第2話「新たなる旅路の始まり」
親父の墓石は、思っていたよりもずっと小ぢんまりとしていた。
「ただいま。……修行、ちゃんと終わらせて帰ってきたぜ、親父」
線香の煙が、真っ直ぐに秋の空へ上っていく。
海外で料理修行をしている間、親父が倒れたという知らせは届かなかった。
俺に心配をかけまいと、病状を隠していたらしい。
その間に不況と流行病が重なり、親父がいた店は畳まれた。
そして俺が帰国したときには、親父はもう亡くなり、店も再開の目処もなくなったそうだ。
今更、大袈裟に泣き喚く気にはなれなかった。
サバサバした性格の親父なら、きっとこう言う。
『――しんみりしてねえで、前見ろ、楓』
「……だよな」
墓前で小さく呟き、俺は立ち上がった。
墓参りを終えた俺は、その足で、かつて自分が立つはずだった店へ向かった。
借りた鍵を鍵穴に差し込み、扉を開ける。
暗い店内に足を踏み入れると、埃の匂いが鼻をついた。
その奥には、ほんの僅かに油の匂いも残っている。
厨房には、親父に使い込まれた包丁や鍋、まな板がまとめられていた。
(海外から帰ったら、まずはここで親父と一緒に仕込みをして、プロとして揉まれて……それから、自分の店を持つ)
それが、俺の思い描いていた道だった。
今でも、夢がなくなったわけじゃない。
ただ、その最初の一歩を踏み出す場所が、もうなくなってしまった。
俺は作業台に置かれていた、親父愛用の包丁をそっと手に取った。
手に馴染む重み。
包丁をしばらく眺めたあと、俺はそれを元の場所へ戻した。
後日、親父の包丁や調理道具は、寺の住職に頼んで墓へ一緒に納めてもらった。
あの店は、もう誰も継げない。
なら、次は俺自身の道を探すだけだ。それが、俺なりの区切りだった。
◆
それから、俺は仕事を探した。
別の店で経験を積み、料理人としてさらに腕を磨く。
道が一つ消えたなら、別の道を探せばいい。
そう思っていた。……まあ、世の中はそんなに甘くなかった。
不況の真っただ中で、本格的な料理を提供する飲食店の求人そのものが少ない。
海外で修行してきた経歴があっても、簡単に採用されるわけじゃなかった。
不採用の通知を確認した旧型のスマホをポケットに突っ込み、宛てもなく街を歩いていたときのことだ。
住宅街の片隅。雑木林の奥に、ぽつんと小さな社が建っているのが見えた。
鳥居の木は朽ちかけ、境内は落ち葉と雑草で荒れ放題になっている。
「……おいおい、誰も掃除してねえのか」
こんなところまで来て、神頼みをするつもりはさらさらなかった。
ただ、あまりに放置されているのが気になった。
俺は腕をまくり、近くに立てかけてあったボロボロの竹箒を手に取った。
落ち葉を掃き、素手で雑草を抜く。
久しぶりの重労働で背中が凝り、痛みも出てきた。
それでも手を止めず、二時間近くかけて掃除を終えると、荒れていた社は見違えるように綺麗になっていた。何か無心になれたようで、少しだけ気が晴れた。
「よし」
大したことをしたわけじゃない。
それでも、不思議と胸のつかえが少しだけ軽くなった気がした。
「そろそろ帰るか」
俺は社に軽く手を合わせ、その場を後にした。
その夜、疲れ切った俺は簡単な食事で済ませ、泥のように眠りについた。
◆
夢を見た。
真っ白な空間の中央に、小さな光の塊が浮かんでいる。
『――掃除をしてくれて、ありがとう……』
「……ああん?誰だ?」
鈴を転がすような声だった。けれど、どこか弱々しい。
「あんた……もしかして、さっきの社の神様か?」
『はい。私は、あの小さな社に宿る神です』
光の玉が上下に僅かに揺れる。
『あなたが社を綺麗にしてくださったこと、心より感謝します』
「いや、別に礼はいらねえよ。ただ気になっただけさ」
『それでも、です』
神様は少し間を置いてから、続けた。
『あなたに、お礼をしたいのです』
「お礼?」
『はい。あなたの願いを、叶えさせてください』
俺は少し考えてから、苦笑した。
「じゃあ……料理人として働ける店を見つけてくれよ」
『……申し訳ありません』
「ん?」
『今の私には、この世界の人々の運命を大きく動かすほどの力がないのです』
なるほど?神様にも、できることとできないことがあるらしい。そいつは仕方ない。
『ですが――』
小さな光が、ほんの少しだけ強くなった。
『もし、あなたが望むのであれば。別の道を示すことはできます』
「別の道……?」
『異世界へ、行ってみませんか?』
「…………はい?」
思わず聞き返した。
異世界?そんなもの、ガキの頃に見たアニメや小説の中でしか聞いたことがない。
『そこには魔法があります。人間や、人とは異なる種族も暮らしています。そして、この世界とは違う土地、違う文化が広がっています』
「いやいや、急にそんなこと言われてもな……」
当然、すぐには信じられなかった。
けれど、神様の話を聞いているうちに、俺の中で一つの疑問が浮かんだ。
「……聞いていいか?その世界の食べ物は?」
『食べ物、ですか?』
「ああ。人がいる世界なんだろ?」
気づけば、俺は身を乗り出していた。
「日本にはない肉や野菜があるのか?魚は?調味料は?保存方法は?現地の人間は、それをどうやって料理してる?」
口にするたび、次の疑問が湧いてくる。
知らない土地。知らない食材。そして、知らない食文化。
同じ肉でも、育った土地が違えば味は変わる。手に入る調味料が違えば、料理の仕方だって変わるはずだ。
(日本にはない食材があるなら、実際に見てみたい)
(現地の料理人は、それをどう料理している?)
(俺が知っている技術は、どこまで通用するんだ?)
考え始めると、止まらなかった。
さっきまで夢物語としか思えなかった異世界が、急に手の届く場所にあるような気がした。
もちろん、不安がないわけじゃない。
知らない土地で暮らすことになる。何が危険で、何が安全なのかも分からない。
それでも――。
一人の料理人として、見たこともない食文化に触れてみたい。
自分の手で、新しい食材を料理してみたい。
その気持ちは、もう誤魔化せなかった。
それからも俺は、神様にいくつも質問を重ねた。
神様は、その一つ一つに答えてくれた。
「……なるほどな。面白い……」
『……受けて、いただけますか?』
「ああ。その話、乗った」
俺は力強く応えた。
「俺の足で、その世界の食文化を見て回るよ」
誰かに命じられて行くわけじゃない。
俺自身の意思で、異世界へ行く。そして料理人を目指すのだ。
◆
『では、私から贈れるものを』
神様が小さな光を放つと、俺の前にいくつかの品が現れた。
動きやすい私服と着替えが数着。俺が海外で使っていた大きめのリュックサック。そして、自前の包丁などの、調理器具。
俺は包丁を手に取った。
握った瞬間、しっくりと手に馴染む。刃を眺め、柄を握り直す。
見慣れた形だが、妙に造りがいい。
「……これ、もしかして壊れないとか?」
『はい。料理に使っている限り、決して壊れることはありません』
「へえ……」
料理人にとって、道具は手足と同じだ。
旅先で道具が壊れれば、料理そのものに支障が出る。壊れないというのなら、これほどありがたいことはない。懸念点が一つ解消できたのは、喜ばしい。
『ほかの調理器具も同じです。料理に使っている限り、壊れることはありません』
神様が示したのは、鍋やフライパンなど、俺が持っていた一通りの調理器具だった。
「そいつは助かるな」
続いて、ウエストポーチほどの小さな袋が現れた。
『このポーチからは、基本となる五つの調味料を取り出すことができます』
「何が入ってる?」
『塩、砂糖、胡椒、酢、醤油です。中身が尽きることはありません』
「おいおい。そいつは助かるな、いいのか?」
異世界で、いつも使っていた調味料が手に入るとは限らない。
現地の食材を知り、現地の料理を学ぶ。それでも、慣れ親しんだ味付けを試せる手段があるのは心強かった。
最後に、神様は一冊の革装丁のノートを差し出してきた。
『最後に……これは『飯事典』です』
「飯事典?」
『あなたが旅先で出会う食材や料理を、記録していくためのものです』
俺は表紙を撫でた。
『それが、あなたの旅の証となるでしょう』
「そいつは……ありがたいな」
知らない食材を知り、知らない料理を味わい、自分の手で作ってみる。
その一つ一つを記録できるなら、旅がもっと面白くなりそうだ。
そして――最後に、神様は少しだけ寂しそうな気配を見せた。
『もう一つだけ』
「まだあるのか?」
『私の残された力を使い、あなたに『帰還の権能』を託します』
小さな光が、ゆっくりと俺へ近づいてくる。
『あなたがいつか、元の世界へ戻りたいと強く願ったとき。一度だけ、日本へ帰ることができます』
「……えっ」
思わず声が漏れた。
「おい……あんた、消えてんぞ……!?」
『私はもともと、消えゆく宿命にありました』
「……」
『あなたに社を掃除してもらい、最後に力を託せた。それだけで十分です』
神様の光が、少しずつ薄くなっていく。その姿を見て、俺はようやく理解した。
「神様……ありがとうな」
『良い旅を、若き料理人よ』
「もらった道具も、『飯事典』も、大切に使うよ」
『ええ。願わくば、あなたの食卓が、豊かなものでありますように――』
白い光が、視界を埋め尽くした。
神様の気配が遠ざかり、俺の意識は深い浮遊感の中へと落ちていった。
知らない世界。知らない食材。知らない料理。
その先に何が待っているのか、今の俺にはまだ分からない。
ただ一つ、確かなことがある。
俺はもう一度、料理人として歩き始めるのだ。




