第8話 赤い戦場
朝霧の中で、遠くを見つめる。
その先にあるのは、かつて自分を助けてくれた人間が住んでいる里。
——痛い。
体ではなく、胸あたりがギュッと締め付けられる感覚がする。
こんな感覚は、初めてだった。
「……ティスレイア様」
アリエルが、初めて口を開いた。
「いってらっしゃいませ」
それだけだった。
「ああ」
それだけ、返した。
アリエルは、深く頭を下げて、こちらの背を見送った。
外に出ると、エルフ軍が整列していた。
丘の向こうに、人間軍の雄叫びが聞こえ始めていた。
エルフ軍の先頭に父王が立っていた。
こちらを一度だけ見て、何も言わなかった。
ただ、視線を、背中に張り付けてきた。
一人残らず斬れ、と目線だけで訴えてきた。
先日、父王に叩かれた頬を片手で軽く押さえた。
腫れていた頬は、もう熱を失っていた。
ティスレイアは、隊列の先へ歩いた。
※
雄叫びが、近づいた。
霧の向こうから、人間軍の槍先が現れた。
数千、いやもっといた。
剣を抜き、剣に魔力を込めた。
最初に踏み込んできた兵の喉を、横一文字に裂いた。
血が、霧に散った。
二人目は、突き出された槍を払って、肩から胴へ斬り下ろした。
重い手応えだった。
三人目、四人目と、もう数えなくなった。
剣を振り下ろし、また、剣を振り下ろした。
手が、震えていた。
震えながら、それでも、剣は止まらなかった。
人間を殺すたびに、自分を助けてくれた人々の顔がチラついた。
ズキッ、ズキッ。
斬っては、胸が痛む。
そのたびに、気づかないフリをしないと気がおかしくなりそうだった。
ティスレイアの白い服に、血が飛び散り、赤く染まった。
※
乱戦の中で、若い兵が一人、こちらに向かってきた。
黒髪、琥珀色の瞳、額に三日月の傷。
二十歳そこそこの男だった。
剣を構えていた。
構え方は、稚拙だった。
正規兵ではない、徴募された村の若者の構え方だった。
——どこかで、見た気がする…。
そう思ったが、思い出す前に男が踏み込んできた。
剣を払った。
男の剣が、地に落ちた。
男の体勢が、崩れた。
膝をついた。
両手を、地につけた。
「……た、助けて、くれ」
男の声が、震えていた。
「俺、おふくろが、いて……まだ、幼い、妹も……」
「……」
「頼む、頼む、お願いだ……」
剣の切先を、男の喉に向けた。
——一人残らず斬れ。
父王の声が、頭の中で響いた。
——人間に情けをかけた者の言葉ではない。
頬の腫れが、まだ熱を持っていた。
男の喉が、上下した。
唾を呑む音が、聞こえた気がした。
額の三日月の傷が、汗で光っていた。
(この傷、思い出した。こいつは、あの村にいた男だ)
剣を、引いた。
「行け」
「……え」
「二度と、剣を取るな。他の奴らに見つからないように逃げろ」
男は、信じられないという目で、こちらを見た。
それから、転げるように立ち上がり、後ずさり、背を向けて走り出した。
剣を鞘に戻しながら、別の方向へ歩き出した。
男に背を向けたとき、背後で剣を振り上げる音がした。
風切り音が近づいてきた。
低い、卑怯な角度の音だった。
(遅い!)
避けようとした瞬間、背後にもう一つ気配を感じた。
(……え?)
自分の背後に誰かが立ち止まり、低い唸り声とともに鉄の匂いがした。
振り返ると、粗末な、麻の衣が見えた。
ドドドドっと動悸が早くなり、呼吸が浅くなった。
ティスレイアを庇った男が、こちらに向かって、ゆっくりと倒れ込んでくる。
抱き留めると、嫌な予感が当たった。
ルーカスだった。
「……っ!」
時間が、止まった。
ルーカスの腹に、刃が深く刺さっていた。
麻の衣に、じわじわと赤い血が広がっていく。
——どうして。
口が、動かなかった。
ルーカスの目が、こちらを見た。
温かい色の瞳だった。
小屋で、何度も見た色だった。
にししっと、笑っていた時の色だった。
「……みつけ、た」
声が、掠れていた。
「ティスレイア、さん」
「……ルーカス」
「あなたが、いなくなって」
「……」
「探した、んです」
膝が、地についた。
ルーカスの体を、両腕で支えるしかなかった。
「戦が、始まると、聞いて……」
ルーカスの口の端から、血が落ちた。
「あなたを、止めたかった……戦も、止められたら、と……」
「もう、喋るな」
「……すみません」
ルーカスは、少し笑った。
それから、咳き込んで、また血を吐いた。
「あなたが」
「……」
「無事で、よかった」
「……ばか」
千年生きてきて、初めて、その言葉が口から出た。
「ばかだ、お前は」
「……はい」
ルーカスは、もう一度、笑った。
歯を見せて笑う、いつもの笑い方ではなかった。
もっと、静かな笑い方だった。
抱きしめる手が、震えた。
「ごめん、なさい」
「……」
「僕は、あなたのことを、ずっと……」
最後の言葉は、来なかった。
ルーカスの目が、こちらを見たまま、止まった。
頬に、何かが落ちた。
温かいものだった。
自分の涙だと、しばらくして気づいた。
涙など、母が亡くなった時に枯れたと思ったのに。
落ちた涙が、ルーカスの頬に伝った。
頬を、両手で包んだ。
まだ、わずかに温かかった。
少し離れた所で、男が立っていた。
刃を、握ったままだった。
さっき見逃した、若い男だった。
息が、荒かった。
こちらを見ていなかった。
腕の中の、ルーカスの顔を見ていた。
「……ルーカス」
男が、ぽつりと言った。
「ルーカス、お前」
刃が、男の手から落ちた。
地面で、乾いた音を立てた。
男は、後ずさった。
一歩、二歩。
口が、何度か開いて、閉じた。
それから、こちらを見た。
目が、血走っていた。
「……お前の」
「……」
「お前の、せいだ」
声が、裏返っていた。
「俺を、殺さなかったのが、悪いんだ」
「……」
「お前が、俺に同情したから」
男の手が、震えていた。
落とした刃を、拾おうともしなかった。
「ルーカスは、死んだんだ」
「……」
「お前が、殺したんだ」
そう叫んで、男は背を向けて、走り去っていった。
足元のぬかるみに、何度か倒れかけながら、それでも、走り続けていた。
男を追いかけて殺すなんて容易いことだ。
でも、今はそんなことどうでも良かった。
腕の中の、ルーカスの体は、だんだんと冷たくなっていた。
戦場の、どこかで、まだ剣の音と魔法で燃やす音がしていた。
味方の雄叫びも、人間の悲鳴も、続いていた。
何も、聞こえなかった。
ルーカスの頬に、もう一度、頬を寄せた。
栗毛が、頬に触れた。
着ている外套には、まだ、薪と土の匂いが薄く残っていた。
ティスレイアが好きだった、あの小屋の、炉の匂いがした。
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