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第8話 赤い戦場

朝霧の中で、遠くを見つめる。

その先にあるのは、かつて自分を助けてくれた人間が住んでいる里。


——痛い。


体ではなく、胸あたりがギュッと締め付けられる感覚がする。


こんな感覚は、初めてだった。


「……ティスレイア様」


アリエルが、初めて口を開いた。


「いってらっしゃいませ」


それだけだった。


「ああ」


それだけ、返した。

アリエルは、深く頭を下げて、こちらの背を見送った。

外に出ると、エルフ軍が整列していた。

丘の向こうに、人間軍の雄叫びが聞こえ始めていた。

エルフ軍の先頭に父王が立っていた。

こちらを一度だけ見て、何も言わなかった。

ただ、視線を、背中に張り付けてきた。


一人残らず斬れ、と目線だけで訴えてきた。


先日、父王に叩かれた頬を片手で軽く押さえた。

腫れていた頬は、もう熱を失っていた。


ティスレイアは、隊列の先へ歩いた。





雄叫びが、近づいた。


霧の向こうから、人間軍の槍先が現れた。

数千、いやもっといた。


剣を抜き、剣に魔力を込めた。


最初に踏み込んできた兵の喉を、横一文字に裂いた。

血が、霧に散った。

二人目は、突き出された槍を払って、肩から胴へ斬り下ろした。

重い手応えだった。


三人目、四人目と、もう数えなくなった。


剣を振り下ろし、また、剣を振り下ろした。


手が、震えていた。

震えながら、それでも、剣は止まらなかった。


人間を殺すたびに、自分を助けてくれた人々の顔がチラついた。


ズキッ、ズキッ。


斬っては、胸が痛む。

そのたびに、気づかないフリをしないと気がおかしくなりそうだった。


ティスレイアの白い服に、血が飛び散り、赤く染まった。





乱戦の中で、若い兵が一人、こちらに向かってきた。


黒髪、琥珀色の瞳、額に三日月の傷。

二十歳そこそこの男だった。


剣を構えていた。

構え方は、稚拙だった。

正規兵ではない、徴募された村の若者の構え方だった。


——どこかで、見た気がする…。


そう思ったが、思い出す前に男が踏み込んできた。


剣を払った。

男の剣が、地に落ちた。

男の体勢が、崩れた。


膝をついた。


両手を、地につけた。


「……た、助けて、くれ」


男の声が、震えていた。


「俺、おふくろが、いて……まだ、幼い、妹も……」


「……」


「頼む、頼む、お願いだ……」


剣の切先を、男の喉に向けた。


——一人残らず斬れ。


父王の声が、頭の中で響いた。


——人間に情けをかけた者の言葉ではない。


頬の腫れが、まだ熱を持っていた。


男の喉が、上下した。

唾を呑む音が、聞こえた気がした。


額の三日月の傷が、汗で光っていた。


(この傷、思い出した。こいつは、あの村にいた男だ)


剣を、引いた。


「行け」


「……え」


「二度と、剣を取るな。他の奴らに見つからないように逃げろ」


男は、信じられないという目で、こちらを見た。

それから、転げるように立ち上がり、後ずさり、背を向けて走り出した。


剣を鞘に戻しながら、別の方向へ歩き出した。


男に背を向けたとき、背後で剣を振り上げる音がした。


風切り音が近づいてきた。


低い、卑怯な角度の音だった。


(遅い!)


避けようとした瞬間、背後にもう一つ気配を感じた。


(……え?)


自分の背後に誰かが立ち止まり、低い唸り声とともに鉄の匂いがした。


振り返ると、粗末な、麻の衣が見えた。


ドドドドっと動悸が早くなり、呼吸が浅くなった。


ティスレイアを庇った男が、こちらに向かって、ゆっくりと倒れ込んでくる。


抱き留めると、嫌な予感が当たった。


ルーカスだった。


「……っ!」


時間が、止まった。


ルーカスの腹に、刃が深く刺さっていた。

麻の衣に、じわじわと赤い血が広がっていく。


——どうして。


口が、動かなかった。


ルーカスの目が、こちらを見た。

温かい色の瞳だった。

小屋で、何度も見た色だった。

にししっと、笑っていた時の色だった。


「……みつけ、た」


声が、掠れていた。


「ティスレイア、さん」


「……ルーカス」


「あなたが、いなくなって」


「……」


「探した、んです」


膝が、地についた。

ルーカスの体を、両腕で支えるしかなかった。


「戦が、始まると、聞いて……」


ルーカスの口の端から、血が落ちた。


「あなたを、止めたかった……戦も、止められたら、と……」


「もう、喋るな」


「……すみません」


ルーカスは、少し笑った。

それから、咳き込んで、また血を吐いた。


「あなたが」


「……」


「無事で、よかった」


「……ばか」


千年生きてきて、初めて、その言葉が口から出た。


「ばかだ、お前は」


「……はい」


ルーカスは、もう一度、笑った。

歯を見せて笑う、いつもの笑い方ではなかった。

もっと、静かな笑い方だった。


抱きしめる手が、震えた。


「ごめん、なさい」


「……」


「僕は、あなたのことを、ずっと……」


最後の言葉は、来なかった。


ルーカスの目が、こちらを見たまま、止まった。


頬に、何かが落ちた。

温かいものだった。


自分の涙だと、しばらくして気づいた。


涙など、母が亡くなった時に枯れたと思ったのに。


落ちた涙が、ルーカスの頬に伝った。


頬を、両手で包んだ。

まだ、わずかに温かかった。



少し離れた所で、男が立っていた。


刃を、握ったままだった。

さっき見逃した、若い男だった。


息が、荒かった。

こちらを見ていなかった。

腕の中の、ルーカスの顔を見ていた。


「……ルーカス」


男が、ぽつりと言った。


「ルーカス、お前」


刃が、男の手から落ちた。


地面で、乾いた音を立てた。


男は、後ずさった。

一歩、二歩。


口が、何度か開いて、閉じた。


それから、こちらを見た。

目が、血走っていた。


「……お前の」


「……」


「お前の、せいだ」


声が、裏返っていた。


「俺を、殺さなかったのが、悪いんだ」


「……」


「お前が、俺に同情したから」


男の手が、震えていた。

落とした刃を、拾おうともしなかった。


「ルーカスは、死んだんだ」


「……」


「お前が、殺したんだ」


そう叫んで、男は背を向けて、走り去っていった。


足元のぬかるみに、何度か倒れかけながら、それでも、走り続けていた。


男を追いかけて殺すなんて容易いことだ。


でも、今はそんなことどうでも良かった。


腕の中の、ルーカスの体は、だんだんと冷たくなっていた。


戦場の、どこかで、まだ剣の音と魔法で燃やす音がしていた。

味方の雄叫びも、人間の悲鳴も、続いていた。


何も、聞こえなかった。


ルーカスの頬に、もう一度、頬を寄せた。

栗毛が、頬に触れた。


着ている外套には、まだ、薪と土の匂いが薄く残っていた。


ティスレイアが好きだった、あの小屋の、炉の匂いがした。


最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。


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