第10話 好きになる予定なんてなかった
文化祭の準備は、日を追うごとに慌ただしさを増していった。お化け屋敷の内装作業は思ったより手間がかかり、放課後の教室に残って作業する日々が続いていた。
「穂乃果、それ持ってて」
「働いて」
「疲れた」
「さっき休憩したばかりですよね」
「休憩は何回してもいいものでしょ」
颯真とのこういうやり取りは、もはや教室の日常風景の一部になりつつあった。最初は戸惑っていたクラスメイトたちも、今では特に驚く様子もなく、私たちのやり取りを横目に自分の作業を続けている。それがかえって、この状況の異常さを物語っているようにも思えた。
「穂乃果、褒めて」
「嫌」
「なんで」
「褒める要素がないので」
「今、めちゃくちゃ頑張って壁塗ってるじゃん」
「普通です」
「褒めて」
「……よく頑張りました」
「棒読み」
「褒めてほしいなら要求水準下げてください」
颯真はそれを聞いて、楽しそうに笑った。こういう軽口の応酬が、いつの間にか自然なものになっていることに、私自身が一番戸惑っていた。
そんな折、教室の入り口から華やかな声が響いた。
「一ノ瀬くん、これ持ってきたけど、どこに置けばいい?」
声の主は、私も見覚えのある女子生徒だった。艶のある長い黒髪と、すっとした目元、堂々とした立ち振る舞いが印象的な人だった。確か、香坂瑠璃子という名前だったはずだ。他クラスの生徒だけれど、文化祭の実行委員か何かで、こちらの教室にもよく顔を出しているらしい。
「香坂さん、ありがとう。そこの机の上でいいよ」
颯真は自然な様子で彼女を出迎えた。二人の距離感は、いかにも長い付き合いを感じさせるものだった。
瑠璃子は荷物を置いた後、教室内をぐるりと見回して、私のところで視線を止めた。値踏みするような、それでいて悪意があるわけでもない、興味本位の目だった。
「あなたが、間下さん?」
「はい」
「一ノ瀬くんから聞いてるよ、最近仲良いって」
その言い方に、私は少し身構えた。
「仲良いというか、同じ班なだけです」
「そうなんだ」
瑠璃子はそれ以上深追いすることなく、軽く微笑んで作業に戻っていった。けれど、その後しばらくして、私が一人で作業をしているところに、瑠璃子がふらりと近づいてきた。
「ねえ、間下さん」
「はい」
「一ノ瀬くんのこと、あんまり本気にしない方がいいよ」
唐突な忠告だった。私は手を止めて、瑠璃子の顔を見た。悪意があるようには見えなかった。むしろ、心配しているようにも見える口調だった。
「一ノ瀬くんって、ああいうこと誰にでも言うよ」
その言葉が、思ったより深く胸に刺さった。
「……そう、なんですか」
「うん。優しい言葉とか、特別扱いっぽい態度とか、私も昔さんざん経験したから」
瑠璃子はそう言って、少し遠い目をした。その表情には、単なる噂話以上の、実感のこもった重みがあった。
「べつに、間下さんを脅かすつもりで言ってるんじゃないよ。ただ、勘違いして傷つく子、今まで何人も見てきたから」
「……ありがとうございます、忠告」
私はそう答えたけれど、内心では複雑な気持ちが渦巻いていた。
瑠璃子の言葉は、私が最初から自分に言い聞かせてきたことと、ほとんど同じ内容だった。一ノ瀬颯真は誰にでも優しい。だから、自分だけが特別だと思うのは間違いだ。
それなのに、今その言葉を他人の口から聞かされると、想像していたよりずっと重く胸に響いた。
――やっぱり、私は特別ではない。
その事実を、改めて突きつけられたような気がした。
その日の作業が終わった後、私はいつもより早く教室を出た。颯真に話しかけられる前に、一人になりたかった。
家に帰ってからも、瑠璃子の言葉が頭から離れなかった。
――やっぱり、私は特別ではない。
そう思った矢先、颯真からメッセージが届いた。
『俺、なんかした?』
その短い一文が、妙に胸に痛かった。
既読をつけたまま、返事ができなかった。
少しして、もう一度画面が光る。
『怒ってる?』




