
だが絶対にあるな、と思われたのは一つ。
オグリキャップへの忖度である。
ただ札幌記念で、モーダショーに勝つ。
ジャパンダートクラシックでのソウルハンターを撃破。
ジャパンカップではレコード決着。
最後に有馬記念である。
なんとも美しすぎる戦いではないか。
全てを勝っているのではなく、敗北したレースもある。
だがそれで格落ちすることがなかったのが、オグリキャップである。
年度代表馬以外、アシュレイリンクに勝つことが出来なかった。
それこそまさに、1988年の再現だ。
なお最優秀ダートホースに、ソウルハンターは選ばれなかった。
NAR(※1)のダートグレード競走特別賞には選ばれたが、やはり中央のGⅠを勝っていないというのが理由であろう。
チャンピオンズカップを勝っていたら、必ず選ばれたはずだ。
優姫は今年、お手馬にGⅠ馬が4頭いることになる。
もっともヴァリアントロアは、まだ療養中であるが。
アシュレイリンクを乗り込んでいく。
有馬記念で乗ったが、まだ乗り味が充分ではない。
鞍のはまりのいい馬。
体重などもオグリキャップに似ている。
だがマイラーではなく、ステイヤー体型に近い。
それで短距離も走れるのだから、やはり絶対能力で強いのだ。
アシュレイリンクはSSRCが10億円で買収した。
富田林の元にはとんでもない金が入ったわけである。
しかしここから稼いでいく賞金だけでも、おそらくはそれをペイする。
来年には富田林とSSRCが、共有の馬主となっていく。
そのために富田林は、今年も馬を買ってもらうことになるわけだが。
現役時代のみはSSRCが所有、という形なら一応、今も問題はない。
だが富田林が中央の馬主資格を持てば、また権利を半分渡す、という約束。
ここは相当に微妙なところで、名義貸しと取られかねない。
なのでどうも、契約書はお互いがこっそりと持っているのだとか。
もっとも富田林は既に、賞金と売却代金で、既に余生を過ごすだけの金を持っている。
SSRCがこの約束を破れば、おそらくJRAが本気で怒る。
企業の倫理観という点でも、問題なく守るはずだとは思える。
しかし人間の考えることは、色々と欲望で動くものなのだ。
優姫や千草のような、牧場出身の人間は分かる。
アシュレイリンクはむしろ、引退してからがビジネスの本番だと。
血統的に父トラブルブレイカーは、代替種牡馬としてそこそこの実績がある。
だが本当に重要なのは、母方の血であるのだ。
オーストラリアに存在した、スプリント系種牡馬を大量に含んでいる。
そのため多くの日本の在来繁殖に、問題なく付けられるというものなのだ。
ここもまた皮肉な話である。
五代グループなどは今、まさにオーストラリアなどからも、繁殖を輸入している。
しかしスプリント系の繁殖からは、まだ明確な成功配合は出てきていない。
間違いなくスピード血統ではあるのだが、ミスプロやストームキャットほどは分かりやすくないということだ。
そしてこのアシュレイリンクは、むしろ日高の方に需要がある。
オーストラリアの種牡馬は、基本的に早熟単距離が最大の需要。
それに比べると中距離の種牡馬は、価格が抑えられる。
またシャトル種牡馬の存在により、価格が高騰しにくいという側面もある。
アシュレイリンクの母系には、短距離に偏りすぎない、しかしスピードのある種牡馬が、代々つけられてきた。
とは言っても充分に、短距離種牡馬が多かったのだが。
母系がオーストラリア血統。
世界中から繁殖牝馬を輸入している、五代などと日高の中小牧場は違う。
ある程度は血統の更新も行っている。
だがまだ欧米血統が多く、オーストラリアまでは集まっていない。
それを言うなら五代にしても、オーストラリア以外の血統と、配合すればいいのだが。
最近の血統評論家は、かなり苦しくなっている。
よく分からないところから、強い馬が出てきているからだ。
晩成だったホワイトウイングから、早熟でクラシックを勝ったシュガーホワイト。
短距離からマイルが中心だったスプラッシュヒットから、長距離砲のモーダショー。
晩成のダート馬から、2歳王者で3歳年度代表馬のヴァリアントロア。
そして今度は代替血統から、オグリキャップの血を引くアシュレイリンクである。
確かにサラブレッドは、何が成功するのか分からない、とは言える。
サンデーサイレンスにしても、ヘイローから出た活躍馬は、そこまで多くはなかったのだ。
今はサンデーサイレンスの血を、世界が欲しがっている時代。
実際にヨーロッパでもオーストラリアでも、かなり血が拡散してきている。
それでもここのところは、限度があるだろうと言いたい。
もっともこういった馬が、種牡馬として成功するのか。
最近では血統ではなく、スピードの絶対値などを考えることも多い。
アメリカあたりではそれが顕著で、たとえGⅠを勝っていなくても、スピードの絶対値で種牡馬入りさせている。
ヨーロッパはそれに比べると、まだしも血統のブランドを重視する。
同じヨーロッパでも、一つにまとめてしまうのは雑なのだが。
どこに持っていっても、それなりに戦えそうなアシュレイリンク。
モーダショーやヴァリアントロアと同じく、サラブレッドに特有の繊細さがあまりない。
どこでものんびりしているモーダショーや、人間の好き嫌いが激しいヴァリアントロアは、それなりに違う方向の気性難。
だがアシュレイリンクは相対的に、かなり扱いやすいのは確かだ。
ダートのレースに出すために、改めてダート適性を確認する。
曳いて歩くぐらいならともかく、本格的に乗るのは初めて。
そしてやはり確信する。
下手くそが乗れば、アシュレイリンクは走れない馬だと。
体の柔軟性が高いのだ。
そのため鞍上も、かなり動きが激しくなる。
バランスを取って、しかも自分の体の推進力を使う。
身体操作が分かっている人間でなければ、全力を出し切れない。
もっともそれは、どの馬にも言えることだ。
アシュレイリンクはそれが極端というだけである。
暴れん坊のヴァリアントロアに比べれば、ずっとましなことは確かだ。
今年のモーダショーの最初のレース。
これもまた重要なことである。
香港から帰ってきて、少し外厩で休ませた。
そして様子を見に行けば、牛のように太っていたりする。
「何これぇ……」
優姫ではなく、担当の厩務員の言葉である。
馬は普通、移動するだけで体重が減る。
それが本当は心配なのだが、モーダショーは逆である。
運動をしなかったため、太ってしまっている。
検疫の期間は運動も、ある程度制限されてしまう。
そんな短期間に、でっぷりと太ったというのか。
むしろストレス太りなのかもしれない。
便は出ているし、馬は平気な顔をしているが。
去年は阪神大賞典から始動した。
だがもうスタミナの証明は充分なのだ。
斤量を考えると、やはりもうGⅠだけを走るべきなのだろう。
すると大阪杯が視野に入ってくる。
そこからまた、春天を目指すというのが、段階的であるとは思う。
「どうしようかねえ……」
三ツ木も悩んでいる。
今年はフォーリアナイトとボーンクラッシャーが、ドバイに出走予定で春のメンバーが薄くなるのだ。
マジックマイスターもドバイに向かうという。
モーダショーのいいところは、使いべりしないところだ。
だからGⅡを叩いてから大阪杯、というのもいいだろう。
もちろん春の最大目標は、天皇賞であるが。
スタミナタイプのステイヤー、というのがモーダショーの評価である。
体型はどちらかというと、中距離を走りそうであるのに。
もちろん優姫はその走法から、長距離を走っているのだと分かっている。
このまま種牡馬入りした時、果たしてどういう扱いになるのか。
ブランド価値はちょっと微妙。
だが試したいと思っている生産者は、かなり多いはずである。
種牡馬需要というのは、価格やブランドだけで決まるものではない。
それは一部分でしかないのだ。
重要なのは期待値との乖離である。
ミスターシービーやラムタラといった、評価としては大失敗種牡馬。
だが実は勝ち上がり率などは、そこまでひどかったわけではなかったりする。
モーダショーも2400前後の距離で、3着以内に入っている。
「最後に坂のない京都記念を使うとか」
そういう理由で斤量不利を含めても、GⅡ京都記念を使うことにしたのだ。
様子を見ながら大阪杯、そして春天。
宝塚までこなせたら、それだけで充分。
昨今の馬にはない、タフネスという要素が、強力な売り文句になるかもしれない。
今年はクラシック戦線で、大きく活躍できる確信が、お手馬に持てていない。
だからこそ古馬で、大きなところを勝っておきたい。
なおそのお手馬の中で、ちょっと問題が一つある。
問題と言うよりは、ありがたい展開とも言えるが。
ソウルハンターの今年のレース選択である。
国内で走らせるならば当然、フェブラリーSは選択に入る。
しかし優姫はアシュレイリンクで、そちらに参戦の予定。
ではラインから他に騎手に、乗り替わることになるのか。
普通ならばそうである。
だがソウルハンターは、3歳ダート二冠に、チャンピオンズC2着。
さらに東京大賞典という、国際GⅠを勝利している。
つまるところ登録しておいたら、ちゃんと招待されたのだ。
世界最高金額の、サウジカップに。
オーナーは即決で頷いたらしいが、ソウルハンターは日本のパワーダートに向いたタイプ。
期待しすぎるのも良くない、と優姫は思っている。
ただサウジカップは香港などと同じく、おいしいレースであるのだ。
日本のレースにおける、ジョッキーの取り分は5%である。
しかし中東や香港は、なんと10%(※2)となっている。
もっとも1着になった勝利ジョッキーに限るのだが。
(う~ん……)
馬場の適性がどうなのか、ソウルハンターは考えてみる必要がある。
だがサウジカップなら5着でも、日本のダートGⅠ並である。
アシュレイリンクとどちらを取るのか、その問題がなくなったのはありがたい。
しかしサウジカップで、本当に上位に入着出来るのか。
いくら賞金が高いといっても、それは上位に入着してこそ。
ただサウジカップは招待競走で、完全にあちらが経費を負担してくれる。
なので馬主としては、諸手を挙げて賛成である。
サウジカップで優勝すれば、それだけで進上金が1億を軽く超える。
なんならこれだけで、あとは一年乗らなくてもいいぐらいだ。
ただここは他の騎乗予定のオーナーに、断りの話をしないといけない。
そういった仕事をするのが、エージェントの城崎である。
ぶくぶくと太ったモーダショーを、しっかりと絞っていく。
京都記念で一叩きして、そこから大阪杯へ。
春の一番の目的は天皇賞。
この流れにアシュレイリンク、ソウルハンター、ヴァリアントロア、そして3歳のクラシック組が入ってくる。
レース選択は千草や、城崎と話し合って決めているのだ。
強力なお手馬が多いと、むしろ大変になる。
ただ今年は海外遠征が、去年よりも多いはずだ。
優姫としてはそれは、ドバイと香港を中心としたい。
今年はもう、メルボルンカップはいいかな、と思っている。
去年の優勝実績により、さらに斤量が増加するからだ。
馬のことだけを考えていたい。
しかし優姫は人間なのである。
時々……でもなく、しょっちゅう忘れそうになるが。
スポーツに関連した、個人や団体の表彰。
儀礼的に参加してみれば、見知った顔がある。
「……コノアイダハハコンデモラッテアリガトウゴザイマシタ」
「おう」
2mの巨漢は、全く気にしていないようであった。
日本国内での知名度で、ほぼトップクラスのアスリート。
男女それぞれのトップ、と言ってもいいであろうか。
もっとも女子の場合は、ゴルフのメジャー大会で勝った選手もいて、日本女子ゴルフ黄金時代になっていたりする。
そちらはそちらで三人ほどが競い合っていて、誰か一人が突出しない、という状況もあるだろう。
優姫が女子のアスリートで、一番突出して目立つ理由。
それは競馬という競技の特殊性にあるだろう。
毎週の週末には、そこそこ大きなレースが行われる。
頻度としては多いが、しかし大きなGⅠであっても、3分ちょっとで終わるのだ。
これは短い時間で、結果を得たいという現在の文化と、ものすごく相性がいい。
まず馬があってこそ、と優姫は思っている。
だが実際のところ、やはり喋らない馬よりは、喋る人間が可視化しやすい。
もちろん馬には馬なりの、意外性という圧倒的な武器もあるのだが。
しかしこの二人が並んでいると、担当のカメラマンがフラッシュを焚いたりする。
「フラッシュは焚かないで」
思わず習慣でそう言ってしまったが、ここは競馬場でもトレセンでもない。
誰かの意図なのか知らないが、二人の席は近くにあった。
「なんか面倒なマスコミがいたけど、そっちは大丈夫だったか?」
「私はトレセンに籠城すれば、だいたい守ってもらえるから」
「ふうん。競馬ってのはそういうものなのか」
「そちらは?」
「俺は元から周りはうるさいし、もう少ししたらアメリカに戻るし」
そう、活躍の舞台はアメリカなのだから、接点はあまりなくなる。
優姫が競馬に乗るのは、およそ年間100日強の週末。
加えて地方競馬と、毎日の調教などとても忙しい。
対して野球もMLBであれば、シーズン中はほとんど休みがない。
ただオフがあるだけ、まだしも自由はあるだろうか。
とは言ってもジョッキーも、平日はかなり自由が利くのだが。
生き物相手の世話は大変だな、という話になった。
「将来的には牧場をしたい」
「ふ~ん、千葉のあんな感じに?」
「いや、北海道で馬産をしたい」
「北海道はいいな」
札幌近辺しか知らないが、これは本音であった。
「クマ猟したいんだよな。俺も30歳までには引退するつもりだし、その時には拠点にさせてくれよ」
「……熊を撃ってくれるなら歓迎するけど……」
特に急激に親密になるというわけではない。
だが双方への理解は、少しずつ高まっていく二人であった。
※1 NAR(地方競馬全国協会)
中央競馬(JRA)とは別に、都道府県や市区町村(地方公共団体)が主催する競馬を統括・管理する公設の公益法人。
※2 10%
日本の場合は進上金は、賞金の5%となっている。
一方で海外では、1着ならば10%で、それ以下は5%という場合がある。
またヨーロッパではレースによって違い、順位が低ければ5%よりさらに低いということもあったりする。




