第19話 誘惑の座と『撤退』
最上階への扉を潜った瞬間、俺たちは言葉を失った。
そこは、これまでの階層とはまるで異質な、荘厳な玉座の間だった。
中央の玉座に腰掛けていたのは、六枚の白銀の翼を持つ、絶世の美貌の天使――ナアマだった。
「――ようこそ、我が塔の頂へ」
声だけで、全身が痺れるような感覚に襲われる。
「メメ、『清心の光』を!」
「――は、はい……! 『清心の光』!」
淡い光が四人を包み込んだ。
「ほう。……対策済みか。面白い」
ナアマは、興味深げに微笑んだ。
「だが、それしきで我が誘惑を凌げるとでも?」
――刹那、視界が歪んだ。
「な……!?」
『清心の光』の加護を、まるで薄紙のように突き破って、甘やかな魅了の波が全身を包み込む。
「くっ……! 効いて、る……!?」
「対策なんて、気休め程度にしかならなかった、ってこと……!?」
ノノが弓を構えたまま、僅かに足元をふらつかせる。
「グ、おおお……! 意識が、持っていかれる……!」
ルピンでさえ、明らかに動きが鈍っていた。
「――さあ、踊れ、我が舞台で」
ナアマが優雅に指を鳴らすと、周囲の空間そのものが、幻惑の渦へと変貌していく。
◇
戦いは、これまでのどの階層とも比較にならない一方的なものだった。
「『黒流岩』――!」
長い詠唱の末に放たれたノノの魔術は、ナアマの纏う光の障壁にあっさりと弾かれる。
「無駄だ。……この程度の力で、我に届くとでも?」
「くっ……!」
俺は槍を構え、渾身の力で踏み込んだ。
「――ハアッ!」
だが、槍先はナアマの体に届く前に、見えない力場に阻まれた。
「悪くない突きだ。……だが、まだ生温い」
軽く指を振るっただけで、俺の体は吹き飛ばされ、玉座の間の壁に叩きつけられた。
「がっ……!」
「ディア!」
「メメ、回復を……! いや、それより――」
俺は歯を食いしばりながら立ち上がった。
(――このままじゃ、全滅する)
草原・溶岩・豪雪・迷宮と積み上げてきた力は、確かに以前とは比較にならない。だが、この上級ダンジョンの主は、その積み重ねすら軽々と凌駕していた。
「グ、ぬぅ……!」
ルピンが盾で防御を固めるも、魅了の波に何度も意識を持っていかれ、まともに反撃できずにいた。
「――もう、限界……」
メメが、力なく膝をつく。
ナアマは、玉座に頬杖をつきながら、退屈そうに俺たちを見下ろしていた。
「……つまらぬ。今日のところは、この程度で退いてやろう」
「な……」
「まだ、我を楽しませるには早すぎる。……出直してくるがいい」
指先が軽く動いた瞬間、俺たちの体は光に包まれ、強制的に階層の入口へと転移させられていた。
◇
気づけば、俺たちは全員、迷宮エリアの入口付近に転がり込んでいた。
「――負け、た……」
俺は槍を杖代わりに、なんとか体を起こした。
「あれが、上級ダンジョンのボス、か……」
ルピンが、悔しさを滲ませながら唸る。
「私たち、あんなに頑張ってきたのに……全然、届かなかった」
ノノが、拳を握りしめる。
「今の俺たちじゃ、まだ届かない相手だった、ってことだ」
俺は静かに言った。悔しさはあったが、同時に、これが自分たちの現在地だという事実を、素直に受け止めるしかなかった。
「――一旦、外に出よう。仕切り直しだ」
◇
転移陣を使い、俺たちは地上へと戻った。
「――皆、無事か!」
宝物殿で迎えてくれた同郷のサキュバスたちの表情が、どこか強張っていることに気づく。
「どうした」
「……集落の跡地に、人間の一団が現れたんです。……何かを、探しているようで」
俺は眉をひそめた。
「探している?」
「はい。……装備からして、腕利きの冒険者たちのようでした」
嫌な予感が、胸をよぎる。
俺たちは急ぎ、地上へと足を向けた。
◇
焼け跡の残る集落跡地――そこには、数人の男たちが、瓦礫の中を漁るように歩き回っていた。
先頭に立つのは、使い込まれた鎧を纏った、見覚えのある男だった。
「……ダキオス」
俺は静かに槍を構えた。
「――やはり、貴様か」
ダキオスの声には、隠しきれない怒気が滲んでいた。
その傍らには、屈強な冒険者が三人。腕章からして、いずれもA級相当の実力者と見て取れる。
俺は槍を構えながら、静かに『鑑定』を発動させた。
『先天性スキル:回避』
『後天性スキル:剣術、追跡』
(――追跡、か。道理で、こんな辺境まで迷いなく辿り着いたわけだ)
「――随分な執念だな。よくもこんな辺境まで」
「お前を捜すためだけに、伝手を使ってこの面子を集めた。ルナーラ村の古参たちのつてを頼ってな。……それに、俺には"目"がある。もう二度と、逃がしはしない」
「そういうことか」
「――一つ、聞きたいことがある」
ダキオスが、剣の柄に手をかけながら、静かに問うた。
「お前は、あの雨の夜、橋の上で……俺を転ばせたか?」
その場の空気が、一瞬にして張り詰めた。
俺は、しばし沈黙した。
――答える義理はない。この男に真実を告げたところで、何かが変わるとも思えなかった。
「――お前に話す義理はない」
「……そうか」
ダキオスの瞳に、確信めいた怒りが宿った。
「その反応で、十分だ」
「――抜けッ!!」
ダキオスの一声とともに、A級冒険者たちが一斉に得物を構えた。
「囲め! 各個撃破だ!」
「望むところだ」
俺たちもまた、それぞれの得物を構え直した。
一触即発の空気の中、両者の視線が、激しく交錯する。
「――行くぞ!」
「ハアッ!」
戦端は、瞬く間に切って落とされた。
◇
「死角から来る……! 気をつけろ!」
ルピンが叫ぶ。A級冒険者たちは、辺境伯の護衛だった刀使いや、ダキオス本人とはまた違う、洗練された連携を組んでいた。
「――囲め、逃がすな!」
「くっ……! こいつら、動きの精度が違う……!」
俺は槍を振るいながら、迷宮エリアで鍛えた死霊戦の間合い取りを応用し、複数の敵に囲まれた状況を捌いていく。
「メメ、バフを!」
「――『身体能力向上』!」
「ノノ、援護を!」
「『宵闇の弓』――!」
これまでダンジョンで培った連携が、確かにこの死闘を支えていた。だが、相手も一筋縄ではいかない。
「畜生、押し切れない……!」
ルピンが、盾越しに冒険者の連続攻撃を受け止めながら唸った。
「ディア、そっちは!」
「……互角だ。だが、決め手に欠ける……!」
ダキオス自身の剣技も、以前戦った時よりさらに研ぎ澄まされていた。
「はぁっ……! はぁっ……!」
戦況は、じりじりとした膠着状態へと陥っていく。
決着の糸口が見えぬまま、双方の消耗だけが、静かに積み重なっていった。




