1
――見上げてみれば、どこまでも青く、透き通った空が広がっています。
青い空に浮かぶは、白い雲。
……白、だけではありません。
空の色を透き通らせ、反射させ、薄い水色をまとった者もあれば。
夜の帳、朝と夕の狭間の茜、そうした時の流れを身に受けて、染まった者もおり。
或いは。
地上からは見えぬほど、分厚く天高く成長し、黒ずんで、それでいて柔らかな白を失わない、今にも雨を降らせようとする者もいます。
――全ての雲は、みな、彼女の子どもも同然でした。
「おかえりなさい、お前たち。思う存分お母様の光を一身に浴びたなら、また恵みとして地上に降り注ぐのですよ。」
そのように、目に見えぬ何かに彼女が語りかけると、それらはまるでその声に応えるかのように姿を現します。
そして白を基調としたその身に、空の蒼や夕日の茜、もしくは夜闇の黒をまとい、雲へとなるのです。
彼女は、太陽神の娘が一人、水の女神でした。
水の女神は、地を巡った末に天へと昇ってきた水の子らを休ませてやり、再び地上へ送り出す役目を担っていました。
水の子らは、天空で思い思いの形を取ります。
ある者は風の子らと戯れ、ホウキのような姿に。
ある者は少しでも母神に近づこうと天高く積み上がり、ヤマのような姿に。
ある者は広く地上を知ろうとばかりに薄く広がり、ウロコのような姿に。
思い思いの姿で戯れ、休み、集まり、広がり、そうしてやがて満足すると、再び地上に雨として降り注ぐのでした。
水の女神は、毎日生まれては降り注いでいく水の子らを見ているだけで、退屈とは無縁です。
水の子らは、誰一人として同じ姿になることはなく、空にあれば刻一刻と姿を変えていくのです。
また彼らが口々に語る地上の話も、水の女神を退屈させることはありません。
ある者は行く手を阻む岩の大きさを語り。
ある者は降り注いだ先の花の美しさを語り。
――そしてある者は。
すくわれ呑まれ巡ったその先の、"命"の繊細で複雑な様を語りました。
命については、水の女神も知っていました。
彼女の役目は水の子らを天で休ませ地上に送り出すことでしたが、その役目に、命を育む意味があると知っていました。
ですから、時折地上に降りては、水の子らが育んだ命の様子を確認しました。
草木の茂る様を。
草葉に潜む虫たちの姿を。
野山を駆ける獣たちの姿を。
――そして草木を刈り切り倒し、虫を追い払い、獣を狩る人間の姿を。
「――お姉さま、どうして人間は、あのように強いのでしょう?」
多くの命を見た水の女神は、不思議でなりませんでした。
人間は、明らかに他の命とは違って見えました。
他の命も、多様で、一つとして同じ者はなく、見ていて飽きないものです。
ただ人間は、明らかに他の命とちがうことがありました。
それは火を使い道具を使い、どのように強い他の命であろうと、いつかは食らうなり駆逐するなりしてしまうこと。
他の命が食らい食らわれていくのに対し、人間だけは、一度食らわれようものならば、時間がかかろうと、二度と食らわれないようになっていくのです。
獣に襲われたならば、武器を使って追い払い。
虫に襲われたならば、火を使って巣を炙り出し。
その癖、地が揺れ火の子らが噴き出したり、水の子らが波となって襲いかかったり、風の子らが渦巻いて襲いかかれば、他の命よりも逃げ足遅く、呆気なく倒れてしまいます。
その躯を抱き次の命につなげるは、大地を統べる姉神でした。
姉神は、もう一人の男神と共に、命を地に送り出す役割を担い、神々の誰よりも命を間近に見守る存在です。
だから水の女神は、大地の姉神に、人間について聞いてみることにしたのでした。
姉神は微笑んで、妹の疑問に答えました。
「人間は、恐怖を克服する理性を与えられているのです。」
「恐怖を克服する理性、ですか?」
水の女神はよくわからず、首を傾げました。
大地の姉神は、微笑んだまま頷きました。
「我々神々に終わりはなく、
あなたの子らも地上に送られてはいずれ天空に戻り巡り続ける存在なれど、
命の一つ一つにとってはそうではありません。
彼らもまた死すれば大地にかえり、次の命の糧となり、世界を巡りますが、
そこに宿る意思は生まれてから死すまでの間だけのもの。
だからこそ命は、それを失うことを恐れ、新しい命を喜び、そうして生きるのです。」
「人間は、そうした命の中でも、死の恐怖を克服する理性を父なる男神に送られたのです。
あれは、様々なものをそれぞれの命に祝福として贈り与えましたが、
人間に与えたそれが、これほど人間を強くするとは思っていなかったでしょう。
理性は人間を強くする一方、より多くの危険にもさらします。」
「何故お義兄さまは、理性を人間に贈ったのですか?」
「さぁ……特に深い考えあってのことではないでしょう。
あれにとっては、ただただおびただしい数の命に、
一つとして同じものを与えないようにしただけです。
結果として人間は、
死を恐れる命としての本能を一時的にでも抑えつける力を手に入れました。
そして恐怖という本能を抑えつけたその先の、
未来を見据えて生きるようになりました。
……もしかしたら時の神だけは、
そうすることで人間が強くなることを知っていたかもしれませんね。」
姉神の言葉を聞いてもなお、水の女神にはよくわかりませんでした。
女神には、死を恐れる気持ちがわかりませんでした。
水の子らが雲となり、雨となり、川となるように、命もまた巡るものです。
たとえその躰が滅びようと、その身は大地の女神に抱かれ眠り、次なる命として父なる男神に命と祝福の息吹を吹き込まれ、地上に送られていくのです。
だから女神には、死の恐怖を克服することで、他の命よりも強くなったという人間が理解できませんでした。
わからないからこそ女神は気になり、水の子らが育んだ命を地上に降りて確認する度に、他の命よりも少しだけ長く、その目を人間に留めるようになりました。
女神が目を留める度に、水の子らと同じように、他の命と同じように、人間は様々に姿を言葉を心を変えていきました。
女神はそれまでと同じように、度々地上に降りては他の命と人間を眺め、人間が喜び怒り悲しむありとあらゆる姿を見ましたが、水の子らのように人間を理解することはできませんでした。
ただ時を重ねるごとに、人間は理性をもって知恵を蓄え子らに引き継ぎ、どんどんと他の命よりも強くなっていくようでした。
そして時を重ねるごとに、少しずつ人間一人一人は弱くなっていくようでした。
逃げ足は他の命よりも遅くなり、神々の子らが襲いかかれば一たまりもありません。
しかしながらそれでも、理性をもって人の子らはそれらを乗り越え、数を増やしていくのですから、水の女神にとっては不思議でなりませんでした。