第2話 敵の手の中で
木の天井が、揺れていた。
——いや、揺れているのは、私の視界の方だ。
ぼんやりと、目を開けた。
粗末な木の板が、頭上に組まれている。
体の下には、薄い布団。
肩に、鈍い痛みが残っていた。
「あ、起きましたね」
声がした。
若い男の声だった。
視線を動かすと、ベッドの脇に一人の男が座っていた。
栗色の髪、素朴な顔立ちの青年だった。
手には濡れた布を持っている。
——人間…っ!。
警戒が、即座に体を硬直させた。
魔術を放とうと、片手を持ち上げる。
しかし、魔力が空っぽだった。
毒の影響なのか、魔術回路そのものが動かない。
体を起こそうとしても、肩の痛みで止まる。
喉の奥から、低い呻きが漏れた。
「動かないでください。まだ血が止まっていない」
青年は、慌てる様子もなく言った。
布を絞り、傷の縁を丁寧に拭いていく。
その手つきに、害意は感じられなかった。
だがそれが、かえって不気味だった。
エルフを見て、平然としている人間を私は知らない。
普通の人間ならば、エルフの戦装束を見ただけで剣を抜く。
殺すか、逃げるか、そのどちらかしかしないはずだった。
だが、目の前の青年は、剣も持っていない。
それどころか、逃げる素振りも、殺す気配もない。
ただ、傷の血を拭いている。
その動作だけに集中している。
——何を、考えている。
「人間が、なぜエルフを助ける」
声が、思ったよりかすれていた。
青年は、少しだけ手を止めて、こちらを見た。
それから、当たり前のように答えた。
「怪我してるからですよ」
——怪我しているからエルフを助けるのか?
「敵だとか味方だとか、そういうの、僕にはよく分からなくて」
青年は布を絞り直し、傷の手当てを再開した。
「あなたが森で倒れているのを見つけて、運んできました。ここは、僕の小屋です」
「お前は、誰だ」
「あ、すみません、名乗ってませんでしたね。僕、ルーカスといいます。この近くの集落の者です」
ルーカスは木の椀を取り、薄く煮込んだ薬草のスープを差し出した。
湯気が、ゆっくりと立ち上っている。
「あんまり美味しくないと思いますけど、どうぞ。今食べられるのは、これくらいしかないので、お口に合うかわかりませんが…」
スープの匂いが、鼻先に届いた。
薬草と、塩と、ほんの少しの肉。
貧しい食卓の匂いだった。
私は、椀を見つめた。
受け取らなかった。
(この人間、毒で私を殺そうと企んでいるに違いない)
ティスレイアは、椀から目を逸らした。
ルーカスは、食事を食べようとしないティスレイアを責める様子はなく、椀を傍らの台に置き、また布で傷を拭き始める。
「無理に食べなくて大丈夫です。ただ、傷を治すには、何か口にしたほうがいいです」
その口調には、何の打算もなかった。
「毒なんて入ってません。心配なら、僕が毒見しましょうか」
——なぜだ。
彼の手元を、見つめていた。
血で汚れた布、丁寧な動き、静かな呼吸。
人間の手とは、こんな手つきをするものだったか。
私が知っている人間は、剣を振り回し、エルフを獣のように罵る存在だった。
だが、目の前のこの男は、違う種族のように思える。
人間が一人、こんな手つきで誰かを助けることがある。
その事実が、私の中の世界の摂理を、わずかにずらしていく。
「外の声を、聞きました」
ルーカスは、布を持つ手を止めずに言った。
「あなたを探している声です。エルフ軍の捜索じゃない。人間軍のほうです」
「……だったら、私を引き渡せばいい」
「いえ」
ルーカスは、首を振った。
「困っている人を引き渡すのは、僕の道理に合わないので」
——道理。
その言葉を、何度も頭の中で反芻した。
「集落の人間に知られたら、お前も殺される」
「そうかもしれません」
ルーカスは少し笑った。
笑い方が、不思議なほど穏やかだった。
「でも、見捨てるよりは、ましです」
「お前は、馬鹿か」
「そうですね、よく言われます」
ルーカスは布を絞り、また傷を拭く。
責められても、嫌味で返さない。
何かを諦めているわけでもなく、何かを誇示しているわけでもない。
ただ、そういう人間として、ここにいるだけだった。
私は、何も言えなかった。
言葉が、出てこない。
千年生きてきて、初めて見るたぐいの人間だった。
夜が深まっていた。
外で、足音と声が近づいてくる。
「エルフが負傷したらしい」
「この辺りに逃げ込んだはずだ。探せ」
人間軍の捜索隊だった。
ルーカスは静かに灯りを消した。
窓の外を一度だけ見て、戻ってくる。
何も言わずに、私の傍らに座った。
足音が、小屋の前を通り過ぎていく。
扉のすぐ向こうで、誰かが立ち止まった。
しばらくして、また歩き出した。
声が遠ざかっていく。
ルーカスは、長く息を吐いた。
それから、布団を整え直した。
「もう、大丈夫です」
「すまない」
「いえ。しばらくは来ないでしょう。寝れるうちに寝ましょう」
おやすみなさい、と一言いい、すぐにルーカスの規則正しい寝息が聞こえた。
月光が、窓から細く差し込んでいた。
その光が、ティスレイアの手の甲を、淡く照らしている。
ほんのりと手のひらが光る。
(魔力は、わずかだが戻っているな)
破壊力のある魔法を放つことはできないが、この男を殺せるだけの魔力はある。
ティスレイアはルーカスに手のひらを向け、魔力を込めた。
「……やめた」
気が乗らない。
今まで何百という人間の命を奪ってきた。
血など見慣れているし、人間の悲鳴など聞き慣れていたはずなのに、なぜか殺す気にはなれなかった。
なぜ、できないのかわからない。
ティスレイアは、月光をぼっと眺め、重くなっていく瞼に身を任せ目を閉じた。
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