第102話 夢のまた夢
負傷乗り替わり。
競馬においては、よくあることである。
あまりあってほしくないものなのだが。
「あまねるは?」
「ひどい怪我じゃないけど、さすがに騎乗はね」
「了解」
優姫は強く頷いた。
『騎手変更のお知らせ』
ターフビジョンに表示される、その一文。
これでスタンドのギャンブラーたちは、頭を抱えることになる。
待機所のジョッキーたちは、当事者かそうでないかによる。
道営の一年目から、リーディングジョッキーへの乗り替わり。
それを見るだけであるなら、鞍上強化である。
しかし土壇場の、完全なテン乗り。
条件戦ならばともかく、グランプリでこれはどうなのか。
地方競馬の馬なのだ。
だが優姫は何度も、その走りを身近で見ている。
最初は函館で、その次は札幌で。
特に札幌では、必勝のつもりで戦って負けている。
さらにジャパンダートクラシックでは、ダート三冠を妨げられている。
先月のジャパンカップ。
歴史を更新するレースは、まさに当事者として見ていた。
「最高の代役が、よりにもよって空いてるとか……」
誰かが言ったが、確かにその通りである。
アシュレイリンクに勝つつもりで、アシュレイリンクを研究してきた。
そのジョッキーが、長所と短所を理解した上で、騎乗するのである。
さらに他の人間は知らないが、優姫は春田も見ている中で、天音と勝つ手段を考えていた。
本当に、これ以上はない代役である。
優姫は珍しくも、緊張している自分を感じる。
心臓の鼓動が激しいのだ。
(いや、これは違う)
緊張ではない。
これは期待だ。
具体的には、ドキドキもあるが、ワクワクがそれを上回っている。
集中しなければいけない。
もちろんいつも適当に乗っているわけではないが、リラックスして今日は乗っていたのだ。
本番はもう、昨日のホープフルSで終わったと思って。
(私が負けるわけにはいかない……)
それは本来なら、プレッシャーになるはずの感情だった。
待機所に戻ると、空気が変わっているのが分かった。
勝負服を着替えて、検量を待つ。
夢のグランプリと言われるレース。
去年はリラックスして、乗ることが出来たのだが。
(全部、頭の中に入ってる)
他の馬の情報に、鞍上のジョッキーの情報。
普段と変わることなく、ただ勝つことだけを考えればいい。
有馬記念で適切な助言をするため、アシュレイリンクの乗り味などは、完全に天音から聞いているのだから。
天音は氷の上に、何度も叩きつけられてきた。
だから今回の落馬が、どの程度のダメージを与えたのか、自分でも判断出来た。
医務室のベッドに寝転がり、レースが始まるのを待つ。
(馬が無事で良かった……)
天音が落ちたのは馬群の後方で、蹄にかけられることもなかった。
空馬はそのまま、最後に直線で差し切って、先頭でゴールしたらしい。
ついていない、とは思わない。
ただの打ち身であって、骨も折れていなければ、腱が切れたりしたわけでもない。
あの時の絶望とは、全く違ったものだ。
(次こそは……)
そう、次がある。
中央への移籍の試験に通れば、天音はまたアシュレイリンクに乗れる。
自分が乗らないアシュレイリンク。
思っていたよりも早く、それを見ることになってしまった。
パドックを歩むその姿。
おそらくあの女なら、アシュレイリンクに栄冠を与えるだろう。
(あとはどうやって……)
アシュレイリンクにどう乗るか。
そこから学ぶものがあるはずだ。
どれだけ悔しくても、それは目に焼き付けておかないといけない。
パドックで停止し、騎乗する前。
優姫が春田と、何かを話しているのが分かった。
そして春田が怪訝な顔をしたのも。
(なんだろう……)
分かるはずもないが、分からなければ勝てないのだろうか。
騎乗した優姫に、カメラは合わされていく。
春田が慌てて移動するのを、天音が知ることはなかった。
優姫は勝つつもりでいる。
でなければあんなことは言わない、と春田には分かる。
(しかしまあ……)
意図は完璧に分かる。
ホースマンであれば世代を超えて、誰だって分かるようなことなのだ。
(伝えるには……)
出来なければそれでもいい、と優姫は言っていたのだ。
だがこれはやるべきことだろう、と春田は思った。
そして出来てしまった。
出来るとは思っていなかったのに。
茶目っ気というか、なんというか、なんなのだろう。
対応したのもJRAの職員であるから、分かってしまったとも言えるであろう。
春田の書いたメモは、それぞれ内容を確認され、本当に通ってしまったらしい。
「春田先生、どうしたんです?」
招待された馬主席に戻る前、千草がそう声をかける。
昨日のホープフルSのついでに、今日も中山に帯同馬を出走させていたのだ。
「いやそれが……」
優姫に頼まれたことは、ある意味ではとても簡単で、全く悪意はないものであった。
しかし普通ならば、通るはずもないのでは、と思った。
だがホースマンであれば、それがどんな意味を持つのか分かる。
「あの子は本当にもう……」
千草は呆れたが、優姫には本当に珍しい、可愛らしいいたずらだと思った。
『あなたの、そして私の夢が走ります』
このフレーズで、有馬記念は始まる。
別にいつもこのフレーズでもないし、決められているというわけでもないが。
放送席からはしっかりと、輪乗りをしている各馬が見られる。
絶対的な強者と思われた、ヴァリアントロアが回避。
それとほぼ互角であったアシュレイリンクを、どれだけ評価すべきか。
確かにジャパンカップはいいレースであったが、完全にヴァリアントロアをマークしていたからだ、という意見も聞く。
だがここで、まさか乗り替わりがあるとは。
そして渡されたメモ。
『私の夢はアシュレイリンクです』
そう、3歳で有馬に勝っても、おかしくはないはずだが。
優姫が乗ったことで、他の馬のジョッキーたちは、おそらくさらにアシュレイリンクを警戒する。
天音のままであったならば、彼女は中山初体験、というマイナス要素があった。
だがまさかコースを知るための騎乗で、落馬負傷となるとは。
『フォーリアナイト、メテオスカーレット、ボーンクラッシャーの3頭が4歳の四強とは思います』
そう解説してもらっているが、世代間の強さはどう比較すればいいのか。
ヴァリアントロアは確かに、強い馬ではあった。
2歳のGⅠを勝って、最優秀2歳牡馬にも選ばれたのだ。
だが3歳の初戦では、2000mを敗北。
皐月賞は勝ったが、ダービーは距離がもたないと回避。
しかし気性が改善されたとして、ジャパンカップには出てきて勝った。
情報は集まっている。
だから優姫が選択したのだ、ということも知っている。
(天才と言うのかな)
何度も取材に応じ、インタビューもされている。
天才と言うには、あまりにも理路整然としていて、訳の分からない勝利というものはない。
彼女は、このレースに勝てると確信しているのか。
(競馬には絶対はない……はず)
優駿たちがゲートに入っていく。
アシュレイリンクも問題なく、ゲート入りを終える。
緊張の瞬間である。
有馬記念はスタートの直後で、数頭はもう無理、という状態になりやすい。
大外枠のメテオスカーレットなど、かなり不利だと言えよう。
それでも追い込み馬ならば、まだしも勝算はあるのか。
中山の短い直線で、果たしてどれぐらいのことが出来るのか。
ゲートが開き、レースが始まった。
自分の生産した馬が、有馬記念を走っている。
富田林にとってみれば、ダービーは絶対に無理だと思っていた。
そもそも中央に入厩するような馬を、作れていなかった。
だが有馬記念であれば、善戦マンがファン投票で上位に入ることもある。
そう思うとやはり、夢のグランプリなのだ。
「なんとか……なんとか……」
「落ち着いてください」
春田はそう言うが、自分の厩舎に所属している馬が、有馬記念を走っている。
地方の調教師がまさか、こんな経験に恵まれるとは。
大井のレベルは高いと言っても、まずそんなことはありえない。
勝つだけの能力はある。
だが能力だけでは勝てないのも、競馬であるはずなのだ。
「4コーナーは上手く回ってますね」
「だけんどかなり、周りに集まってきてないべか」
アシュレイリンク包囲網。
いや、天海優姫包囲網と言うべきであろう。
鞍上強化されたことで、さらに警戒は強まったと言える。
ジョッキーは全員が、警戒してもおかしくないのだ。
なぜならば、優姫は今年、秋天とジャパンカップを勝っている。
つまりこの有馬記念。
勝てばジョッキーとして、秋古馬三冠を達成する。
もちろんそれに対しては、特に奨励金などのボーナスはないのだが。
確かに囲まれてはいる。
だがそれは想定内の話なのだ。
比較的いつもよりも、先行集団の競馬をしている。
こういうパターンも、優姫は想定していたのを知っている。
「中山だから、最後には必ず前が空きます」
小回りコースであると、馬がどうしても外に振られる。
しかし気がかりなことはある。
ポジションとしては問題ないが、ペースがかなり遅いのではないか。
前残りの競馬になる。
逃げ馬を捕まえることが、出来ないのではないか。
(カルマインザダークが、まさかの1着とか……)
だが有馬記念は、大穴が勝つことも多い。
去年も比較的、そんな決着であった。
ぶつぶつと念仏を唱える富田林の横、春田は向こう正面にアシュレイリンクの姿を見る。
前にいることはいるのだが、前も両横も塞がれている。
(大丈夫だ……)
確かにアシュレイリンクは、差し馬か追い込み馬、という印象が強い。
だが別に気性が悪く、暴走する危険がある馬ではないのだ。
折り合っている。
カルマインザダークも、スローのままで逃げている。
(本当に大丈夫か?)
もしも他のジョッキーが、全員アシュレイリンクを、優姫をマークし続けていたら。
ならばカルマインザダークが、完全に漁夫の利を得ることになる。
もっともこれぐらいの差であれば、アシュレイリンクの末脚で勝てる。
GⅠの掲示板に載って、ある程度強さはある。
重賞ならば二つ勝っていて、地力がないわけではない。
そういった馬が、勝ってしまうこともあるのが有馬記念。
鞍上は穴馬の逃げに強い男。
そろそろまずい、と誰が考えるか。
4コーナーの手前で、集団は動き出した。
先行集団が大きい。
カルマインザダークはもう、さほどのリードもない。
だがこのペースで走っていれば、充分に脚は残っている。
あとはこれで、後ろから届くかどうか。
『カルマインザダーク! まだ粘っている!
外に持ち出したメテオスカーレットとフォーリアナイト!
さあ追い込み2頭がやってくる!
真ん中から馬群を割ってボーンクラッシャー!
まだ2馬身のリード、カルマインザダーク!
中山の直線は短いぞ!』
アナウンサーとしては、もちろん注目馬は考慮に入れるが、全てを公平に見ないといけない。
だが強い4歳馬が目立つ、というのも確かであった。
しかしそこにさらに、抜けてくる馬がいる。
『マジックマイスターも抜けてきた!
そしてそれに続いてオグリ! ……失礼しました! アチュレイリンク! アシュレイリンク!
やってきた地方の星!
前にぐんぐん迫っていく!』
ああこれは後で、ひどく笑われるな、と思った致命的な解説ミス。
だが仕方がないではないか。
あのオグリキャップの子孫が、こうやって前に来ているのだから。
普通にありうることだが、中山の小回りと、自身の馬の勝利を優先。
そのために4コーナーでは、アシュレイリンクの包囲は弱くなっていた。
それでも充分に、周囲は密集していたはずだが。
天海優姫は見逃さない。
折り合いと決断力。
おそらくは接触もあっただろうが、優姫は構わず馬を追う。
先に抜け出した、今年のダービー馬をかわす。
あとは前に2頭、後ろから強いのが2頭。
包囲網はもう完全に機能を失っている。
短い中山の直線でも、末脚は爆発するのだ。
道営では基本的に、前からの競馬をやっていた。
札幌記念では差して、ジャパンダートクラシックでは追い込み。
ジャパンカップではわずかに届かず。
そんなアシュレイリンクの目には、幻のヴァリアントロアが見えているのだろうか。
唯一土をつけた、あの馬の姿が。
やはり前残りのレースになる。
カルマインザダークが、残り50mでまだ先頭。
だがその50mで、アシュレイリンクは抜いていく。
残りは後ろからの2頭。
メテオスカーレットを振り切って、フォーリアナイトがやってくる。
しかし中山の直線は短い。
残り1馬身届かず。
アシュレイリンクは先頭で、ゴール板を通過したのであった。
『勝った! 勝った! 天海が勝った!
アシュレイリンク! 有馬記念を勝利!
《《右手を上げた天海優姫》》!
オグリキャップの血が、有馬記念に戻ってきた!』
なお優姫が上げていたのは左手であった。
その瞬間、滂沱の涙を流す、年配競馬ファンが多くいた。
やがて湧きあがるコール。
それはアシュレイリンクでもなく、優姫でもなく、オグリの名前を呼んでいた。
「リンク、ご苦労様」
耳元でそう囁く優姫。
あの頃に比べれば、スタンドの収容人数は減っている。
しかし熱量は、こういうものであったのだろう。
ウイニングランを終え、スタンド前で存分に、その歓声を浴びる。
優姫はもう手を上げることもなく、ただその姿を見せていた。
芦毛の怪物。
地方からやってきて、3歳にて有馬記念を制覇。
まさにオグリキャップがやったことで、優姫はそれを再現した。
偶然だがレースの内容も、少しそれと近い。
マークの集中によるスローペース。
ただ折り合いがついたのは、優姫の技術によるところがあるが。
それに決着タイム自体は、それほども遅くならなかったのだ。
勝利ジョッキーインタビュー。
有馬記念の最年少優勝記録を更新。
三年目、21歳と一ヶ月での勝利。
レース内容自体は、スタートから折り合って、先団でじっくりと待機して、隙を見つけて抜け出すというもの。
全く新しくも、奇抜でもなかった。
「馬が強いとは知っていたので」
モーダショーとソウルハンターで負け、ヴァリアントロアでは勝った。
だから一番、中央でこの馬を知っているのは優姫であった。
今年の四月まで、デビューは遅れた馬であった。
四戦目で重賞初勝利、ということ自体は珍しくないが、それが3歳の札幌記念は珍しい。
わずか八カ月で、グランプリに勝ってしまった。
晩成なのか早熟なのか、よく分からない馬である。
インタビューは続く。
優姫の目からは、涙が一筋こぼれていた。
それは驚きであったが、本人も気づいていない。
この勝利こそ、優姫が欲しかった勝利であるのかもしれない。
「ありがとうございました」
優姫が言いたかった台詞を、インタビュアーが言ってしまった。
手の中にある、小さなメモ。
そこにはたったの一文が書かれているのみである。
『勝ったら天海は左手を上げる』
それだけであって、しかし充分に意味は分かった。
証拠となるこれは、抹消しなければいけない。
だが破りかけて、綺麗に折りたたんでおく。
これは保管しておくべきであろう。
伝説の欠片として、やがてほとぼりが冷めたころに、競馬博物館に寄贈すべきものであろう。
第○回 有馬記念において、騎手○○は入線直後のパフォーマンスおよび関連する言動について、「競馬の品位を損なう恐れのある紛らわしい行為」として、裁決委員より厳重注意を受けた。




