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第7話 父の前で

森の奥、川を二度渡った頃、木の陰から銀色の影が現れた。


長い髪を背で結わえた、若い斥候だった。

銀の弓を構えていた弓を、こちらの顔を見て、ゆっくりと下ろした。


「……ティスレイア様」


久しぶりに見た同志たちの顔だった。


「ご無事で」


斥候の声が、震えていた。

礼の所作も、半ばで崩れていた。


「本陣はどこだ」


「半日、北東に」


「父王は」


「ご本陣におられます。明朝、人間軍と決戦の予定です」


——明朝。


足元の落ち葉を、一度だけ見た。


「案内せよ」


斥候は弓を背に回し、先に立って歩き出した。

時折、こちらを振り返っては、本当にティスレイア様か確かめるような目をした。


返事はしなかった。

歩く速度だけ、合わせてやった。





本陣は、丘の南斜面に張られていた。


エルフの旗が、何十本と風に鳴っている。

天幕の隙間から、武具を整える音、馬の嘶き、号令の声。


——軍が、もう、ここまで来ている。


腹心の手紙では、ひと月のうちに、と書かれていた。

ひと月よりも、ずっと早かった。

父王は、待ってくれなかったのだ。


斥候に伴われて中央の天幕に近づくと、衛兵がこちらを認めて、息を呑んだ。


「ティスレイア様……っ」


衛兵が膝を折る前に、天幕の幕が内側から開いた。


腹心の顔が、そこにあった。


何も言わず、こちらの顔を一度だけ見て、ゆっくりと頷いた。

それから天幕の奥へ視線を流した。


——父王。


腹心は、それだけ告げる目をしていた。





天幕の中は、薄暗かった。


奥に、簡素な木の椅子が据えられている。

玉座の代わりだった。


そこに、父王が座っていた。


両肘を椅子の縁に置き、こちらを見ていた。

表情は、無かった。

ただ、目の奥だけが、燃えていた。


「……戻ったか」


低い声だった。


「はい」

「どこにいた」

「……言えません」


父王の眉が、わずかに動いた。


「どうして言えぬ。やましいことがあるのか?」

「いえ、そういうわけでは……」

「なら言え」

「……人里におりました」


父王の眉間のシワが深くなった。


「捕らえられていたのか」

「いえ。匿われていました」


天幕の中の空気が、止まった。


椅子の脇に控える将官たちの視線が、こちらに集まる。

気配だけで、それが分かった。


「……匿われた、と」

「はい」

「人間が、エルフのお前を?」

「治療を受けました。傷が癒えるまで、そこに居りました」

「人間の目的は何だ?」

「いえ、彼らには、目的などありません。本当に私を助けただけです。金や機密情報の要求はされていません」

「嘘をつくのでない!人間は、醜く、愚かな生き物ぞ! 人間なんかに情をほだされおって!」


父王の覇気で空気が一瞬で変わった。刺さるような殺気で呼吸が苦しくなる。


「集落の場所は」

「……覚えておりません」

「覚えておらぬ、か」

「はい」

「おい。今すぐ戦の準備をしろと全員に伝えろ」

「父上!」


ティスレイアが父王の前に跪いた。


「お願いがあります。明朝の決戦を、お止めください」


天幕の中の空気が、もう一度、止まった。

今度は、深く。


「人間の中にも、こちらに刃を向けない者がおります。私を治療した者は、敵意を持っておりませんでした」

「……」


「全てを焼くのは、もう」


最後まで、言わせてもらえなかった。


父王が立ち上がっていた。


椅子が後ろへ倒れる音より先に、頬を打たれていた。


音は、思ったより乾いていた。

痛みは、遅れてやってきた。


口の中に、薄く血の味が広がった。


「もう一度、言ってみよ」


父王の声が、低く震えていた。


「あの者どもが、何百年、我らの森を焼いた」


父王の声が、近かった。

打たれた頬の側に、息がかかる距離だった。


「お前の母を、誰が殺した」

「……人間です」

「お前の友を、誰が殺した」

「……人間です」

「それを忘れたか」

「忘れて、おりません」

「ならば」


父王の手が、もう一度上がった。

今度は、振り下ろされなかった。


ただ、こちらの顎を掴んで、視線を合わせさせた。


「明朝、戦場に出ろ。先頭に立て」

「……」

「お前自身の手で、人間を斬れ。一人残らずだ」


返事は、しなかった。

できなかった。


顎を掴んだ手が、離れた。


父王は座り直し、再び両肘を椅子に置いた。

こちらを見る目は、もう燃えていなかった。

ただ、冷たかった。


「下がれ」


頭を下げて、天幕を出た。





外は、まだ夜の色をしていた。


東の空にだけ、薄い青が滲み始めている。


腹心が、天幕の脇で待っていた。

何も聞かなかった。

ただ、こちらの頬の腫れを一度だけ見て、視線を逸らした。


「……戦装束を、用意いたします」


低い声だった。


「ああ」

「先頭、ということでしたので」

「……ああ」


腹心は深く頭を下げて、別の天幕の方へ歩き去った。

背中が、いつもより細く見えた。


——明朝。


口の中の血を、舌で舐め取った。


外套の襟元を引き寄せた。


薪と土の匂いが、まだ、薄く残っていた。


最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。


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