第9話 毒キノコの弱いところ
その日は朝から曇っていて、昼過ぎには本格的な雨になった。天気予報では晴れの予報だったはずなのに、放課後になる頃には、窓の外は白く煙るほどの豪雨になっていた。
「傘、持ってきてない……」
昇降口で立ち尽くしながら、私は小さくため息をついた。折りたたみ傘をカバンに入れておく習慣があったはずなのに、今日に限って忘れてしまったらしい。
美月は部活の関係で先に帰っていて、この状況を一緒に嘆く相手すらいなかった。仕方なく、雨が弱まるのを待つことにして、私は昇降口の隅のベンチに腰を下ろした。
「穂乃果も傘忘れたの?」
聞き覚えのある声に顔を上げると、颯真が同じように昇降口に立っていた。手には傘を持っていない。
「一ノ瀬くんも?」
「うん。今日晴れの予報だったから、油断してた」
颯真は少し困ったような顔で、降りしきる雨を眺めていた。それから、当然のように私の隣に腰を下ろした。
「一緒に待ってればいいじゃん」
「一緒じゃなくても待てますけど」
「一人で待つのと二人で待つの、変わらないなら一緒でよくない?」
屁理屈だと思ったけれど、反論する気力もなく、私は黙って雨音に耳を傾けることにした。
昇降口には、他に誰もいなかった。雨の音だけが、やけに大きく響いている。蛍光灯の白い光と、外の灰色の空気が、妙な静けさを作り出していた。
「こういう雨、嫌いじゃない」
しばらくの沈黙の後、颯真がぽつりと言った。
「濡れるのに?」
「濡れるのは嫌だけど、雨の音聞いてると、なんか落ち着く」
その言葉に、私は少し意外な気持ちになった。いつも周りに人を集めて、賑やかに笑っている彼が、こんな静かな時間を好むとは思っていなかった。
「一ノ瀬くんって、意外と一人の時間好きなんですか」
「好きっていうか、必要、かな」
颯真はそう言って、少し自嘲めいた笑みを浮かべた。
「学校にいるとさ、常に誰かに見られてる気がして。愛想よくしてなきゃって、無意識に気を張ってる」
「疲れそう」
「疲れるよ。でも、そうしてないと、嫌われそうで怖い」
その言葉には、いつもの軽さがなかった。私は思わず、彼の横顔を見つめた。
「なんで、そんなに嫌われるのが怖いんですか?」
颯真はしばらく黙っていた。窓の外の雨音だけが、二人の間の沈黙を埋めていた。
「中学の頃、仲良かったグループが、ちょっとしたことで空中分解したことがあって」
ぽつりぽつりと、颯真は話し始めた。
「誰が悪いってわけでもなかったんだけど、俺がどっちかの肩を持つような言い方したせいで、グループ全体がぎくしゃくして、次の日から、昨日まで一緒に弁当食べてたやつらが、別々の場所に座るようになってさ」
颯真は雨の向こうを見るように目を細めた。
「結局、みんなバラバラになった」
その話に、私は思わず息を呑んだ。
「それ以来、なんとなく、俺がもうちょっとうまくやってたら、誰にでも平等に優しくしてれば、そういうことにならないんじゃないかって思うようになって」
颯真は自嘲するように笑った。
その笑い方が、いつもの余裕のある笑顔とはまるで違って見えて、私は胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。
私自身、中学時代に似たような経験をしている。友人関係が恋愛のもつれで崩壊するのを、間近で見てきた。だからこそ、「恋愛トラブルには近づかない」という信条を持つようになった。
けれど、颯真の選んだ対処法は、私とは正反対だった。私は距離を置くことを選び、彼は誰にでも優しくすることを選んだ。方向は違っても、根っこにある恐れは、もしかしたら似ているのかもしれない。
「それで、一ノ瀬くん自身は平気なんですか?」
「え?」
「みんなに嫌われないようにして、自分だけ我慢し続けて。それで本当に平気なのかなって」
颯真は答えなかった。
ただ、窓を流れる雨粒を目で追うように、しばらく外を見つめていた。
「……わかんない」
やがて返ってきた声は、驚くほど小さかった。
「でも、みんなに優しくしてれば、少なくとも、誰かに嫌われて壊れるようなことは起きないから」
その論理は、どこか歪んでいるように私には思えた。誰にでも優しくすることは、確かに誰かを直接傷つけることは少ないかもしれない。けれど、その優しさの裏側で、彼自身が少しずつすり減っているように見えた。
「一ノ瀬くんの優しさって、自分を守るためのものなんですね」
私がそう言うと、颯真は驚いたような顔でこちらを見た。
「……そう、なのかな」
「そうだと思います。誰も傷つけたくないっていうより、自分が傷つきたくないから、誰にでも優しくしてるように見えます」
しばらくの沈黙の後、颯真は小さく笑った。
「穂乃果、たまに容赦ないよね」
「褒め言葉として受け取ってください」
「褒めてないでしょ、それ」
「事実を言っただけです」
颯真はそれを聞いて、今度は本当に楽しそうに笑った。窓の外の雨は、まだ止む気配を見せなかった。
「穂乃果の前なら、やめてもいい?」
不意に、颯真がそう言った。
「……何を」
「愛想笑い。穂乃果には、無理して笑わなくてもいい気がする」
その言葉に、私は不意打ちを食らったような感覚を覚えた。心臓が、一拍分だけ大きく跳ねる。
「……べつに、私の前で笑う笑わないは、一ノ瀬くんの自由です」
なんとか、それだけを絞り出した。まともに彼の顔を見ることができなかった。
颯真はそれ以上何も言わず、ただそっと雨音に耳を傾けていた。その横顔を、私は横目でちらりと盗み見た。いつものような、誰かを惹きつけるための笑顔ではなく、ただ自然な、力の抜けた表情がそこにあった。
――綺麗だ。
そう思ってしまった自分に、私は内心で慌てた。見た目の綺麗さのことを言っているのではない。今、目の前にある、飾らない彼の姿そのものが、なぜか私の目には美しく映った。
しばらくして、雨が少しだけ弱まった。
「そろそろ、帰れそうですね」
私はそう言って、逃げるように立ち上がった。
「うん」
颯真も立ち上がって、傘を持っていない私たちは、結局それぞれ小走りで家路についた。途中で別れる道まで、二人でずぶ濡れになりながら走った。ばかばかしいと思いながらも、なぜか笑いが込み上げてきて、隣を走る颯真も同じように笑っていた。
家に着く頃には、制服はすっかり濡れていた。
お風呂に入り、着替えを済ませて自室に戻ると、私はベッドに座り込んで、今日一日のことを思い返していた。
雨の音。颯真の横顔。愛想笑いをやめてもいいかという問いかけ。
スマートフォンを手に取って、時刻を確認する。夜の九時を回っていた。
いつもなら、この時間にはもう颯真からのメッセージが来ている。他愛のない話題――今日の昼休みに学食で食べたものの感想とか、明日の授業の愚痴とか、そういう内容がほとんどだけれど、それでも毎日欠かさず届いていた。
今日は、まだ何も来ていない。
画面を見つめながら、私は自分の中に生まれた小さな苛立ちに気づいて、思わず息を呑んだ。
――待ってる。
その事実に、私は愕然とした。
いつの間に、彼からのメッセージを待つようになっていたのだろう。来なければ来ないで、気にしなければいいだけの話のはずなのに、なぜか画面を何度も確認してしまう自分がいる。
しばらくして、ようやくスマートフォンが小さく震えた。画面には、颯真の名前が表示されている。
「今日、ずぶ濡れになったけど風邪ひいてない?」
たったそれだけの、他愛のない一文だった。
なのに、私はその画面を見つめながら、口元が緩んでしまうのを止められなかった。
慌てて表情を引き締める。こんな些細なことで、こんなに簡単に心が動いてしまうなんて。
――まずい。
これは、間違いなくまずい兆候だった。
毒キノコに近づいてはいけないと、あれほど自分に言い聞かせてきたはずなのに。
私は返信の文面を何度も打っては消し、打っては消しを繰り返しながら、自分の中で膨らみ始めている感情の正体から、必死に目を逸らし続けていた。




