第101話 決戦の週末
アシュレイリンクの弱点を、陣営は分かっている。
そして優姫もまた、その点は懸念していた。
「本当は右回りは苦手なのでは?」
その通りである。
右回りの競馬場でも勝っているのは、あくまでも絶対能力の差。
左回りのジャパンカップは、本当に強かった。
しかし有馬記念は、右回りの上に小回りである。
オグリキャップは有馬記念に二度勝っている。
だがアシュレイリンクは当然、オグリキャップではない。
戦い方が違うのは当たり前のこと。
ただスピードの絶対値は、間違いなく高い。
母系から代々、継ぎ足されていったものだ。
作戦については頷けるものであった。
同時に二人は考える。
ヴァリアントロアが出ていたら、おそらく勝てなかったであろう。
あの小柄な馬は、軽いだけに小回りのコースでも振り回されにくい。
皐月賞に勝てたのは、それも理由としてあるだろう。
もっとも府中でも勝っているので、どちらでも強いわけだが。
優姫はアシュレイリンクの、曳き運動までして帰っていった。
「あの人、何しに来たんだろ……」
「ただの馬好きだろ」
「……」
まあそう言うのも確かに、間違いではないのかもしれないが。
どうも全く、ライバル視されていないのが、不満の天音である。
天音は馬が強いだけ、ではない。
レース数が多いとはいえ、一年目の勝ち鞍は優姫よりも多いのだ。
天才という意味では、むしろ天音の方が天才なのである。
優姫はそう言わないし、言ったとしても信じられないだろうが。
「有馬記念か……」
日本で最大のレース、とも言われる。
この有馬記念で引退、という馬も多いのだ。
冬場はフィギュアスケートにしても、大きな大会が行われるシーズンであった。
日本の著名なスポーツでは、多くがシーズンオフになっている。
年末最大のイベント、とも言われたりする。
天音はその、大舞台に挑むのである。
「プレッシャーは?」
「普通にあります」
プレッシャーには勝つのではなく、認めるべき。
ただ反発しているだけでは、結局プレッシャーに壊されてしまうのだ。
プレッシャーはそこにある。
それを認めた上で、飲み込まないといけない。
メンタルのコントロールは、様々な方法で行うことが出来る。
しかし天音の場合は、それとは正面から対峙していた。
逃げようと思っても逃げられない。
逃げるぐらいなら最初から、勝負の舞台には出てこない方がいい。
(勝つ)
それが出来る、自分と相棒を信じていた。
アシュレイリンクはオグリキャップに似ている。
子孫だから、というわけではない。
オグリキャップの産駒は、ほとんど父に似た馬はいなかった。
あえて言うなら、1頭もいなかった、と断言してもいいだろう。
「まあ、今年はホープフルSに、全力を尽くしてくれ」
千草の言葉は妥当であるし、あとは東京大賞典が残っている。
事実はともかく、感覚としては有馬記念で、今年の競馬は終わる。
かつて中央と地方が交流してなかった頃は、まさにそれで間違いなかった。
現在は東京大賞典の方が後にある。
日程が完全に固定していなかった頃は、先にあった年もあるのだが。
ホープフルSを勝てるかどうか。
そこまで極端に期待してはいない。
ただ体型から見て、そこそこの距離は走れると思ったのだ。
実際に中距離までは、問題なく勝っている。
しかしダービーが勝てるか、と言われるとそれほどの手ごたえは感じない。
そう毎年毎年、クラシックを勝てる素質馬が回ってくることはない。
問題は来年、どのように動いていくか。
そこそこ勝てる牝馬も、お手馬にしつつある。
だが来年は3歳クラシックではなく、古馬路線の王道を走っていくことになりそうだ。
モーダショーも香港から戻ってきて、ヴァリアントロアも治療中。
蹄自体は来年の、春には元に戻りそうではあるのだ。
ドバイに行くべきか。
だが今年の菊花賞のレースを見ても、モーダショーには春天の連覇を期待したい。
それまでには一度、少し短い距離を走らせたい。
どうしてもここまで、いい感じの距離の重賞を勝てていないのだ。
負けても順位は高いので、能力の証明にはなっているが。
来年はアシュレイリンクを、鳴神厩舎で一年預かる。
5歳になったらまた、移籍なり天音に返却なり、考えることはあるが。
GⅠ馬が何頭もいる、豪華な厩舎。
鳴神厩舎は本当に、今年はリーディングを取れそうであったのだ。
ヴァリアントロアが有馬に勝っていれば、確実に取れただろう。
厩舎のリーディングは、1頭の稼ぎだけで決まるわけではない。
だが確実に、オープン馬は増えてきた。
ヴァリアントロアの調子を確かめ、アシュレイリンクの作戦を伝え、後はインタビューなどに応じる。
若い女がトップジョッキーとなる。
これは新しい風、と感じている人間もいる。
もっとも女性の活躍、という文脈には優姫は反対する。
この勝ち鞍と勝率は、間違いなく女性騎手への、斤量特典が関係しているのであるから。
SBCファームでの育成などを見て、金曜日には調整ルームへ。
中山での二日間に、あとは東京大賞典。
ソウルハンターがいてくれて良かった。
せっかく今年は大活躍したのだが、それでも有馬記念に乗鞍がないと、ちょっと寂しいのは確かなのだ。
トップジョッキー16人しか、有馬記念には出られない。
そこに天音がいるのは、なんとも不思議なことであるが。
あるいは天音は、メンタル的な問題があるかもしれない。
プレッシャーの問題であるが、それなら既にJpnⅠやジャパンカップを経験している。
優姫は自分が自分なので気づかなかったが、天音も相当に神経が太い。
幼少期からシビアに採点される、競技をやっていたからであろうが。
世界の舞台を、彼女は知っているのだ。
早めに到着して、持ってきた本などを読む。
この時間を潰すのには、麻雀仲間が揃うのを待たなければいけない。
趣味としてやっているのは、種牡馬の血統を眺めること。
(昔と違って、パソコンを使った方が圧倒的に速い)
そのあたり本当に、調整ルームは隔離されている。
ある程度の待遇を変えることは、それなりに昔から言われている。
だが変わらないのは、やはり八百長を恐れる姿勢からだろう。
いっそのこと完全にネットワークを遮断したパソコンを、部屋に設置してくれないものか。
そうすれば数式を使って、種牡馬のデータ分析などは行える。
もっとも今の分析は、ネットワークを通じたAIが行っているので、計算式を使うぐらいになるか。
繁殖牝馬までフォローしていくと、あまりに数が多くなる。
将来的には生産を行う。
そのために必要なのは、まず優れた牝馬だ。
種牡馬を己の手の内に置いておく。
それは出来るだけ避けたいことであるが、やるべき時はやるだろう。
ブランドの価値だけを考えて、ミスタープロスペクターやダンジグを見逃しては悔やむに悔めない。
どんな配合にしようか。
血統表を作っていると、時間を忘れる。
それでもお呼びがかかるのが、競馬界の麻雀王と呼ばれる由縁。
だがそれを知らせに来たのは、天音であった。
「なんで今日からいるの?」
「馬場を確認するために、馬を手配してもらったから」
ちょっと手続きが必要なはずだが、それも上手く通せたのか。
彼女の今年の勝ち鞍などを見ていれば、乗せてみたいと思うオーナーは多いだろう。
特に地方出身なので、ダートに関しては。
「あまねるは麻雀する?」
「いや、勉強が必要だから」
中央移籍のための試験は、内容がそれなりに難しいのだ。
優姫の渡した課題は、彼女の中ではまだ消化しきれていない。
有馬記念前日のホープフルS。
まだ新しいこのGⅠは、2歳最強の決定戦である。
かつては成長するごとに、走る距離も伸びるという考えがあった。
そのため2歳の重賞は2000mまでであったし、1600のマイルが最強馬決定戦であったのだ。
だが今は、マイラーは生来のマイラーという考えが強い。
ホープフルSにやってくるのは、クラシックを見据えた馬である。
シュガーホワイトと共に勝利した、初めてのGⅠ。
かつての相棒はあと少しすれば、父になる。
産駒でまた、頂点を目指すのか。
ヴァリアントロアは現在、戦績を見ても最強馬と言える。
だが自在性などを考えれば、やはり今でもシュガーホワイトの方が、総合的には強いと思える。
早くに死んだ子供ほど、良い子であったと思える心理かもしれないが。
中山の2000m。
アイアムヒーローはやや、小回りが得意ではない。
父親もそうであったので、そこを克服する必要はある。
もしも来年も皐月賞を制すれば、優姫は三年連続で皐月賞ジョッキーとなる。
クラシックを同じ騎手が連続で勝つ。
二連覇まではともかく、三連覇はほとんどいない。
古馬のレースであれば、まだしも三連覇はありうるのだが。
来年の優姫は、徹底的にマークされるだろう。
またアイアムヒーローのポテンシャルも、シュガーホワイトやヴァリアントロアほどではない。
ジョッキーの腕以上に、幸運があってこそ勝てるであろう。
(重賞はもう勝ったし、ここで無理をする必要はないけど)
皐月賞は、そこまでこだわってはいない。
だがダービーに出るためには、これ以上の相棒を得るのは難しい。
優姫はGⅠではなく、八大競走という意識で数える。
またGⅠにしても、格の高さはかなり考える。
クラシックに比べれば、2歳やNHKマイルCは格下。
大阪杯や宝塚記念は、同じ古馬GⅠでもそこまでの価値はない。
これはもう完全に、本人の価値観の問題である。
八大競走制覇まで、あと三つ。
桜花賞、ダービー、そして有馬記念。
個人的には有馬記念は、ヴァリアントロアが完全なら、勝てたのではないかと思っている。
小柄なためコーナーを曲がるのが上手いし、皐月賞で中山の直線を勝っているからだ。
だがもう出られないものは、どうしようもない。
来年はまだ4歳。
完治すれば充分に、勝てるレースのはずである。
今日のメインレースであったホープフルS。
ネバークライ産駒のアイアムヒーローは、外枠からのスタートである。
脚質は父と同じで、先行からの差し、あるいは早め抜け出しの粘り込み、というのが向いているようである。
ここまで三連勝のアイアムヒーロー。
鞍上が優姫ということもあって、マークされるのは分かっている。
むしろここは、負けてもいいだろう。
その方が本番で、マークが少しでも緩くなる。
もちろん今後のためにも、収得賞金は稼いでおきたい。
(2着が一番いい)
そう考えてはいるが、本当に上手くいくのか。
また1着を取れなかった場合、乗り替わりを考えなくてもいいのか。
鳴神厩舎の馬ではある。
騎手の決定権は、千草にある。
転厩させてまで、他の騎手に変えるメリット。
あまりないだろうな、とは思うのだが。
(相当の名馬でも、普通はある程度負けるから)
この馬もおそらく、適性はマイルから2400まで。
乗り方によっては、菊花賞の距離も走れるかもしれないが。
結果としては、2着になった。
スタートから相当に、マークされたというのが大きい。
他の馬が順位を上げにいった隙を見て、なんとか2着には滑り込んだ。
優姫としては完全に計算通り。
あとはオーナーに対して、どう言い訳をするかである。
「3歳の秋には本格化するかな」
「秋かあ~」
それほど怒っていなかったのは、さすがにここまでGⅠをあっさり取れると、調子よく考えていなかったからだろう。
関西の大物馬主だけに、ある程度の度量は見せるといったところか。
「ワシ、皐月賞とダービーは取ってるのよね」
それだけ長く、高い馬を買ってきたのだ。
「だから今どきと言われるかもしれないけど、菊のタイトルがほしいんや」
今どきとは言うが、2000も勝てる馬であれば、むしろ菊のタイトルは好ましい。
適性距離をさらに正確に言うならば、2000から2400ぐらいが一番だろう。
菊花賞を勝つのは、ちょっと難しい。
これは絶対能力の問題ではなく、相対能力の問題。
またこの2歳の末には出てきていない、晩成の馬が出てくるかもしれないからだ。
そういう点では皐月賞とダービーは、早めに候補が見つかるとも言える。
「優姫ちゃんは長距離上手いから、なんとか勝ってほしいなあ」
「全力を尽くします」
必ず勝つと言うには、菊花賞は長距離特化した馬の方が、それなりに勝ちやすい。
2週連続、正確には香港を入れれば、4週連続でGⅠを2着。
あと一歩足りないと言うべきか、それとも安定していると言うべきか。
それぞれ別の馬で、この結果を残している。
なので超一流と言う方が、もちろん正確なはずである。
だが有馬記念に出走しなくても、東京大賞典がある。
(あっちでは勝ちたいな)
そう考えて、ゆっくりと眠りに就く優姫であった。
緊張感の足りない朝が来た。
それでも早朝からしっかりと、馬場の状態は確認する。
「昨日よりも馬場が荒れてる……」
「有馬記念までには、まだ荒れるから」
協力して馬場を見ている、優姫と天音。
このコンビによる確認作業は、他のジョッキーを警戒させた。
アシュレイリンクがとんでもない馬なのは、ジャパンカップで証明されている。
3歳で秋天を勝ったヴァリアントロアと、同タイムのハナ差決着であったのだ。
ヴァリアントロアが出ないこのレースでは、能力では一番のはず。
そう思っているジョッキーはいたが、天音の圧倒的な経験不足が、有馬記念と言う難しいコースの攻略を不可能にする、という見方もあったのだ。
地方ジョッキーは、純粋な技術なら、中央を上回ることはおかしくない。
天音にしても一年目から、70勝をしている天才とは言えるのだ。
だが中山の2500を、果たしてこなせるのか。
そこに付け入る隙が、あるはずであった。
(((余計なことしてんじゃねー!)))
有馬記念に乗らない優姫が、まさか協力するとは。
アシュレイリンクが、有馬記念にも勝ったとする。
するとアシュレイリンクに勝った馬は、ヴァリアントロアだけとなる。
なので応援する、という理屈はおかしくない。
おかしくはないし、若手に危険な箇所を教えるなど、ごく普通のことである。
その教えている方も、まだ三年目の若手なのは異常だが。
JRAの最終日が始まった。
優姫はこの日もあっさりと、二つ勝ち鞍を増やしている。
(有馬記念に乗るつもりだったから、少なめにしたのに)
そしてここから天音が、芝のレースを走ることになる。
中央の馬主と交渉して、確保した条件戦。
普通に斤量特典で、勝ちやすいのは確かだった。
騎乗スタイルをぼんやりと見つめる優姫。
バランス感覚が素晴らしく、そして馬とも折り合える。
(再来年は、競う相手になるかな)
そう思っていた視線の先、画面の中で馬がもみ合う。
そして天音が落下した。
あのバランス感覚でも落ちるのか、という驚き。
だが普通に名手であっても、落馬は起こることである。
問題は人馬の負傷だが、空馬はそのまま走っていってしまっている。
天音もちゃんと、ゆっくりと立ち上がることは出来た。
自分の足で戻ってくるので、たいしたことはなかったのだろう。
考えてみればフィギュアスケートは、何回も転ぶ競技である。
ほっとした優姫であるが、待機所に職員が入ってきた。
「天海騎手、こちらへお願いします」
「はい」
ほいほいとついていくと、検量室で待っていたのは春田であった。
「……天海騎手、アシュレイリンクへの騎乗をお願いします」
挨拶も何もなく、本題をいきなり。
優姫が状況を認識するのには、わずかな時間が必要であった。




