第3話 「旅人亭」
眩しい。
目を開けた途端、降り注ぐ陽光に思わず顔をしかめた。
しばらく目を細めていた俺は、ゆっくりと上半身を起こす。
見知らぬ場所だった。
足元には石畳が続き、その両脇には木造やレンガ造りの建物が並んでいる。行き交う人々の服装も、見慣れた日本のものとは違っていた。
そして何より――。
「……角?」
すれ違った男の頭には、立派な二本の角が生えていた。
別の女性には、頭の横から長い耳が伸びている。
俺は思わず自分の頬をつねった。
「痛ってぇ……」
夢じゃない。どうやら本当に、異世界とやらに来てしまったらしい。
「マジで……来ちゃったんだな」
口に出してみても、実感はまだ薄い。
けれど、いつまでも呆けているわけにもいかなかった。
まずは荷物の確認だ。
背負っていた鞄は無事。中には着替えと、神様から渡された調理道具一式が収まっている。包丁も五本、きちんと揃っていた。
腰のポーチには、塩、砂糖、胡椒、酢、醤油。
どれも使い慣れた調味料だ。見知らぬ土地で、こいつらがあるのは戦友のようで心強い。
それから、革表紙の小さな手帳――飯事典。
この世界で出会った食材や料理を記録していくためのものだ。もっとも、今はまだ白紙に近い。
「さて、と」
確認を終え、俺は立ち上がった。
まずは情報収集。それから、寝床の確保。それに……。
「腹、減ったな」
考えてみれば、ここがどこだろうと腹は減る。
料理人として、知らない土地の食事には興味がある。どんな食材があり、どんな料理が食べられているのか。考えるだけで、好奇心が刺激された。
とはいえ、先立つものがなければ食事にもありつけない。
俺は近くを歩いていた髭もじゃの小柄な男性に声をかけた。
「すみません。この辺りに、旅人が泊まれる宿ってありますか?」
「宿かい?それなら、あっちの通りを少し行ったところに旅人亭があるよ。リラド夫婦がやってる宿だ。飯もうまいし、旅人にも親切だぞ」
「へえ。それはありがたいですね。ありがとうございます」
「なあに、困ったときはお互い様さ」
礼を言い、教えられた道を進む。
しばらく歩くと、通りの先に看板が見えてきた。
木の板に刻まれているのは、宿の名前らしい文字。読めるのは神様の力のおかげだろうか。会話だけでなく文字まで読めるとは聞いていなかったが、今は助かる。
俺は看板を見上げ、扉を押し開けた。
「こんにちは。誰かいますか?」
「はーい、今行きますよ!」
奥から明るい声が返ってきた。
ほどなくして、奥の扉から現れたのは、気立てのよさそうな女性だった。三十代くらいだろうか。服には土がついている。
「いらっしゃい。お泊まりですか?」
「ええ。部屋は空いていますか?」
「もちろん。ちょっと待ってね、主人を呼んでくるから」
女性はそう言うと、奥へ引っ込んでいった。
少しして、がっしりとした体格の男性が姿を現した。こちらも服は土まみれだ。
「俺がリラドだ。こっちは妻のベル。うちは小さな宿だが、ゆっくりしていってくれ」
「ありがとうございます。俺はカエデといいます」
「カエデさんか。よろしくな」
リラドは気さくに笑い、ベルは微笑んでいた。
宿の中は飾り気こそないものの、掃除が行き届いていた。木製のテーブルや椅子もきれいに手入れされている。
一方で、カウンターの脇には野菜の箱がいくつも積まれ、奥の通路にも荷物が置かれていた。
「お二人とも、農作業をしていたんですか?」
「ああ。宿だけじゃ食っていけないからな。畑もやってるんだが、収穫の時期はどうしても手が足りなくてね、あたしも一緒にしてんのさ」
ベルが困ったように笑う。
「お客さんが少ない時期なら何とかなるんだけど、今は畑も宿も忙しくて。片づける暇もないのよ」
「なるほど……」
俺は積み上がった籠に目を向けた。
重そうにぎっしり詰まった籠もあれば、野菜が詰まっているらしいものもある。通路を塞がないようには置かれているが、奥へ行くには少々不便そうだ。
「もしよければ、何か手伝いましょうか?」
「えっ?お客さんにそんなことさせるわけにはいかないよ」
「そうだぞ。まずは部屋で休んでくれ。手伝いなんて必要ないさ」
二人はそろって遠慮したが、俺も負けじと申し出た。
「いや、俺もここで世話になる以上、できることくらいはしたいんです。それに、荷物を運ぶのは慣れてますから」
厨房で働いていた頃は、食材の箱や寸胴鍋など、重たいものを運ぶ機会はいくらでもあった。
畑仕事は専門外だが、箱を運んだり、荷物を整理したりする程度なら役に立てるだろう。
「……そうか。そこまで言うなら、少し頼もうかな」
「ええ、助かるわ。ありがとう、カエデさん」
「いえいえ。じゃあ、どこから片づけましょう?」
こうして俺は、異世界に来て早々、宿の荷物整理を手伝うことになった。
籠を運び、種類ごとに分け、邪魔にならない場所へ積み直す。
作業自体は単純だが、二人だけで宿と畑を切り盛りしているのなら、こうした細々とした仕事も馬鹿にならない。
野菜の籠を動かしていると、ふと、その中に妙な形の根菜が混じっているのが目に留まった。
「……なんだ、これ?」
見た事ない色の野菜。赤紫色の皮をした根菜だ。
一本の茎から二本の根が下向きに伸び、先端は角のように細く尖っている。二本の根は根元でつながっており、全体として一個の野菜になっていた。
大きさは、両手で包めるくらいだろうか。
地球の野菜にはない形だ。俺は思わず手に取り、あちこちから眺めた。
「おや、双角実を見るのは初めてかい?」
声をかけられ、顔を上げると、リラドが面白そうにこちらを見ていた。
「ええ。これ、根菜なんですか?」
「ああ。この辺りの畑じゃ珍しくもない野菜だよ。煮ても焼いてもうまいぞ」
「へえ……。二本に分かれてるのに、一個なんですね」
「そういうもんさ。市場でも一個、二個と数えるんだ。別々に買うより、こっちの方が手頃だしな」
なるほど。二本の根が一つにつながっているのだから、そう数えるのも自然か。
俺は双角実を持ち上げ、重さを確かめた。
「味はどんな感じなんです?」
「甘みがあって、煮込みに入れるといい味が出る。うちでもよく使うよ」
「へえ、じゃあニンジンみたいな味か……」
知らない食材の話となると、つい質問が増えてしまう。
いかんいかん。今は荷物整理の途中だった。
「すみません、つい気になっちゃって」
「ははは、いいさ。食べ物に興味があるのは悪いことじゃない」
リラドの言葉に苦笑し、双角実を箱へ戻す。
この世界には、俺の知らない食材がいくらでもある。
当たり前のように食べられている野菜一つとっても、形も味も違うのだ。
そう考えると、胸の奥がむずむずしてくる。
……早く、いろいろ食べてみたい。
そんな気持ちを抱えながらも、手は止めずに荷物を整理していった。
しばらくすると、通路に積まれていた箱も片づき、奥へ通りやすくなった。
「いやあ、助かった!これでずいぶん動きやすくなったよ」
額の汗を拭いながら、リラドが笑う。
「いえ。これくらいなら大したことありませんよ」
「そんなことないわ。おかげで、夕飯の支度にも取りかかれそう」
ベルも嬉しそうに頷いた。
「お礼と言っちゃなんだが、今夜の部屋代はいい。それに夕飯も食べていってくれ」
「えっ、そこまでしてもらっていいんですか?」
「もちろん。手伝ってもらったんだから、これくらいはさせてくれ」
ありがたい申し出だった。
異世界に来たばかりの俺にとって、宿と食事を確保できるのは大きい。何より、こちらの事情もよく分からないのに、二人は気持ちよく受け入れてくれた。
「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」
「よし、決まりだな。部屋を案内するよ」
リラドについて階段を上がり、案内された部屋に荷物を置く。
広くはないが、寝台と小さな机があり、窓からは通りの様子が見えた。
ひとまず、今日の寝床は確保できた。
それだけで、肩の力が抜ける。
日本を離れ、知らない世界にやって来た。期待はある。見てみたいものも、食べてみたいものも山ほどある。
けれど、何をするにも生活の基盤は必要だ。
「まずは、ここからだな」
俺は荷物を置き、窓の外を眺めた。
この世界には、どんな食材があるんだろう。
どんな料理があって、どんな味がするんだろう。
考え始めると、次から次へと疑問が浮かんでくる。
……いかん。腹が減ってきた。
そんなことを考えているうちに、夕食の時間になった。
食堂へ下りると、テーブルには温かな料理が並んでいた。焼いた肉に、野菜の煮込み。香ばしい匂いが食欲を刺激する。
「たいしたものじゃないけど、たくさん食べてね」
「いただきます」
ひと口食べる。
肉は少し歯ごたえがあるが、噛むほどに旨味が広がる。野菜の煮込みも素朴な味つけで、疲れた身体に染み渡るようだった。
「……うまい」
「そう言ってもらえると嬉しいね」
ベルが笑う。
知らない世界の、知らない食材。それでも、誰かが作ってくれた食事がうまいということは、変わらないらしい。
俺は二人に礼を言い、ありがたく夕食を平らげた。
その夜は久しぶりに、落ち着いて眠ることができた。
*
翌朝。
食堂へ下りると、ベルが朝食を用意してくれていた。ロッケンバンをありがたくいただき、食べ終えた俺は二人に向き直る。
「ごちそうさまでした。昨日は部屋も食事も、本当にありがとうございました」
「いいんだよ。こっちこそ助かったんだから」
「それで……よければ、今日も畑の仕事を手伝わせてもらえませんか?」
二人は顔を見合わせた。
「いいのかい?せっかくの旅なんだ。ゆっくり街を見て回ってもいいんだぞ」
「それも気になりますけど、まずはお世話になった分のお返しをしたいんです。それに、俺もこの辺りのことを知りたいですし」
嘘ではない。
街も見て回りたいし、食材を扱う店があるなら覗いてみたい。けれど、せっかく知り合った人たちが忙しそうにしているのに、何もしないで出ていくのも落ち着かなかった。
「そうか。じゃあ、無理のない範囲で頼もうかな」
「助かるわ。ありがとう、カエデさん」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
俺は笑って頷いた。
さて、今日は何をすることになるのやら。そんなことを考えながら、俺は二人と一緒に宿の外へ出た。
朝の空気は澄んでいて、畑の向こうから風が吹いてくる。
見渡せば、そこには見慣れない野菜がいくつも育っていた。
形も大きさも、日本で見たものとは違う。
俺の胸の奥で、料理人としての好奇心がむくりと顔を出した。
――あれは、どんな味がするんだろう。
どうやら、異世界での生活は思っていた以上に忙しくなりそうだ。




