第7話 父の前で
森の奥、川を二度渡った頃、木の陰から銀色の影が現れた。
長い髪を背で結わえた、若い斥候だった。
銀の弓を構えていた弓を、こちらの顔を見て、ゆっくりと下ろした。
「……ティスレイア様」
久しぶりに見た同志たちの顔だった。
「ご無事で」
斥候の声が、震えていた。
礼の所作も、半ばで崩れていた。
「本陣はどこだ」
「半日、北東に」
「父王は」
「ご本陣におられます。明朝、人間軍と決戦の予定です」
——明朝。
足元の落ち葉を、一度だけ見た。
「案内せよ」
斥候は弓を背に回し、先に立って歩き出した。
時折、こちらを振り返っては、本当にティスレイア様か確かめるような目をした。
返事はしなかった。
歩く速度だけ、合わせてやった。
※
本陣は、丘の南斜面に張られていた。
エルフの旗が、何十本と風に鳴っている。
天幕の隙間から、武具を整える音、馬の嘶き、号令の声。
——軍が、もう、ここまで来ている。
腹心の手紙では、ひと月のうちに、と書かれていた。
ひと月よりも、ずっと早かった。
父王は、待ってくれなかったのだ。
斥候に伴われて中央の天幕に近づくと、衛兵がこちらを認めて、息を呑んだ。
「ティスレイア様……っ」
衛兵が膝を折る前に、天幕の幕が内側から開いた。
腹心の顔が、そこにあった。
何も言わず、こちらの顔を一度だけ見て、ゆっくりと頷いた。
それから天幕の奥へ視線を流した。
——父王。
腹心は、それだけ告げる目をしていた。
※
天幕の中は、薄暗かった。
奥に、簡素な木の椅子が据えられている。
玉座の代わりだった。
そこに、父王が座っていた。
両肘を椅子の縁に置き、こちらを見ていた。
表情は、無かった。
ただ、目の奥だけが、燃えていた。
「……戻ったか」
低い声だった。
「はい」
「どこにいた」
「……言えません」
父王の眉が、わずかに動いた。
「どうして言えぬ。やましいことがあるのか?」
「いえ、そういうわけでは……」
「なら言え」
「……人里におりました」
父王の眉間のシワが深くなった。
「捕らえられていたのか」
「いえ。匿われていました」
天幕の中の空気が、止まった。
椅子の脇に控える将官たちの視線が、こちらに集まる。
気配だけで、それが分かった。
「……匿われた、と」
「はい」
「人間が、エルフのお前を?」
「治療を受けました。傷が癒えるまで、そこに居りました」
「人間の目的は何だ?」
「いえ、彼らには、目的などありません。本当に私を助けただけです。金や機密情報の要求はされていません」
「嘘をつくのでない!人間は、醜く、愚かな生き物ぞ! 人間なんかに情をほだされおって!」
父王の覇気で空気が一瞬で変わった。刺さるような殺気で呼吸が苦しくなる。
「集落の場所は」
「……覚えておりません」
「覚えておらぬ、か」
「はい」
「おい。今すぐ戦の準備をしろと全員に伝えろ」
「父上!」
ティスレイアが父王の前に跪いた。
「お願いがあります。明朝の決戦を、お止めください」
天幕の中の空気が、もう一度、止まった。
今度は、深く。
「人間の中にも、こちらに刃を向けない者がおります。私を治療した者は、敵意を持っておりませんでした」
「……」
「全てを焼くのは、もう」
最後まで、言わせてもらえなかった。
父王が立ち上がっていた。
椅子が後ろへ倒れる音より先に、頬を打たれていた。
音は、思ったより乾いていた。
痛みは、遅れてやってきた。
口の中に、薄く血の味が広がった。
「もう一度、言ってみよ」
父王の声が、低く震えていた。
「あの者どもが、何百年、我らの森を焼いた」
父王の声が、近かった。
打たれた頬の側に、息がかかる距離だった。
「お前の母を、誰が殺した」
「……人間です」
「お前の友を、誰が殺した」
「……人間です」
「それを忘れたか」
「忘れて、おりません」
「ならば」
父王の手が、もう一度上がった。
今度は、振り下ろされなかった。
ただ、こちらの顎を掴んで、視線を合わせさせた。
「明朝、戦場に出ろ。先頭に立て」
「……」
「お前自身の手で、人間を斬れ。一人残らずだ」
返事は、しなかった。
できなかった。
顎を掴んだ手が、離れた。
父王は座り直し、再び両肘を椅子に置いた。
こちらを見る目は、もう燃えていなかった。
ただ、冷たかった。
「下がれ」
頭を下げて、天幕を出た。
※
外は、まだ夜の色をしていた。
東の空にだけ、薄い青が滲み始めている。
腹心が、天幕の脇で待っていた。
何も聞かなかった。
ただ、こちらの頬の腫れを一度だけ見て、視線を逸らした。
「……戦装束を、用意いたします」
低い声だった。
「ああ」
「先頭、ということでしたので」
「……ああ」
腹心は深く頭を下げて、別の天幕の方へ歩き去った。
背中が、いつもより細く見えた。
——明朝。
口の中の血を、舌で舐め取った。
外套の襟元を引き寄せた。
薪と土の匂いが、まだ、薄く残っていた。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
★評価やレビュー、お気に入り登録、応援コメントは、
どれも大きな励みになります。
ぜひご感想をお聞かせください。




